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ミステリと多様性の困難|藤井義允・謎のリアリティ【第52回】

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多様性の加速度を増すいっぽうの社会状況に晒され、ミステリが直面する前面化した問題と潜在化した問題。重層化した「謎」を複数の視座から論ずることで、真の「リアリティ」に迫りたい

文=藤井義允

『ゴリラ裁判の日』
須藤古都離すどうことり(講談社)

『爆弾』
呉勝浩ごかつひろ(講談社)

★本評論では須藤古都離『ゴリラ裁判の日』、呉勝浩『爆弾』のネタバレに言及しています

 須藤古都離『ゴリラ裁判の日』は第六十四回メフィスト賞を受賞し出版された。帯文には「メフィスト賞満場一致」と書かれており、華々しいデビューだと言える。

 本作の主人公はアフリカのジャングルに住むローズという「メス」のゴリラである。括弧付きにしているのは、彼女がこの小説内での視点「人物」であり、自らの内面性を持つ存在であるからだ。本作での「私」は「ゴリラ」であり、まるで「人間」の女性と同様の語り口で進んでいくのである。

 そして彼女はそんな内面の表現だけでなく、手話を通して人間と意思疎通を行うことができるのだ。母親のゴリラであるヨランダに教わったアメリカ式手話で現地のゴリラ研究員と会話をしていく。その後、テック企業のテッドという人間が手話に連動して機械音声を発生させるグローブを自社のPRを兼ねてローズに渡す。そして実際に(音)声を通じて対話をしていくことができるようになる。

 ローズは「言葉を理解し会話できるゴリラ」として一躍有名になる。その後、ローズは渡米しクリフトン動物園のゴリラパークへと移動する。彼女はそんなアメリカの動物園に徐々に慣れ始め、オマリというオスのゴリラとも交尾をするなど、うまくやり始めた時に事件が起こる。ゴリラパーク内に四歳の男の子が母親のもとから離れ入り込んでしまい、オマリにつかまってしまう。オマリはただ子どもと戯れようとしただけだったが、その力の強さから動物園側が危険と判断して、銃を撃ちオマリを殺してしまうのである。

 そのことを知ったローズは夫であるところのオマリがなぜ死ぬことになったのか、納得がいかず、動物園側を相手取り訴訟を起こす。だが結果は敗訴となってしまう。

 これは米オハイオ州の動物園で起きた実際のゴリラ射殺事件をベースにしている。ただこの事件はゴリラ側からの提訴ではなく、子の監督責任者である母親と射殺した動物園側の刑事責任を問うもののため、本作の内容、及び焦点とは若干ずれている。

 本作の焦点とはもちろん、ローズという「ゴリラ」が裁判を起こすという異例の事態だ。人間が人間を射殺した場合、撃たれた親族側がその件を訴えるというケースはもちろんありうるだろう。だが、本作は人間がゴリラを射殺し、その親族であるところのゴリラが訴える。もちろん、これもゴリラ間の婚姻制度はないため、法的には「親族」と定義することも難しいだろうが。それらも含めて「ゴリラ」という主体の権利をどう考えるか、というのが本作の中心的テーマになっている。

「ゴリラ」に権利はあるのか。これを言い換えるのであれば、「動物に権利はあるのか」という問いが即座に思いつく。

 実際、動物倫理学でも動物に対する権利を考えている。二〇二一年に出版された田上孝一たがみこういち『はじめての動物倫理学』には、昨今の情勢も踏まえ、この「動物の権利問題」について歴史的な流れを踏まえた内容が書かれている。

 本書を参照すると人間とは異なる動物の権利の倫理的根拠は簡単に次のようにまとめることができる。動物は基本的に人間と言語的意思疎通ができない。だが、痛みや苦しみなどは持っていると考えられる。にもかかわらず動物たちを人間のエゴによって食糧として殺したり、また動物実験を行ったりすることは倫理的に許される行為なのか、という議論がなされている。近年、よく耳にするようになったヴィーガニズムもこの延長線上にある考えだ。このことを踏まえ、動物を安易に扱うことはおかしいということが本書には書かれている。

 しかし『ゴリラ裁判の日』はあくまで「動物に権利を与えるか否か」という方向ではなく、「ゴリラを人間と認め、人権を適用する」という方向性が描かれているのだ。違いが分かりにくいかもしれないが、この二つの主張は大きく異なる。

 物語の最初の敗訴は「人間の命と動物の命」の争点から始まり、簡単に答えを出すべきではないと留保しながらも「人間の命を救うためには仕方なく動物を殺さざるをえなかった」ということから棄却された。それに納得しなかったローズは上訴を行い、そこで敏腕弁護士であるダニエルが依頼を受けるが、その際の戦略が「ローズを人間にする」というものだった。ゴリラと人間の違いは「複雑な言語体系を持つか否か」というものであり、それを踏まえると人間と意思疎通ができるローズは動物ではなく人間だとダニエルは主張する。その後、ローズ自身も自分は手話を使え、他のゴリラと違ったために何者か分からなかったがこの裁判を得て「ゴリラであり、同時に人間でもある」と認識したと述べる。その結果、陪審員からローズは人間として認められ、勝訴することになるというのが話の筋である。

 もちろん、意思疎通ができない動物に対しても権利を認める動物倫理を深く考えることは重要である。しかし『ゴリラ裁判の日』では「意思疎通できるゴリラ=人間」というロジックによって人間の権利を認め、ローズのやりどころのない気持ちを解消することができたのだ。ローズの最後の主張はかつての人種主義を彷彿とさせるものであり、読んだ人はかつてのユダヤ人迫害、また最近ならBlack Lives Matterなどを思い出した者も少なくないはずだ。

 また本書の妙味はローズの一人称視点で進む物語を読み進めていくにつれて、外面だけでは認知できないローズの確固たる「人格」を我々が認識できる点にある。この小説の大部分はローズ視点からの彼女の生活が描かれる。そこでは「人間的な」内面を持ち、「人間的な」行動をする。意思疎通はもちろん、服を着たり、羞恥心もあり、またプロレス団体に所属し報酬ももらっている。だからこそ「ゴリラは人間だ」という突飛な哲学談義とも取れ、形而上学的になりそうな内容も、より具体性・納得性をもったものとして読者は消化できるのだ。

 さて「ゴリラは人間である」という定義づけには逆説的な面も存在する。それは「人間はそもそも何者なのか」というものだ。もちろん、生物学的にはサル目ヒト科となるが、ヒト科はヒト亜科とオランウータン亜科で成り、ヒト亜科はヒト族、ゴリラ族とで成っている。そうなると明確な線引きは難しい。もちろん、このような議論はかつてからなされているものであるだろう。更に先に挙げた『はじめての動物倫理学』には次のようにも記述される。

人間の中には複雑な話をできない人も少なくないし、何となれば我々の誰もが幼児の頃は流暢にここでしているような哲学談義などできなかったのである。また歴史を遡れば人類は文字を持っていなかったし、学校も政党もなく暮らしていた。ではそうしたかつての人類は人間ではなかったかというと、やはり立派なホモ・サピエンス・サピエンスに違いなかったのである。

『はじめての動物倫理学』

『ゴリラ裁判の日』ではゴリラと人間の境界線設定の問題提起を行い、「ゴリラは人間である」という結論をつけた。これは人間という存在の定義を揺るがせる。ある意味で、『ゴリラ裁判の日』は分かりやすい。ローズは言語による意思疎通ができ、それがなされた場合、人間の定義が曖昧になっていく。

 昨今あまりにも一般的になった言葉に「多様性(ダイバーシティ)」がある。この規範性をもとにしていけば、ローズ自身も多様な人間の一人であり、だからこそこの裁判の勝訴につながった。過去の公民権運動の歴史をもとに教化されている我々にとって、この結論は容易に受け入れられるものであると言える。

 しかし、ローズは確かに裁判には勝ち「多様な人間の一人」として認められたが、この物語の最後にはそれだけでは解決できない問題も示唆されていた。

 ゴリラを教育し、ローズと同じように手話を理解するゴリラを増やすプロジェクトが始まっていったが、「人間とはホモサピエンス以外のなにものでもない」という反ゴリラ活動家たちも現れ始め、そのプロジェクトを止めようとする動きも出てくる。また「動物園で生まれたゴリラにジャングルを見せてあげたい」という何気ないネット上のローズの発言に対しては動物保護団体が反応し動物解放運動につなげて彼女に裁判を促そうとしたりなど、彼女の意図とは離れた議論になっていく。

 だが、今の私に届く言葉は呪いだった。
 顔も見えない、どこにいるのかも分からない誰かの悪意や無責任な言葉が、波のように押し寄せていた。テレビ、新聞、ネット、心無い言葉はどこにでも氾濫していた。
 野生動物が風雨に晒されるように、人々は吹き荒れる言葉に打たれながら暮らしている。激しい雨がやがて台地を浸食するように、人々は言葉によって心を削られていた。そして、それが当然であるかのように振る舞っていた。

『ゴリラ裁判の日』

「多様性」の象徴としてローズというゴリラを人間として認めるのは、一つの物語としては分かりやすい。だが本作が示唆しているように、その多様性を社会が受け入れた先にも、困難が待ち受けている。ローズの「個」を考えることなく、自分たちの問題にひきつけて言動してしまうのは、多様性の表面をなぞっているだけであるといえるだろう。

 この「多様性の困難」は徐々にフィクションでも焦点化され始めている問題である。例えばディズニーアニメ作品である『ズートピア』は、肉食動物や草食動物が共存する多様性を謳った「ズートピア」という街の中で、その表面的なお題目としての平等性では払拭できないものを描いていた。多様性という言葉は先進的な国や地域の重要なポリシーとして「普遍的な正義」と化している。だが、その中でもやはり差別意識は根付いていて差異を認めた上での他者理解には繋がっていない可能性を示唆していた。他にも漫画のうめざわしゅん『ダーウィン事変』は主人公が人とチンパンジーの間から誕生した少年の物語であり、それこそ『ゴリラ裁判の日』と近いものがある。そしてミステリでもこの問題を扱った作品で話題になったものが『ゴリラ裁判の日』以外にもある。それが呉勝浩『爆弾』だ。

 本作はスズキタゴサクと呼ばれる四十九歳の男が酔った勢いで自販機を蹴りつけ、それを止めようとした店員を殴ったことで署まで連行され、事情聴取を受けることから始まる。なんということもない傷害事件としてことが進んでいくが、その事情聴取中にタゴサクは自分には霊感があると述べ、秋葉原あきはばらで何か事件が起きるということを話す。話半分で聞いていた刑事だったが、実際十時になると秋葉原で爆発事件が起きたと連絡が来る。そしてタゴサクはまた霊感によって残り三度、次は一時間後に爆発するということを述べるのである。爆弾によって市民を人質にとられた形になっている警察がスズキタゴサクとの対話を進めていき、爆弾の場所を突き止めようとしていく。しかしスズキタゴサクは爆発によって被害者が出ても表面のみの悲しみを述べるだけで、爆弾のことが分かったのもあくまで霊感だということを貫き、警察を翻弄していく。

 もちろん、本作の魅力はこのサスペンス性にある。タイムリミットまでに爆弾は見つかるのか、そしてスズキタゴサクを心理的に陥落させることができるのか、このハラハラドキドキ感が何より本作のリーダビリティとしてあり、非常に引き込まれる仕掛けになっている。しかしそれはエンタメとしての機能であり、ここでテーマとされているものは、まさしく『ゴリラ裁判の日』でも描かれていた「多様性の困難」である。

 本作で強調されるのが「ふつう」という言葉だ。スズキタゴサクに対して警察も「ふつうの人間とはいえない」と言い放つ。しかし、ここで問われるのは我々が考えている「ふつう」が、どこか無意識に規定された「ふつう」ではないかということだ。

 スズキタゴサクと刑事は互いに心理戦を行い、様々な話題を出していく。中にはクイズ的な要素を交えて爆弾の在処を示唆することを述べたりもし、謎解き的な楽しみもそこには描かれている。その中で、スズキタゴサクが刑事の清宮きよみやに命の平等性の議論を行っていく。命にはそれぞれランクがつけられており、もし知り合いと知らない人を殺されそうになったら知り合いを助けるというものだ。清宮はだからこそ法律や制度があるのだと述べる。しかし、タゴサクは「法律は、わたしを救っちゃくれませんでした」と述べ、また続けて、「社会も制度もいっしょです。むしろみんな、心のどっかでこう思ってた気がします。わたしを無視して、わたしを相手にせず、わたしのほうを見ないことは、けっして法律違反じゃない。だからべつにかまわない。こいつが孤独死しようが野垂れ死のうが、無差別殺人犯になったって、そんなの自分とは関係ない」「じっさい関係ないんです。自己責任ってやつなんです。そのとおりすぎて、ぐうの音も出やしません。だから、まあ、こう思うことにしたんです。わたしにとっても、彼らはどうでもいい人間だって。かまわないでしょう? お互いどうでもいい者同士。これだって、立派な平等だと思うんです」とまくし立てていく。他にも中東の戦地の敵方の妊婦を見つけて殺す話を持ち出したり、鹿やキジや熊をスポーツとして殺す欧米の話をしたりと、仲間ではない命は摘み取ってもよいという論理を披露する。人間とそれ以外の動物を括る感覚は、それこそ『ゴリラ裁判の日』に繋がるようなものだろう。

 スズキタゴサクはいわゆるネットスラングとしてある「無敵の人」にあたる。「無敵の人」とはネット上で2ちゃんねる創設者である西村博之にしむらひろゆき(ひろゆき)が使い出したと言われ、元から社会的信用がない人で逮捕されることも特にリスクがないため犯罪行為をすることを厭わない、そのような心性を持っている者を指す。『爆弾』のスズキタゴサクも社会からつまはじきにされたという感覚を持っている。だからこそ自分も同じように他の人をつまはじき=排除してもいいだろうというロジックを持っている。まさに「一般的な倫理規範」からは外れた考えだと言えるだろう。

 そのような人をただ「良識」に照らして判断すると、単純な「悪」と決めつけたくなるが、本作ではそのように安易に「悪」と決めて自分たちとは違うと一蹴するその姿勢こそスズキタゴサクの思想と合致してしまう。彼らと自分は違うからどうでもいい。だから見捨ててもいい=殺してもいいだろう、というものだ。

 本書ではもう一人、この社会の排除という観点で重要な人物の話が出てくる。それが長谷部有孔はせべゆうこうという「お恥ずかしい不祥事」という事件を起こした男性刑事についてだ。長谷部は高い検挙率を挙げ、ハセコーと親しまれていた名物刑事だったが、犯罪が行われた現場で自慰行為をしているところを写真に撮られ週刊誌にスクープされてしまう。その後長谷部は警察を辞め、電車に飛び込み自殺をする。長谷部自身もそのような性癖に苦悩していた側面もあったが、「異常な」行為をしたために仲間として見做されなくなった。そのために排斥されたのだ。ちなみにこれと似たようなテーマとして朝井あさいリョウの『正欲』があげられるが、本書でもLGBTQなどに規定されることのないセクシュアル・マイノリティの居場所についての問題が描かれており、まさしく「多様性」とは何かを問いかけるものになっている。

 ここで問われているのは、大きな話で語るのであれば平等性の原理で動く民主主義の限界だ。民主主義を成り立たせるのは寛容の精神だが、寛容な社会は不寛容な者にも寛容であらねばならないという寛容のパラドックスが付きまとうのはよく言われる話だ。現代の民主主義もお題目として多様な人間を認め、社会の一員と見做して過ごしていく。しかし、実質的には社会が持っている「ふつう」の観念から抜け落ちた「理解不能」な人間であるならば排除の論理を使用する。長谷部もその性癖から「理解不能」という「ふつう」の観念から抜け落ちた人間とされたため排除されるに至った。この場合、スズキタゴサクが言っていたように、やはり社会が「仲間」以外は「関係ない」と切り捨てることを容易に行っていることは否めない。

「多様性」という寛容さのお題目だけでは「他人は他人」だからそれぞれ自分の知らない人たちは「関係ない」ということになる。そこからつまはじきになり、たとえ死んだとしてもどうでもいい、ということだ。

 このスズキタゴサクのような「無敵の人」は現実の事件でも類似したものとしてあり、京都アニメーション放火殺人をはじめ、最近では安倍晋三銃撃事件が記憶に新しい。だが、それぞれの犯人はやはり「社会が見放した側面」もあり、スズキタゴサクと同じような社会の「ふつう」からはみ出した人間であり、殺人を犯してしまった者たちだ。もちろん、このような人間たちが犯してしまった罪は許されない。しかしそれを社会が簡単な「悪」と断罪するか否かは別の話となる。

『ゴリラ裁判の日』のローズも『爆弾』のスズキタゴサクも、どちらも「ふつう」とはかけ離れた存在だが、「多様なものを認める」という社会の風潮の中で、その「個」を本当に認められるのか、という問題提起が描かれる。それが両方とも司法と警察という「おおやけ」が物語の中心になっていることも重要なことだろう。「公」というものが余りにも不動たるものになり、同時にそのゲームの中から出されてしまった、あるいは始めから出ざるを得なかった場合どうするのか。

 さて『爆弾』の最後では、ある女子大生が爆弾の爆発によって発作を起こしてしまった見ず知らずの老人を助ける場面が描かれる。その老人は非常にちゃんとした身なりだが、実はもともとはホームレスだったのだという。老人は次のように述べる。

「お嬢さん、もう行きなさい。わたしのことは忘れるといい。でも君が、ひとりの命を救ったことは、どうか憶えておいてほしい」

『爆弾』

 見ず知らずの他人である老人の命をその女子大生は確かに救った。これは「仲間」という括りを超えて行ったことだ。確かに「平等性」は表面上の偽善的なものに堕する可能性を頭によぎらせる。今日の「多様性の時代」という看板は更にそのことを助長させるものになるだろう。そしてその反動が様々な部分で出てきているのは確かである。しかし、それでも他人に手を差し伸べることはでき、そのことで救われるものがあるのも事実なのだ。

 続けて、この女子大生は次のように思う。

 わたしは助かった。運よく命拾いした。多くの死の傍らで。この感情をいい表す言葉は、きっと自分で見つける以外にない。

『爆弾』

 誰かによる言葉ではなく、自分を規定する言葉を自分で見つける。『ゴリラ裁判の日』でローズが裁判で勝ち取ったものはまさしくそのような自分自身の言葉だ。もちろんその後も彼女の苦悩はまた別の形で起こっていくが、その事実によって救われている。

 周囲の「ふつう」とどう向き合うか。ネットをはじめ多くの言葉が氾濫する状況では、「自分に当てはまっているっぽい」言葉がごろごろと転がっている。LGBTQ、無敵の人、マイノリティ、多様性……。この言葉によって得た恩恵は確かに大きいが、粗っぽい言葉の中で事細かな解像度の高い「私」の言葉は模索できているだろうか。

『ゴリラ裁判の日』も『爆弾』も共に方向性も世界観も違うが、実際の事件を連想させ、現代の我々の時代を映す「社会派」として読み取ることが可能だろう。

 そんな新しい「社会派ミステリ」の射程は、今、遠くまで拡大しつつある。

《ジャーロ No.88 2023 MAY 掲載》


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