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小説:狐006「前衛芸術」(647文字)

 仕事で信じられないミスをして落ち込んだ日の『狐』にて。
「ナリさんよぉ。病人みてーな顔すんなや。人生なんてあっという間だぞ。悩む暇があんなら笑えや。苦しむ暇があんなら踊れよ」
 スミさんはそう言って、ぎこちなくも陽気な盆踊りに似たステップを踏んでみせた。それは盆踊りとは明らかに異なるふるまいで、憤怒と歓喜を同時に表現したような前衛芸術を思わせるものではあるものの、決して前衛芸術などではなかった。その狂気を存分に吸い込んだ珍奇さと滑稽さに満ちた舞いは、私の胸に突き刺さり、心の底から笑いが込み上がってきた。こんな低俗なことで笑ってしまうとは、とも思いつつ、低俗であるがゆえの笑いだってあるのだろうし、低俗だろうが何だろうが私を笑わせることがスミさんの目的だとしたならば、それは遂げられたことになる。
 そんな訳の分からない踊りで私は、いや、人間は救われることもあるのかもしれない。そう感じた一夜だった。
 こういう人がおり、こういうことが起こりうる。それが『狐』であり、私はそこに価値を見ている。だからまた来てしまう。もちろんマスターに会うのも意義深いことなのだが、ここに集う人間そのものに力があると気づく。

「おいらが来るときだけカズミちゃん来ないのかな?」
 スミさんがしょぼくれる。
 私は首を横に振った。決してそんなことはないはずだ。スミさんの行動はカズミちゃんのそれに影響を与えないように思う。その逆は成立するとしても。

 この『狐』には2パターンある。カズミちゃんがいる『狐』といない『狐』だ。

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