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【「わがまま」の練習】自分と向き合う最高の1冊

「わがまま」の練習、というタイトルから何を思い浮かべるか?


基本的に「わがまま」な人間は好かない。
よほど、その“わがまま人”への愛着が無い限り、非常に面倒くさい。
わがままを許せるのは、家族、親しい知人、そして担任したクラスの子供たちくらいだろうか。
もちろん、こんなことを考えるくらいだから、私も「わがまま」ではない。
根っからの“長男気質”なので、そのあたりは自覚している。

と思うのだが、ここで言う「わがまま」というのは、ちょっと解釈が違う。

わがまま。
それは、他人に影響されずにありのままでいること。

わがまま。
それは、ありのままの自分を肯定すること。

なるほど。
要するに「あれ買って、これ買って、嫌だ嫌だ、帰りたくない、アイス食べたい、チョコ食べたい、お風呂入りたくない」という我儘とは、またちょっとイメージが違う。

とは言っても、その定義からしたって「私」という人物は「非わがまま」なわけだ。
だからこそ、「わがまま」の練習は絶対必要。
「絶対」とつけるくらい、思いっきり必要。

「ありのままの自分って何だろう」
ここ数ヶ月間、ずっと考えている。
私は「非ありのまま人間」だと本気で思っている。

だいぶグダグダな前置きになったが、本著は私にとって深い思考を促してくれる貴重な1冊であった。
振り返りたいことはたくさんあるが、今回は3つに絞って書くことにする。


(1)相手の感情は、相手の責任である

身近にイライラしている人がいるとする。
家族でも同僚でも上司でもいい。
見るからに、ものすっごくイライラしているのだ。

そのイライラは、大なり小なり周囲に影響を与える。
同じ空間にいる自分自身にも多分の影響をもたらしてくる。
ここで陥りやすいのが、その相手のイライラを感じて、

「え、もしかして私、何かした?」
「どうしようどうしよう、イライラしているよ、どうしよう」
「マズいマズいマズい、なんとかしなきゃ」

と、まるで自分のせいでもあるかのように悩むことだ。

私は、まんまこれが当てはまる。
相手のイライラを、まるで自分事のように捉えてしまう。
身近な人であればあるほど、その影響力は計り知れない。

そうなると、もう平常心は保てなくなる。
つまり、相手の感情を自分の責任としてしまっているのだ。

が、「それは違うのよ、ふふふ♡」と優しく教えてくれたのが本著である。
相手の感情は、ズバリ相手の責任。
ついつい「自分の責任」と捉えてしまう私は、「相手」と「自分」との間に、

一線を引く

ことが大切である。
これ、見方をちょっと変えると、とんでもなく傲慢だということに気付く。
相手の感情を自分の責任にするということは、つまり、

相手の心を、まるで自分のもののように扱っている

ということだ。
そんなバカな話があってなるものか。
そんな魔術師のようなチカラは、私にはない。

相手がイライラしていたら、心の中でこう唱えよう。

「あなたのイライラは、あなたが処理すべき問題であり、あなた自身の責任。自分が背負うべきモノではない!それは私のイライラでは、なーい!」

ただし、このように一線を引いた上で自身を省みることは大切だと思う。



(2)自分を大切にしているか

先の例からも分かることだが、私は人との境界線の引き方、つまり適切なキョリの取り方が非常に下手くそだと感じている。
これはなにも今になって始まったことではない。
幼い頃から決して上手くなかったんだ。

この不適切なキョリの取り方は、私のなかで「当たり前」なこととして存在している。
既に習慣化されているのだ。
私にとっての「なじみ深い人間関係」として潜在意識に染み込んでいる。

“不安定でつらさをともなう人間関係に、なぜか縁があり、抜けられない”
“ひそかに痛み・傷・怒りを抱えている”

思い返せば、そういう節は多々ある。
自分よりも相手を優先していることの方が多かった。
自分と相手とのキョリが、時に近すぎるために自分を犠牲にしてきた。
やや強引な言い方かもしれない、この「犠牲」という言葉。
妙にしっくりくる自分がいるのも事実だ。

その結果、私は「自分を大切にする」ということができていない。
そもそも「自分を大切にする」ということにすら意識が向いていない。

自分のイライラは、自分の中で処理しようとしていた。
自分の中で、その気持ちを押し殺そうとしていた。
それもまた私の「習慣」である。

「自分を大切にする」って何だろう?
本著を読み、私なりに考えた。
安直な答えにはなるが「自分で自分のことを認める」ということじゃないか。

頑張った自分に「頑張ったじゃん、俺!」「よくやったよ、俺!」と声をかける。
そんなことから始めてみてもいいのかな。

とりあえず…

ここまでよく書いたぞ、俺。
読みにくくてもいいんだ、俺。
自分が楽しく読めれば、それでいいんだ、俺。
嫌いじゃないぞ、この文章、俺。

よし。



(3)話すことで、思いを手放す

何か問題にぶち当たると、とりあえず一人で抱え込む。
“一人脳内会議”が延々と続く。
そんな私だから、

「ねえねえ、ちょっと聞いてよぉ、この間ウチの上司がさぁ…」

と、とりあえず誰かにしゃべってみる人の気持ちは理解できない。

が、こういう時こそ誰かにしゃべることが大切なんだと学んだ。
自分一人で問題を抱え込んでしまうと、「自分」と「問題」が混同してしまう。
もうワケがワカラナクなるのだ。

そんな時に、一度「問題」を吐き出す。
人がいなければ紙にでも書き出せばいい。
紙と対話するのも、嫌いじゃない。

そうすると、「自分」と「問題」との間にキョリができる。
「自分」と「問題」の間に一線を引くのだ。
今までごちゃごちゃとしていた感情が、不思議なことにスーッと引いていく。

「自分」を安全な場所へと避難して、そこから「問題」を眺めてみる。
案外、今まで気付かなかったことが「あれまぁ」と降ってくるかもしれない。

大事なのは、キョリをとること。
そのためにも、人に話すというのは素晴らしい手段のひとつだ。



おわりに

こうやって身近なところから、一線を引く練習をしていこう。
それが、自分が「わがまま」になるための第一歩である。

「わがまま」にとっては小さな一歩だが、「非わがまま」にとっては大きな飛躍である。 by 俺

一方で、今日までに形成されてきた習慣をぶち壊し、今すぐに大変身を遂げることはできない。
だから「非わがまま」と上手に付き合っていくことも大切だ。

本著を読み進めていくことで、「自分」とたっぷり向き合うことができた。
本当に感謝感謝。

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