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短編小説「ハイヒール・エレジー」

「僕があの人に惚れたのは、多分ハイヒールのせいなんです。」

彼はなぜか申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
傍から見るとまるで私が問い詰めているように見えやしないかと、私はそんなことばかり気にしていた。

その青年は私の母方の従弟なのだが、今年の春から私と同じ大学に通っており、時折様子を気にかけてそれを叔母さんに報告してあげている。

しかし、6月も半ばを過ぎ、蒸し暑さが洒落にならなくなってきたこの頃、彼は大学を休みがちになっているらしい。

彼の面倒を見ることに関して叔母さんから密かに報酬までもらってしまっている私としては、立場上事情を聴かざるを得ないと判断して、駅近くの喫茶店に彼を誘った。

こういっては何だけど彼は中々カワイイ顔をしており、早くも大学では人気を集めつつあるらしいという噂も聞く。
もし大学の人間がこの現場を見てあらぬ誤解を招いたらどうしよう。そう周囲を警戒している私に、彼はいきなり先ほどのセリフをパスしたのだった。

彼の登校拒否の理由は、失恋だったらしい。

彼には悪いが舌打ちしそうになった。ありがちな理由ではあるけど、ありがちすぎて拍子抜けだよ。こちとらもう3年は音沙汰なしだってのに。
まあ、18歳の青少年にとっちゃあ十分重大事件なんでしょう。

「あの人と出会ったのは確かあの日は4月の21日です。」

私がパスを返すのを待たず、彼は話をつづけた。
なるほど、この子の失恋話を聞くのが今日の私の仕事なわけか・・・。
よろしい。今日ばかりは会話のキャッチボールは諦めて、私はキャッチャーに専念してあげようじゃないか。可愛い従弟のためなら仕方がない。
この報酬は叔母さんからたっぷりいただくとしよう。

以下、従弟の科白、というか独白。
___________________________

その日はバイトの面接があって駅前の繁華街に行ってたんです。せっかく大学に入ったんだしって思って。

それで、駅前の指定されていた場所で人が来るのを待っていて、その時にあの人に会ったんです。とにかく驚きました。
目が大きくて肌が白くて、でもそんなのは飾りに思えるくらい、存在自体というか内側から出る雰囲気みたいなものがとても華やかな人だと思いました。
今まで見たことがないっていうか、テレビとか雑誌の中にしかいないと思ってたような女の人が、突然僕の肩をたたいて目の前に現れたんです。

「君がバイトの子?」
「は、はい!宮内です。」

震えて答えました。耳の中から喉の奥まで、くすぐるみたいに響く声でした。
それから彼女の案内でバイト先に向かいました。本当は道を憶えながら行かなきゃいけなかったんですけど、憶えたのは彼女の声とか髪型とか服装とか、履いているハイヒールとかだけでした。

そう、惚れたっていうなら、僕が惚れたのはきっとあの時なんです。つまりあのハイヒールでコツコツと音を立てて、コンクリートを刺すようにして歩くあの姿にきっと僕は惚れたんです。

それで歩きながら彼女はいろいろなことを僕に聞きました。他愛もない事です。大学のこととか、出身のこととか、住んでるところとか、もしかしたらお姉さんのことも話したかもしません。すいません。
僕もいろいろ聞き返したんですけど、彼女は自分のことは何にも話してくれなくって。

そのうちに店につくと、店長よんでくるね、って言って中に入って、店長は出てきたんですけど彼女はそのままどこかへ行ってしまったんです。

面接は無事合格して、僕はその店で働き始めました。バイトを雇うこと自体あんまりなかったみたいで、雑用ばっかりでしたけど。ああ、小さなバーでなんです。
すぐに彼女はその店の常連客だとわかりました。大抵は何人かの男女連れで来てたんですけど、たまに一人で来るときもありました。その時は、奥から2番目のカウンター席が彼女の指定席で、そりゃもう一生懸命話かけましたよ。ちょうどその場所、カウンターの内側は洗い場だったんで、わざとゆっくり洗い物しながら。

ネイル褒めたり、ピアスほめたり、好きな音楽とか映画の話したり、でも結局お酒の話が一番盛り上がりましたね。僕が何にも知らないもんだから彼女はいつも勝手に講義を始めちゃって、ちょっと呼ばれてその場を離れたら、戻ってきたときには急に不機嫌になってたりして。
・・・本当に楽しかったんですよ。あの時は。
そうだ、彼女はやっぱりいつもハイヒールを履いてた。

その日、一人で来た彼女はなぜかいつもより不機嫌で、というより何か思いつめたような顔をしていて、飲み方もめちゃくちゃでした。雨が降っていたのでお客さんはまばらでした。深酔いして、うつむきながらグラスをくるくると回転させている彼女に私は思わず、何かあったんですか?と聞いてしまいました。

実は前々から店長に注意されていたんです。お客さんとの会話を楽しむのはいいけれど、距離感は守らなくてはならないって。
僕らはあくまで払ってもらった代金分のサービスしかできない。お金が間に挟まるからこそ店と客という関係性でお互いを守ることができる。
こういう仕事は、夜ごとに新しい出会いが流れ込むから、そのたびに人間同士としてぶつかっていたら、いつか出会いに疲れてしまう。
出会いに疲れた人生なんて、生きた心地がしないだろう。

店長は、彼女が来るたびにそう言ってくれました。今思えば店長の言う通りでしたね。

「私と、来てくれる?」

僕は返答に困りました。店長の言葉が何度も頭で響いて。洗い物の手も止まってしまって。
でも、彼女が回すグラスが空になっているのが見えて、それがどうしても、見ていられないくらい寂しく思えて、それで、

「はい。必ず。」

そう答えるのが、彼女に、彼女のその状況に、一番似合っていると思ったんです。

彼女は、店が終わったら最初に会った駅前のあの場所に来てほしいと僕に言って店を出ました。

僕は本当に迷ったんです。彼女の様子はどう考えても普通じゃなかったし、そりゃあ誘い自体は嬉しかったですけど、弱みに付け込むような真似はしたくはなかったんです。それに店長の言葉もありましたし。

もう閉店まで店長の顔なんてろくに見れませんでしたよ。
だけど僕は行くことに決めました。何か抱えるものがあるなら、おこがましいかもしれないけど僕が彼女の助けになれればと思って。

「なあ宮内、お前が他人にしてやれることなんて、お前が思ってるよりもずっと少ないんだぞ。」

閉店して店を出る時、店長が片づけをしながら僕に言ったんです。

「他人同士なんて、何をしてやれるわけでもないんだ。どんなに救ってやりたくても、どんなに救われたくっても、相手の何を変えることも出来やしないんだ。それが例え互いの望みだったとしても。金と酒の力を借りても、カウンター越しに愚痴を聞くので精一杯なんだ。」

店長が正しいんだと、その時はっきり分かったんです。僕が今からしているのは、酔った勢いの自暴自棄と同じなんだってわかってしまったんです。

「・・・お疲れさまでした。」

それだけ言って、僕は彼女に会いに行きました。

あの人が通ったと思う道を歩きました。コンクリートですから足跡なんかないですけど、僕にはわかりました。あのハイヒールが道路のどこを突き刺して穴を開けたのか、僕には色までついてわかる気がしたんです。
ロングコートから伸びる細い足を掲げるように持ち上げるあのヒールが、交互に振れる振り子のように、厳かに地面を打ち鳴らして踊るあのハイヒールが、僕には見えたんです。

いつの間に駅前についていたらしく、目の前に彼女が居ました。
彼女もやはり来ないと思っていたらしく、驚いた顔をしていました。

「・・・待ってたよ。」

彼女が店をでた時から1時間ほど経っていたので、多少酔いが覚めてしまったのかもしれません。なんだか恥ずかしそうに、もじもじとしながらそう言う彼女は、バーにいる時よりも10歳くらい若く、いや幼く見えました。

「お待たせしました」

まあ、僕も照れてましたけど。
ともかくそのまま僕たちは彼女に家に向かって歩き始めました。

その時は二人で並んで歩きました。
それで初めて歩いてる彼女の顔を見て、最初に会った時はあんなに優雅に、華やかに歩いていた彼女が、実はこんな顔をしていたのかって思ったんです。

彼女はもう成人しているんで、僕より二つ以上年上のはずなんですけど、まるで小さな女の子みたいな顔で僕の横を歩いていたんです。あの後ろ姿に会った威厳も脅しもなくなっていて、路地裏の暗がりに、横にいる年下の僕にすら怯えて、小さな歩幅で歩いている彼女がほとんど別人みたいに見えました。

彼女の酔いが覚めたように、僕の中にあったあの何か、幻覚を見せる熱のようなものも夜風に当たって覚めてしまったのでしょうか?
彼女の美しさは何も変わらないのに、その幼げな横顔だって僕は振り向かせたくてたまらないのに、僕はその何かを置き去りにして歩いていたんです。

家に着くまでの間、彼女あまりしゃべりませんでした。僕が何か聞けば、短く答えるくらいで。途中でコンビニに寄って何か買おうかって言っても、お酒もつまみも家にあるからいいって言って、歩き続けました。

実際は大した時間歩いたわけじゃないんですけど、家に着いた時はなぜだかずいぶん遠くまで来た気がしました。

彼女の家に上がってからは、まあ色々ありまして。
ええ?いや、いいでしょう、そんなこと言わなくても。いやそりゃ隠したいですよ。
ともかく、その夜は彼女の家で泊まりました。

次の日の朝、彼女は僕のバイトのシフトを聞いてきたんです。出勤日はいつかって。嬉しかったですよ。素直に。
店長の言いつけを破って、結局彼女の悩みみたいなことも聞き出せないままでしたから、彼女に会いに行ったことに意味があったのか正直わかりません。でも、彼女が僕のシフトを聞いたってことは、彼女が僕に、また会おうって言ってくれたようなものだと思いましたから。ただよかったって思ったんです。

でも、それは子供っぽい思い込みでした。
彼女がそれから僕に会いに来ることはありませんでした。

彼女の質問の意味はつまりはただの拒絶だったんです。それを知ってから僕は恥ずかしくてたまらなかった。
あの浮かれあがっていた僕の目を覚ましてやりたくなったんです。どうしてあの会話を、彼女との楽しい会話をまるで自分の手柄のように扱えたんだろうかと、どうしてあんなことで彼女を癒して見せたつもりになれたんだろうと、僕は思わずにいられませんでした。

店長の忠告を無視したあの時の意地も、彼女を背を追った時のあの熱も、みんな子供の遊びみたいに幼稚なものだったように思えてしまったんです。
つい今まで自分が心血を注いでいで、世界の全てだと思っていたのに。

それが僕はたまらなく悔しくて、恥ずかしかったんです。

___________________________

「それからは、もう何をするのも手につかなくって、彼女のことを思い出すと大学へ行こうという気にもならないんです」

「なるほどねえ。」

振られる前に捨てられたって感じだ。
見方によってはラッキーと言っていいかもしれない。
変に関係が続いてから捨てるよりよっぽどダメージが少なくて済む。
おそらく彼女の方もそれを承知で姿を消してあげたのだろう。
一晩だけ寝てやったのは、せめてもの慈悲だろうか。

「すいません。こんなこと、お姉さんに相談しても仕方がないのに」

「うーん。まあ、そんなこともないけどね。」

幸運にもしてやれることはある。これがもっと単純に、悪い女に騙されたとか、好き同士なのに別れざる負えなかったとかいう話だったら、私にできることはほとんどなかっただろう。

しかし、今回の話なら、今回に限っては、この私の手で彼を大学に復帰させることができる。
なぜなら彼が今大学へいけないのは、件の彼女が彼の前から姿を消した理由を勘違いしているからだ。

彼は今回の事件を、身分不相応な大人に女性に恋をし、あっけなく振られた話という話だったと思っているようだが、私に言わせればこれはそんな安い青春ドラマなんかじゃない。

「ねえ、君はどうして、バイトの面接の案内人をただの常連客が任されたんだと思う?」

「え、それは多分、人手が足りてなくって、彼女が店長から信頼されていたから・・・。」

「でも店長は、客とは一定の距離を守るのが主義なんでしょ?
そんな人が人事と経営に関することを一部でも客にやらせるかしら?」

「それは・・・。」

「それともう一つ。彼女の指定席はなぜ洗い場の真正面だったのかしら?」

「まあ、店の一番奥の方ですし、一人で静かに飲みたいときは隅の方が落ち着けるんじゃないですか?」

「その隅の席の正面には頻繁に店員が立っている洗い場があるんでしょ?
一人でしみじみってのがお好みなら、あまりいい場所じゃないと思うわ。」

「別になんでもいいですけど、そこの理由ってそんなに大事ですか?」

「多分ね。」

実際の所、正解は本人しか知りえない。これはただの推測で根拠は女の勘だ。
だけどね青年。女の勘を甘く見る男は大抵痛い目見るんだよ。

「彼女がその席を指定していた理由は、案外君と同じかもしれないよ」

「僕と同じ?」

「お喋りだよ。君が彼女との会話のためその場所にこだわったように、彼女も誰かとのお喋りのために、その席にこだわったんだと思う。」

彼がバイトに入る前から店にいるスタッフ。その誰かと話すために彼女はあえてその洗い場の前を占領したのだろう。

察しの悪そうな彼も、なんとなく理解してきたらしい。

「・・・。それはつまり、彼女には最初から、なんというか・・・。」

「狙ってる男がいたんだね。多分。」

彼は下を向いて、軽くため息をついた。
ただ振られただけでなく、眼中にすらなかったのだ。彼の抱えていた悔しさと恥ずかしさは今倍増しているだろう。

しかし、私がこんな話をしたのは、彼を追い込むためではない。もっと大事な真実がある。

「誰だと思う?」

「え?」

「彼女が狙っていた男だよ」

彼は少し考えて、まさか、とつぶやく。

「その女は、君のことなんか見えちゃいなかった。最初から店長さんに夢中だったんだよ。」

バイトもほとんど雇わない小さなバー、スタッフの数もそう多くはないだろうし、店長自ら洗い場に立つことも少なくはないだろう。わざわざ面接の案内を引き受ける意味だって、それぐらいしか考えられない。

しかし、店長は彼女に好意に気づきながらも、それに応えようとはしなかったのだろう。店長は、この青年を雇って洗い場を任せ、彼女と距離を取ったのだ。

「店長がよく君にしていたというお説教も、要は自分のことだったんだね。当事者だからこそ、何も知らずに舞い上がる君を放っておけなかったんだろう。」

「店長は、本当に優しいひとですから・・・。
でも、それじゃあの日、彼女はどうして僕を誘ったんですか?興味のないどころか、自分の邪魔をしている男をどうして。」

「むしろ邪魔だったからこそ、じゃない。」

「どういうことです?」

「彼女の目的はただ君のシフトを把握するためだったんだよ。君に会うためではなく、君を避けるために。彼女は店長とお話ができる日を狙い撃つためだけに君を誘い、惑わして、君の信頼をだまし取ったんだ。」

彼にとって彼女は、どうしても否定しがたい存在だった。彼女の全ては自分が愛するためにあるのだとすら思えたのだろう。
だから彼は彼女を悪者にすることはできずに、自分を責め続けていた。自分を振った人間なんて嫌ってやるのが仁義なのに、それすらせずに彼女の正しさをひたすら信じたからこそ、彼は拒絶の意味を探しさまよってしまったのだ。

私がすべての責任を顔も知らない彼女に押し付けて、彼に彼女を恨ませるこだけで彼を救ってやれたのだった。彼を彼が信奉する彼女の化けの皮をはがし、大した女じゃなかったんだから、早く忘れろといかにも年長者らしく説いてやるだけで十分だった。

「やっぱり、ハイヒールのせいだと思います。今回のことは。」

店を出た後、彼は別れ際に笑って言った。

「最初に会ったあの日、彼女の背後からあのハイヒールを見た時に、きっと僕はもう何もわからなくなってしまったんです。彼女のことも何もかも。」

午後の日差しはもう随分強くなっていて、彼は羽織っていたワイシャツを脱いで、Tシャツ一枚で歩いてゆく。後ろ姿で眩しそうに手を目に当てている。

彼は本当にハイヒールなんかに惚れていたのか?
カウンター越しじゃあハイヒールなんか見えやしないのに、彼は嬉々として彼女と会話を語ってくれたじゃないか。
あんなに無邪気に彼女への愛を説いていたじゃないか。
部屋の中の彼女は、ベッドの上の彼女は、おそらくは裸足だったのに。


彼女は今どうしているのだろう。邪魔者が消えたのを良いことに店長にアプローチをかけているのだろうか。


本当は、シフトを知りたいだけだったなら別に寝てやる必要はなかったと思う。多分店の外に連れ出す必要もなく、カウンターの指定席で物憂げにグラスをいじりながら聞いてやれば、彼は喜んでシフトを教えただろう。

彼女はきっともわかっていたと思う。
しかし、それでも彼女は彼と一夜を過ごした。過ごしてしまったのだ。


彼はその後無事大学に復帰した。バイトの方はどうなったのか知らないが、まあ今の所問題はない様子だ。

今回の件で非があるのは、やはり彼女なのだろう。しかしそれは、その気のないのに男を手玉にとった悪女であることに対してではなく、むしろ悪女になりきることができなかった詰めの甘さに対してだ。

おかげでその尻拭いをさせられるはめになった身としては件のバーに乗り込んで文句も言い所だ。

しかしまあ、取り合えず私は、叔母さんから回収した臨時報酬で満足しておくことにした。









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