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10年越しの夢を捨てる時が来た #10

「佐藤さんは、いつもお弁当を自分で作ってるんですか?」

 昼食を摂るために休憩室にいると、不意に声を掛けられた。いつも看護師長との面談の時に、隣でパソコンを操作している事務スタッフの中村だ。妻子のある中村は、いつもコンビニ弁当を持って休憩室に現れる。穏やかな口調で、いつも目尻に皺を寄せている眼鏡をかけた細身の男性だ。
「はい。でも、作ってるなんて大層なものではないですよ。前日の残りを適当に詰めているだけなので」
 退職の話をし始めた頃から、看護師長はもちろん中村ともなんとなく気まずさを感じていた。もちろん業務上必要な会話はきちんと行ったが、全く関係のない世間話をするような日はもう来ないと思っていた。
「え、でも佐藤さんって実家暮らしですよね。お母さんが作ってくれないんですか?」
 中村の言葉に、夏菜子は少し驚いた。そして、あぁやはり、そんなことすら知り合わなかった1年間だったのだと肩を落とした。
「母はもう亡くなっています」
「あぁ、そうなんですね。そうするとお父さんと暮らしてるんですか?」
「はい。でも父とは同じ家に住んでいるというだけで、生活は共にしていません。食事も洗濯も完全に別れていますから、顔を合わせない日も多いです」
 夏菜子は、父親が退職をしたタイミングで実家に戻った。趣味も友人も、仕事とお金以外に何も持ってない父親が仕事を辞めるとなれば、あっという間に認知症になるのではないかと懸念したことと、家や土地やらの財産をしっかりと相続したい下心から、同居を再開した。主には下心で、家族愛とかそういうものを引っ張り出されるのは大迷惑な話だ。
「へー、そうなんですね。お父さんと仲良くないんですか?」
 今、それを聞くのか。面談の時には何も聞いてこなかった癖に、なぜ今、夏菜子にとっての聖域を荒らすような真似を気軽にしてくるのか。そんなことを夏菜子が思っても、中村には届く訳がない。
「うちの父親は、とても変です。身内だから大袈裟に貶しているとかではなくて、なんていうか……診断とかはされていないですが、ADHDとか自己愛性人格障害とか、そういった類の何かがある人だと、ずっと小さい頃から思っています」
 弁当箱の中身を口に放り込みながら、中村の方を見ずに淡々と伝える夏菜子には、中村がどんな表情をしたのか分からない。
「そういう感じなんですね」
 少し言葉に詰まったような中村を困らせてやりたいような感情が湧き出すのを感じながら夏菜子は続けた。
「コミュニケーションがまともに取れません。空気を読むとか相手の表情を読むとか、そういったことが一切できないので。何かを話していても論点がどんどんすり替わっていくし、放っておくと1時間でもひとりで話し続けますよ。私が全く聞いていないとしてもお構いなしですから」
 相変わらず中村の方を見もしなかったが、中村は急に核心をついてきた。
「コミュニケーション取れないって、暴力とかもあったってことですか」
 どういう思考過程でもってそこに飛んでいったのかは不明だが、それこそが夏菜子を形成する全てであることには間違いなかった。
「ありましたね。それで私、おかしくなっちゃったんですよね〜」
 投げやりな気持ちだった。今更どうにもできないことをこんな風に雑に打ち明けるのは本意ではないけれど、環境のせいにするなと言い続けた看護師長に何らかの形で伝わることもまた、どこかで望んでいた。
 何もかも、今更どうこうしたい訳じゃない。どうしようもない虚無感に襲われ、口をご飯粒で塞いだ。中村はそれ以上、何も聞いてこなかった。

 カウンセリングを予約した週は、気が気でなくて落ち着かなかった。2日程前から全身の痒みで苛ついたが、理由は考えるまでもなかった。

 前日になり、友人家族と食事をしている際に急に過去の記憶が蘇ってきて苦しくなった。お気に入りのタオルケットがないと眠れなかった幼少期に、自分の体より大きなタオルケットを引きずって歩いて、踏んで転ぶと危ないとよく母に叱られていた。
 ある日、その日もタオルケットを身に纏って、階段を降りようか登ろうかしていた時。傍にいた母に、タオルケットの裾を踏まれた。当然夏菜子はバランスを崩し、階下へ転げ落ちた。タオルケットがクッションになって大きな怪我はしなかったが、なぜそんなことをされたのか夏菜子には分からなかった。

 思い出すべきではない記憶が、きっとまだたくさんある。蓋を開けたくない。何一つ思い出したくはない。

 カウンセリング当日は、やたらと眠くて眠り続けてしまい、予約時間が過ぎてもベッドから起き出すことができなかった。

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