個性ではなくただそのままの自分らしさ
60才定年退職後、ネット古書店をはじめた。思ったより加齢を感じないし、今まで知る由もなかった誰かと繋がれる。自分のいちばん好きなものを通して、これを幸せといわずしてなんというだろうか。毎日、何が起こるか楽しみでしょうがない。
明らかに時代は変化している。
これは二十年ほど前にある企業の人事面接官に採用におけるポイントについて聞いた話しである。
それによると、常識的知識を有していること。あとは、可もなく不可もなくという人材を選ぶということだった。つまり、上司にとっては、あまり物を知らないというのでは困るが、さりとて、あまりにも物を逆に知りすぎても使いづらいという意味である。
だが、ITの時代、明らかに時代は変わった。その可もなく不可もない仕事をITが変わってやるようになった。ノーミス一生涯保証付きで。
上役のスケージュール確認から、どの会議室の手配、データを入れれば、入り組んだ企業計画の見積もりもすんなりと算出する。考えられるリスク費のオマケ付きで。よって、可もなく不可もない社員たちの仕事がなくなりつつある。
では、我々、ごくごくフツーの人間はこれから何をすれば良いか。どう生きれば良いのか。
それはもう、ただ人間らしく生きるほかないと思う。ITが絶対できないそれを。きっと、今後はいかに人間らしく生きるかで、その人の価値のようなものは定まってくるような気がする。そう、所謂、優良企業の肩書が以前ほど効力がなくなってきている。
そういえば、最近、あの勝ち組、負け組というのを以前より聞かなくなったような気がする。何を持ってして、勝ちか負けか、不透明になりつつあるのだ。ギロッポンのマンション住んで、毎晩、のどぐろの刺身とイベリコ豚食べていれば、勝ち組かという感覚は完全に過去のものになりつつある。なんでも、あの高層マンションの眺めというのは、どんなにそれが好ロケーションであっても10日で飽きるらしい。
財布を忘れたサザエさんが、おサイフケータイでようが足りる時代、うっかり八兵衛こそが企業の宝となる時代。
今後そのミスも、ミスをすることが必要になってくる時代がきている。なぜなら、人間は、間違いから何かを発見する。そうやって、人類は進歩してきた。いわば、人類の歴史とは間違いを積み重ねた歴史である。逆の意味からいえば間違いのない世の中は進歩しないことになる。そうした意味において、今後、間違うということは、ある意味、重要な意味を持ってくる。そのアクシデントによって、リカバリーによっては、普段は、歩かない道を歩くことになる。視野が広がるのはもちろんだが、そこで新たな出会いを生むこともある。出会いは新たな可能性を生む。これは、間違えのないノーミス一生涯保証付き世界においては元から起こり得ない話しである。
企業は、優良企業ほど、あるべき姿としての、標準化、マニュアル化、etcに邁進してきた。所謂、誰がやっても同じ状態になるという標準。とはいえ、その型にはまらず、はみ出してしまう方々もおられることも事実。企業はそれに対して、しばし寛大とはいえない。恐れるのは、すべての人間が標準的な考えを持ち、そこからはみ出した他を排除するという考え方。
人間らしくとは、その人ならではの個性を持って生きるということである。「私はよく個性がないと言われます・・」いや、個性というより、自分らしさという意味である。我々は、今まで、自分らしさを殺し、個性を制し、企業、社会のために頑張ってきたのだ。だが、どうだ、そう創造主である神はようやくここに来て、人類に個性、自分らしさを求めたのである。つまり、おのおのの個性、その人らしさを尊重しろと言っておられるのである。創造主である神がこの惑星の先行きを危うんでおられるのである。
これからは、個性の時代である。自分らしさの時代である。自分が自分のやり方で、やりたいことをやる。それだけで、ほぼ人生勝ち組ではないだろうか。
それぞれの個性が、新しいシューズを履いて、新しい時代を一歩ふみだす時がきている。
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