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ミステリと噓=奇蹟の拡散|渡邉大輔・謎のリアリティ【第51回】

多様性の加速度を増すいっぽうの社会状況に晒され、ミステリが直面する前面化した問題と潜在化した問題。重層化した「謎」を複数の視座から論ずることで、真の「リアリティ」に迫りたい

文=渡邉大輔

しおりと嘘の季節』
米澤穂信よねざわほのぶ(集英社)

『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』
白井智之しらいともゆき(新潮社)

 およそ二年ぶり、この連載枠で六度目の登板となる筆者の回では、これまでのこの連載でもたびたびテーマにされてきた現代ミステリにおける真偽や虚実の価値の変容について、最近の話題作と絡めながら改めて考えてみたいと思う。

 二〇二二年一一月に刊行された『栞と嘘の季節』(集英社)は、ほぼ一年前に『黒牢城』(KADOKAWA)で第一六六回直木賞、第二二回本格ミステリ大賞を受賞した米澤穂信の受賞第一作となる長編である。また、二〇一八年の連作短編集『本と鍵の季節』(集英社文庫)に始まる〈図書委員〉シリーズの第二作にあたる。物語の主人公は、前作に続き、北八王子市にある高校で図書委員を務める男子高校生で、小説の語り手の「僕」こと堀川次郎ほりかわじろう。ある日、同じ図書委員で友人の松倉詩門まつくらしもんと図書室の返却本の確認作業をしていた堀川は、返却本の中の一冊に挟まれていた押し花の栞を見つける。だが、その紫色をした花は、猛毒で知られるトリカブトだった。本の返却者である栞の持ち主を見つけるため密かに動き出した二人は、写真部員が撮影したあるポスター写真を通じて、校舎裏の寂れた花壇でトリカブトが栽培されているのを発見してしまう。後に、ある中学校の文化祭のブックカフェで量産されたことがわかったそのトリカブトの栞の謎を追う中で、ついに生徒指導部の横瀬よこせという教師がその毒を疑われる症状で倒れてしまう。図書委員長の東谷理奈ひがしやりなら周囲のさまざまな人物の思惑が交錯する中、堀川と松倉は、「あの栞は自分のものだ」と嘘をついて近づいてきた風変わりな美少女・瀬野麗せのうららと協力しあいながら、一連のできごとの真相を探っていく。

 米澤といえばデビュー以来、端正な青春ミステリ、それもいわゆる「日常の謎」の名手として知られる。だがその一方で、二〇〇七年の『インシテミル』(文春文庫)あたりから、「本格ミステリ」ジャンルそのものの今日こんにち的な可能性を問うようなコンセプチュアルな作品も意欲的に発表してきた。例えば、本作では「嘘」の扱い方/描き方にそのことが表れているような気がする。その題名にある通り、本作では登場人物のほぼ全員が互いに嘘をつく。しかも本作は一人称なので、必然的に叙述トリック的な要素も加わっている。

 読んでいて興味深いのは、物語の最後で登場人物の一人が口にするように、彼らが実に「カジュアルに嘘をつ」(三六二頁)くことだ。それは、作中の堀川による以下の認識が端的に物語っていることでもある。曰く、「誰でも少しずつ嘘をつくのだから、ひとしずくでも嘘が混じればすべてが嘘と考えていたら、この世のすべては嘘になる。[…]結局僕たちは、同じものを別の名前で呼んでいるだけなのだろう」(一五三~一五四頁)。実際、近年のミステリ作品において、これと似たようなリアリティや感慨を描く事例は目立っているのではないだろうか。例えば、米澤の『黒牢城』と同年に本格ミステリ大賞の候補となった浅倉秋成あさくらあきなり『六人の嘘つきな大学生』(KADOKAWA)の中に出てくる以下の言葉は、先の堀川の言葉と正確に響き合っている。「おそらく完全にいい人も、完全に悪い人もこの世にはいない。[…]一面だけを見て人を判断することほど、愚かなことはきっとないのだ。[…]そんなものはやっぱり、月の裏側の、ほんの一部にすぎないのだ」(二六六頁)。すなわち、ここに共通するのは、やはり『栞と嘘の季節』の登場人物の言葉を借りれば、「部分的に本当を混ぜた嘘」か「部分的に嘘をついた本当のこと」(一五三頁)ということだ。

 いうまでもなく、本格ミステリというジャンルは、本来、犯罪事件の謎を論理的に推理した果てに辿り着く唯一の真実をカタルシスとする娯楽であり、そこではその真実に該当しない無数の偽証=嘘は、真実と明白に対立的な位置に置かれる。しかし、現代のミステリにおいては、そうした真偽や虚実の区分はあいまいに揺らぎ、名探偵=読者の周囲のすべての事象には、堀川のいう通り、つねに潜在的な「嘘」が分子状にばら撒かれている。そして、「何が真実か」を追求する手段のみならず、問いを発する基盤それ自体の底が抜け落ちてしまっている――以上のような類の議論は、いわゆる「ポスト・トゥルース」やフェイクニュースが注目された二〇一〇年代後半のみならず、そのはるか以前から、この連載中(や共著書)でも私たち限界研の論者たちが繰り返し指摘してきたことでもあった。

 ここで一つ新たな論点を付け加えられるとすれば、『栞と嘘の季節』は、物語のさまざまな道具立てにおいて、その経緯を、二〇二〇年代の現在にも改めて想起させてくれる作品になっているということだろうか。もとより注目したいのは、本シリーズの舞台となる「図書室」(図書館)である。ミステリや純文学、ライトノベルを問わず、主にゼロ年代(二〇〇〇年代)の小説において、図書室や図書館をモティーフにした作品が数多く書かれたことは、この限界研の論者でもすでに何人かが指摘している。手前味噌となって恐縮だが、例えば筆者自身が、二〇〇八年に限界小説研究会で刊行した『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)所収の拙論(「小説分析の地殻変動」)の中で扱っているし、後に藤田直哉ふじたなおやもまた、二〇一八年の『娯楽としての炎上』(南雲堂)で同様の問題を扱っている(一七〇頁以下を参照)。藤田の場合は、この図書館や書店という舞台についてその「物質としての書籍」という側面を強調し、そこから彼が「流通のメタフィクション」と呼ぶ概念を抽出することに力点があるが、いずれにせよ、両者ともこのゼロ年代小説が好んで描いていた図書館を、先の拙論の記述を参照するなら「膨大な情報財がそこに集積され、公共的に利用可能なシステムとしての」「データベース」=インターネットと隠喩的になぞらえているという点では共通している(二三五頁)。

 かつて米澤が作家デビューしたゼロ年代初頭から前半とは、まさにインターネットが、アレキサンドリア図書館やボルヘスのバベルの図書館のごとく、――一九九八年に創業したGoogleの有名なミッション・ステートメントを借りれば――「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」新たな知のインフラとして社会的な存在感を拡大させていた時期であった。この時期の小説的想像力にしばしば召喚された「図書館」とは紛れもなくその文学的な隠喩だった。なるほど、それから二十年近くが経っても、「貸出履歴はコンピュータで管理されていて、[…]すべてデータで保存されている」(九頁)という『栞と嘘の季節』の「図書室」もまた、明らかにその隠喩の延長上にあると見てよい(作中に登場する、知の一望監視施設について記されたミシェル・フーコーの『監獄の誕生』も、そのことへの目配せにも見える)。ただ、ちなみに現在の現実の図書館では個人情報保護の観点から貸出履歴は返却後、データベースからすべて消去しているようである。

 だが一方で、日々、膨大な情報と接することになった現代人は、真偽の取捨選択にますます多大な労力を傾けざるを得ないことになる。そのリアリティは本格ミステリの世界観にも及んでいた。さらにいえば、米澤が得意とする「日常の謎」というジャンル形式は、――ゼロ年代後半の「日常系」アニメともうまく噛み合いつつ――物語の舞台を限られたミニマムな日常にあえて限定することで、いみじくもそうした課題をミステリにおいて巧みに回避する手法として機能していたといえる。当時、文化批評の一部でしばしば参照されていたニクラス・ルーマンの社会システム理論の用語を使えば、「日常の謎」という舞台は現代ミステリにおける一種の「複雑性の縮減」装置として活用されていたわけだ。ちなみに、『栞と嘘の季節』において、「トリカブトの栞」は一種のマクガフィン(物語上、実質を伴わないガジェット)に近い小道具として出てきているわけだが、これもまた物語世界の複雑化を効率よく縮減する役割を担っている。

 ともあれ、二〇二〇年代の『六人の嘘つきな大学生』や『栞と嘘の季節』が示す「嘘=フェイクのカジュアル化/分子状化」という事態は、以上のようなゼロ年代の、図書館的情報インフラの台頭(世界の複雑化)と、その縮減装置としての日常の謎という対立軸のパラダイムの先に現れたものだといえるだろう。また、「嘘のカジュアル化」、つまり前もって「誰でも少しずつ嘘をつく」と構えて決定的な真実や真相を期待しないという態度は、メディア論的にも裏づけられるように思う。例えば、二〇二二年の新書で大いに話題になった『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)で稲田豊史いなだとよしは、映画やドラマを途中まで観て、あるいは観る前にネタバレサイトや考察サイトを読み、あらかじめ結末や真犯人がわかってから鑑賞するという態度の浸透に注目している。また、こうした振る舞いをする彼女ら彼らにとっては、「ミステリーもので、『この人、殺されるのかな? 助かるのかな?』ってドキドキするのが苦手」で、もはや「「予想もしないどんでん返し」や「複雑で込み入った物語」はすべて不快」(二〇五頁)なのだそうだ。

 この手のメディア経験は、言い換えれば、決定的な嘘=偽から決定的な真実へと覆るような通常の本格ミステリ的な展開の醍醐味は少しも期待されておらず、自分の思っていた通りに話が展開し、それゆえに目の前のストーリーが真でも偽でももうどちらでもよい、つまりは可能性として嘘がどこにでもフラットに含まれていることをも許容する態度に通じている。米澤が描き出す、新たな「嘘の季節」の本質とはおそらくこのことだ。

 とりあえず真相でもどこか嘘っぽい、より正確にいえば、それは「自分の思った通り」の、「本人だけが真相だと思う解決」という宙吊り感覚を脱せない――ほかならぬ米澤が『インシテミル』で鮮烈に物語化し、現代ミステリの主要な趨勢すうせいの一つである「多重解決もの」にも連なる以上の特徴は、依然、現代ミステリの多くの「謎のリアリティ」を規定しているだろう。そうした手触りは、「絵解き」を主題にした、昨今話題の雨穴うけつによる一連のホラーミステリにもどこか当てはまるように思える。

 その意味で、『栞と嘘の季節』の問題系は、昨年九月に刊行され、二〇二二年のミステリ界でも屈指の反響を呼んだ白井智之の『名探偵のいけにえ――人民教会殺人事件』(新潮社)のミステリ空間にもはっきりと繋がっている。『栞と嘘の季節』でも、スティーヴン・ミルハウザーの小説に着想を得た登場人物たちの中学生時代のグループ内でのできごとが物語の解決に深く関わっていたが、本作は、一九七八年、カルト教団組織「人民寺院」がコミューン「ジョーンズタウン」で実際に起こした未曽有の大量殺人・大量自殺事件に材を仰いでいる。

 物語の主人公で探偵事務所を営む大塒宗おおとやたかしは、有能な助手の女子大学生・有森ありもりりり子の後を追って、アメリカに渡る。りり子は、一時は二万人の信者を抱えた新興カルト教団の教祖ジム・ジョーデンが切り開いた集落「ジョーデンタウン」に調査のために乗り込んでいた。そのコミューンで暮らす信者たちは、教祖のジョーデンの起こすという奇蹟を頑なに信じており、それゆえ病気も怪我も存在せず、切断して失った脚すら蘇っていると思い込んでいた。ジョーデンタウンでりり子と再会した大塒だったが、カルト教団の欺瞞を暴こうと潜入していた周囲の人間が次々と不可能状況で殺されていく。

 ともあれ、『名探偵のいけにえ』の際立った趣向は、クライマックスの大塒による多重推理である。先ほども記したように、ジョーデンタウンの住人/信者たちは、ジム・ジョーデンが起こす奇蹟を頭から信じている。それゆえ、部外者から見れば、その奇蹟と現実の間の整合性をつけるために、彼らは常識的な行動を捻じ曲げたりもしているが、それを意識することはしない。「車椅子なしでは生きていけない現実と、車椅子なしでも生きていけるという妄想。両者の辻褄を合わせるために、ありもしない感情――車椅子への愛着とやらを捏造しているのだろう」(一一九頁)、「信仰が現実と齟齬そごをきたすと、信者は新たな解釈を生み出して齟齬を解消しようとする。さらに活動を大きくすることで、その正しさを裏付けようとする。結果的に信仰はむしろ強化される」(一九八頁)。

 とはいえ、重要なのは作中で亡命中の韓国人青年イ・ハジュンが大塒らに諭していうように、「でも信者たちが集団妄想を共有しているというのは、余所者(stranger)からの見え方に過ぎません。彼らには彼らの真実があるはずです[…]そして信者ではないぼくたちのほうが、奇蹟が起きていない世界の妄想を見ている、ということになります」(一二二~一二三頁、傍点原文)という認識である。すなわち、いわばリアリティのレヴェルでは、客観的な現実を生きている(とされる)名探偵側の世界(論理)と、主観的な奇蹟を信じている(とされる)ジョーデンタウンの信者側の世界(論理)は、まったく等価なのだ。したがって、大塒は信者たちの世界(論理)を適用した推理と自らを含む余所者よそものの世界(論理)を適用した推理をフラットに選択肢として提示してみせるのである。「単なる信仰の有無ではなく、おれとお前らでは見えている世界が違っているんだ。[…]よっておれは今から、お前らの立場で推理を進める。奇蹟はあるという前提で犯人を明らかにしてみせる」(三〇四~三〇五頁)。

「時代は大量生産だ。推理だって多いほうがいい。なんたって好きなほうを選べるんだから」(三二頁)――物語冒頭の主人公の台詞せりふに端的に象徴されているように、『名探偵のいけにえ』は、以上のように、「特殊条件下での多重解決ミステリ」としてできあがっている。このスタイルがここ二十年ほどの現代ミステリにおいて一つの主要な傾向を形作っていることは読者の多くがよくご承知の通りだろうし、また、その背景や要因についても昨今のミステリ評論ではかねてからさまざまに論じられてきているだろう。

 なお、名探偵がこの客観的な現実法則とは異なる超常的な「奇蹟」の存在を前提として推理する多重解決ミステリという要素では、『名探偵のいけにえ』は、二〇一〇年代以降の現代ミステリにおいてすでに範例的作品となりつつある井上真偽いのうえまぎ『その可能性はすでに考えた』(講談社文庫)との類似性も見逃せない。いわゆる〈上苙丞うえおろじょう〉シリーズ第一作となるこの小説もまた、外部から隔絶されたオウム真理教を思わせるカルト宗教団体の村で起きた集団自殺事件を描いている点で『名探偵のいけにえ』と重なるが、知られているように、この作品では、何よりもこの主人公探偵の推理が、「奇蹟の存在証明」、すなわち、この世界に人知=論理を超越した「奇蹟」が存在することを証明するために、事件のトリックをあらゆる論理的・科学的根拠によって推理・証明することが不可能であると(論理的に)示してみせるという趣向だろう。「奇蹟」を前提にして論理的推理を働かせるという特殊条件ミステリの側面でも両作は実によく似ている。

 ともあれ、ここで注目すべきは、「現実」の世界(論理)も「奇蹟」の世界(論理)も推理においてはまったく等価、つまり互いがそれぞれに真実=現実だと信じる世界も原理的にはどちらも「集団妄想」と変わらず、「部分的に本当/嘘が混じった嘘/本当」と大差ないという意味で、『名探偵のいけにえ』の描く「奇蹟」と『栞と嘘の季節』の描く「嘘」とは、同じ現代のリアリティを共有しているということである。

「これから言うことは、決してきみの信じるものを否定してるわけじゃない。きみにはきみの信じたいものを信じる自由がある」(一六七頁)。このりり子の台詞は、『映画を早送りで観る人たち』で紹介されていた、自分の思った通りの展開だけを期待して倍速視聴する現代人の心性とも、確実に通じている。それを進展と見るにせよ、衰退と見るにせよ、本格ミステリの「謎のリアリティ」もまた、これと同じ足場に立って歩みつつあるといえそうだ。

《ジャーロ No.87 2023 MARCH 掲載》



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