【トピック】子を13人生んでいても「母性だけが絶対ではない」。与謝野晶子に見る女性観
見出し画像:さかい利晶の杜内、与謝野晶子記念館入口
与謝野晶子(1878-1942)は、生涯で13人の子を生みました(うち2人は死産と夭折)。
私に出産の経験はありませんが、晶子の生活を思うとき、ものすごく大変だっただろう…という想像はできます。
しかも彼女は一家の稼ぎ頭であったのです。
子を生み育児をしながら、晶子は自らの歌集も次々に生み出していきました。
家計にゆとりはなく、夫の寛はよそ見ばかりしています。
恐らく完全なワンオペ家事だったことでしょう(お手伝いさんはいたらしい)。
いったい和歌の構想はどうやって考えていたの?それもまた才能ですね。
晶子の子育て和歌を紹介
(『』は歌集名)
・腹立ちて 炭撒きちらす三つの子を 為(な)すにまかせて鶯(うぐいす)をきく
『青海波』明治45年(1912)1月
3歳の我が子。忙しくてあまり構ってやれてない。子は癇癪を起こして部屋を散らかしている。私はそれをするに任せて、庭から聞こえる鶯の声を聞いている。
3歳の子とは、三男の麟(りん)のことだと言われています。
さすが和歌の女王。貫禄があります。
・秋の夜の 灯かげに一人もの縫えば 小さき虫のここちこそすれ
『青海波』
秋、子どもたちが寝静まった夜に繕い物をしているのですね。
晶子が出た堺の女学校は、着物1枚を20分で縫い上げる早ぬい競争で知られた学校です。晶子も裁縫は得意でした。
・子らの衣 皆新しく美しき 皐月一日(さつきついたち)花菖蒲咲く
『佐保姫』明治42年1909年5月
家計が苦しくても、たまには子どもたちの服もパリッと新調しました。
清々しさと、心地よい緊張感が感じられる歌です。
晶子の子どもたち。キラキラネームもありました
晶子の子一覧
長男 光(ひかる)、二男 秀(しげる)、長女 八峰(やつお)・二女 七瀬(ななせ)→双子、
三男 麟(りん)、三女 佐保子(さほこ)、四女 宇智子(うちこ)、四男 アウギュスト、五女 エレンヌ、五男 健(たかし)→(1916年無痛分娩法で出産)、六男 寸(生後夭折)、六女 藤子
ちょっと待って…?と聞きたい名前もありますが、順番に見ていきましょう。
森鴎外が名付け親です
森鴎外の歌
・聟(むこ)きませ ひとりは山の八峰越え ひとりは川の七瀬渡りて
晶子に長女八峰(やつお)、二女七瀬の双子が生まれた時、森鴎外が名付け親になりました。
鴎外は、二児の名前を和歌に詠み、晶子へ贈っています。素敵ですね。
シベリア鉄道に乗ってパリへ。その後に生まれた子は
四男アウギュストと五女エレンヌ。これはいったい?
アウギュストは、晶子がフランスのパリで身籠った子です。
明治45年(1912)5月、晶子はパリで遊学していた夫が恋しくなり、たった一人で会いに向かいました。
交通手段はシベリア鉄道。
当時、ヨーロッパへ行くためには船か鉄道しかありませんでした。上流の旅人たちは船旅を好みますが、鉄道は何よりも早く安く行ける手段です。
福井県の敦賀から船で大陸に渡り、ウラジオストクから鉄道で西へ西へ。
・ああ皐月 仏蘭西(ふらんす)の野は火の色す 君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟
『夏より秋へ』大正3年(1914)1月
鉄道を乗り継ぎ、パリへ向かう車窓からは真っ赤なコクリコ(ひなげし)が咲き乱れるのが見えました。
あなたの待つ異国へやってきたわ。あのひなげし畑のように、あなたも私も赤く燃えている。
結婚11年目。夫である寛は晶子にとって最高で最愛の恋人だったのです。
二人はまるで恋人時代のような新鮮な気持ちで連れ添ってパリを楽しみ、共に欧州を巡りました。
晶子は日本で話題の女性歌人として仏誌のインタビューに応じ、彫刻家のロダンとも面会しています。
そして10月。晶子のお腹には子が宿っていました。
寛より一足早く帰国し、翌年3月に生まれた男子には、ロダンの名にあやかって「アウギュスト」と名付けました。
晶子にとって、ロダンの印象はそれほど強く有意義なものだったのでしょう。
それにしても、名前を日本風にアレンジすることなくそのまま付けているところがすごい。
良いものは良い、ということなのですね。
次に生まれた女子の名はエレンヌです。
これはパリで滞在した宿で仲良くなったフランス人の女の子と同じ名でした。
後にアウギュストとエレンヌは改名しています。やはり不便だったんだね。
晶子が向き合った「母性」とその結論
出産の歌
・悪龍となりて苦しみ 猪(い)となりて 啼(な)かずば人の生み難きかな
明治44年(1911)3月『東京日日新聞』掲載
お産の経験がない人でも、苦しみを直に感じてしまう歌ですね。
晶子は何度も子を生みましたが、お産はなかなか重いものだったそうです。
ある時は出産前に「次のお産でもう会えなくなるかも」と、知人に挨拶するために出かけているほどでした。
上の歌のような苦痛を避ける方法として、五男 健の出産(1916年)は、無痛分娩法で臨んでいます。この結果は体の負担がとても軽く、産後10日ほどで筆を取ることができたそうです。
晶子は、みずからの出産を歌に詠み、産後の安静期には体を休めながらもさまざまに考えを巡らせ、社会への率直な意見や女性観などをどんどん書いていきました。
30代からの与謝野晶子は、社会評論家としても活動を始めています。
平塚らいてうと議論を展開した「母性保護論争(1918年)」はとても有名です。
晶子は、たくさんの子に囲まれた家庭生活の中でも「母性だけが絶対ではない」という一貫した考えを持っていました。
彼女は、与謝野家の経済も家事も引き受け、同時に原稿執筆も果たすというワンダーウーマンだったのです。
しかしこれは非常にシビアなことです。晶子は体力と努力を尽くし、溢れる才能をもってやり切ったと言えましょう。
とはいうものの。
次にご紹介する彼女の言葉を読んだ時、晶子のような強靭さに欠く私でさえも、心の底からグッときてしまい、なんだかポジティブな気持ちになりました。
晶子は前向き。クール。そして熱い。
「晶子先輩!キレてます!」ボディビル大会のコールのごとく、私は彼女に声をかけたくなりました。
晶子の考えを簡単に言えば「一人の人間は、決して一つの絶対的な枠にハマるものではない、いろいろな側面を持っている。だから女であっても、母性が一番だと決めつけるのは合理的でない」ということでしょう。
現代の私たちは、理屈ではそれを知っています。
しかしいったん社会に出れば、母であるとか未婚であるとか、組織の上下関係であるとか、社会的立場の理想像に縛られてしまいがちです。そして息苦しくなる。
その息苦しさの吹き溜まりの一つが、現代における少子化現象のような気がします。
もしも、100年前の晶子が言ったことが令和の日本人にも浸透してくれば、人々が感じているプレッシャーや不安が少しずつ和らぎ、日本の少子化も改善していくのではないか。そう思うのは私だけでしょうか。
最後に晶子が31歳で詠んだ和歌をお送りします。
・わざわひ(災い)か とうとき(尊き)ことか知らねども われは心を野ざらしにする
『佐保姫』明治42年(1909)5月
晶子先輩は、腹も肝も、据わっております。
次回こそ最終回です。与謝野夫妻の東京の住まい跡地を訪問!
参考文献
『君死にたもうことなかれ 与謝野晶子の真実の母性』茨木のり子/著、2007年、童話屋
『女三人のシベリア鉄道』森まゆみ/著、2009年、集英社
『与謝野晶子評論集』岩波書店
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