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『我が家の新しい読書論』5-1

網口渓太
 おっほ、よくこれだけ散らかしたね。

EMちゃん
 まぁ、ひどい。

ESくん
 無我夢中でメイクの練習をしていたら、この様です。

網口渓太
 いや、すごいね。まるでフランシス・ベーコンのアトリエみたいだ(笑) このままだと生活に支障が出ると思うから片付けようか。手伝うよ。ではでは、ついでと言っては何ですが。

 散らかった部屋を片付けたいとします。ゴミ袋を用意して、洋服はクロー
ゼットにしまって、マグカップはキッチンに、不要な郵便物は捨てて、本は本棚にもどす。すっかり片づくまでにはうんざりするほどの工程がありますが、うんざりする状況であればあるほど、すべて先立ってやるべきことがあります。「どこから手を付けるかを決める」ことです。
 その見通しなり踏ん切りなりがついてやっと、実際に手を動かしたり、置き場所のルールを決めたりといった片付け作業が始まるわけです。この「どこから手を付けるかを決める」という最初の決断をしない以上、いつまでたっても部屋は片付かない。「片付けなくっちゃ」というドヨンとした気持ちを抱えたまま、また次の週末をむかえるわけです。

『才能をひらく編集工学』安藤昭子

ESくん
 言われなくてもやろうと思っていましたよ、さすがにこの様ですからね。でも手を貸していただけるのは助かります。

網口渓太&EMちゃん
 はいよー。

網口渓太
 じゃあ、EMちゃんは道具類の片づけを、ESくんは壁や床についたインクの拭き掃除と必要不必要な物の選別。ボクは様子見をしつつ、茶々入れという感じでやっていこう。

ESくん&EMちゃん
 はいよー。

 一見途方もないような状況に見えることも、最初の楔さえ打ち込めれば、そこから情報の編集は立ち上がります。部屋の片付けやタスク管理に限らずとも、「情報」というものは何であれ、「分けられる」ことを待っています。この最初の一歩を、松岡正剛は「ややこしい “情報の海“ に句読点を打ってみること。」と言いました(松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫2001年)。

『才能をひらく編集工学』安藤昭子

網口渓太
 ちなみにこの「情報の海に句読点を打ってみる」っていうのは、ちょくちょく話している松丸本舗の「テンマル」のこと。「、」と「。」ね。「、」を打つ、「。」を打つことで、まだ見えていなかった情報のカタチが掴めてくるんだよね。

 「句読点」は、そこに意味の「分節」をつくっていきます。そうして「区切る」ことで、わたしたちは情報を取り扱いやすくしているし、どこで「区切る」かで新しい意味が立ち上がることも知っています。

 「ねえ、ちゃんとしてちょうだい」と叱られているのかもしれないし、「ねえちゃんと、してちょうだい」と誘われているのかも。「ねえちゃんとして、ちょうだい」という姉の主張もありうる。
 どこに句読点を打つかで、一文の意味が変わります。情報には常に取り出されうる意味が潜伏していて、「分節化(アーティキュレーション)することを通してしかるべき意味が表面に出てくるのです。「分節が文脈をつくる」と言ってもいいし、「文脈によって分節化される」とも言えます。

『才能をひらく編集工学』安藤昭子

EMちゃん
 たしかに。特に夢中になってくるとそうなんだけど、誰かと同じ経験をしているとき、ワタシは自分の好きなカルチャーとかアートの文脈で、情報を分節して分かろうとしている気がするわ。自分の文脈の流れになかった情報も意図的に取り入れていかないと、知識が片寄って知見が狭くなりそうね。知見が狭くなると、応用力が衰えていく。

ESくん
 できた!

網口渓太
 もう? 片付けんの、はやすぎない?

ESくん
 いや、あまりにも散らかしちゃってるから、まず部屋の状況の全体像を知りたくて。前に渓太くんに教えてもらった、イシス編集学校のお題を思い出して、ちょっとやってみた。

 ・ソファ
 ・灰皿
 ・金髪の女性の写真
 ・絨毯
 ・バスタオル
 ・化粧水
 ・化粧道具
 ・ヘアブラシ
 ・ガラス製のコーヒーテーブル
 ・ベッド
 ・文庫本
 ・革のバッグ
 ・ライター
 ・ジャケット
 ・シャツ
 ・サンダル
 ・香水
 ・毛布
 ・冷蔵庫
 ・お皿
 ・パイン缶
 ・ブドウ
 ・氷
 ・ジン
 ・コカコーラ
 ・歯ブラシ
 ・ジーンズ

 まぁ、ボクの部屋じゃなくて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の主人公の部屋のだけど……

片付いているときの部屋の様子

網口渓太
 いやESくんの部屋とちゃうんかい! なんでやねん(笑) まぁ、でも2,3分で30個以上思い出せるとはなかなかいい線をいってますよ。村上龍作品への思い入れは伝わってきた。この調子でこの部屋にあるものも、ESくんがやってくれたように、必要なものと不必要なものに二分してやっていこうか。ではボクもまた茶々入れ。

  あらゆるものは、動きながら、ある時、あるいはほかの時、そこここ
 で一時の休息を記す。空飛ぶ鳥は巣を作るためにある所にとまり、休む
 べくしてほかのある所にとまる。歩いている人は、欲するときにとまる。
  同様にして、神も歩みをとめた。あの輝かしく、すばらしい太陽が、
 神が歩みをとめた一つの場所だ。月、星、風、それは神がいたところだ。
 木々、動物はすべて神の休止点であり、インディアンはこれらの場所に
 思いを馳せ、これらの場所に祈りを向けて、かれらの祈りが、神が休止
 したところまで達し、助けと祝福を得られるようにと願う。

 この哲学では、神はまず「流れる」実体として、とらえられている。この流れるものとしての神は、いたるところを貫いて、流れる。それはまた「創造的」な産出をおこなう実体でもある。創造は、流れの休止点でおこる。つまり、月も星も風も、木々も動物も、すべてが休止という仮の形態をとった、別種の流れにほかならないのである。そこでインディアンは、これら世界に現象したもののすべてを、尊敬するのである。なぜなら、世界に現象しているものはすべて、神である偉大な「流れる」実体の、休止による表現にほかならないからである。

『森のバロック』中沢新一

 中沢新一さんが南方熊楠について書かれている本の中の一節だけど、すごくない? 「創造は、流れの休止点でおこる」。くぅーだよ。つまり閃きやアイデアは流れと休止が交差するあちこちで誕生している。面影ぽいね。物を片付けるたびに思い出が蘇って、部屋が全然片付かないのはご愛敬だ(笑)目の前に広がる”この世界”も、本の見開きに広がる”本の世界”も、どちらもダブルページの世界だから。

EMちゃん
 「人生は小説よりも奇なり」ってやつね。

ESくん
 「一冊の本で人生が変わる」ってやつじゃない?

網口渓太
 ダブルページにしちゃいな。中沢先生が書かれているように、現実は複雑だし、この複雑な現実を知覚するためには、安藤さんが書かれているように、どの程度のサイズ感で情報を分節するかを決める必要がある。ざっくりとね。この感覚が大事。たとえばたくさんの人間が前から流れてくるように歩いてきたとします、ランダムに。そのときに前から歩いてくる人たちの顔とか表情とか気分とか職業とか、いちいちひとりひとり分析していたら、当たり前だけど、ものすごい大変だよね。脳が一気に疲労して疲れてしまう。
だから、オーバーワークになってしまわないように、私たちは自然と目の前のたくさんの人間をひと塊として認識していて、「集団」とか「人の群れ」という風に抽象化する。そうやって、自分と世界の関係性を適切な距離感で保っている。でも最近の社会では、このざっくりとした感じに対して手抜きだとか、適当だとか負のイメージを付けて、きっちり整理整頓された状態を正のイメージとしている。ふたりにはこの正負のイメージをずっと疑っていて欲しいなと思うよ。

ESくん
 アブダクションだね。

EMちゃん
 アナロジーでもあるわね。

網口渓太
 あとアフォーダンスね。じゃあ、カッコイイ部屋にしていきましょうか!

ESくん&EMちゃん
 はいよー。

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