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外れ籤としての東京五輪②|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【第5回】

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文=千街晶之

第二章 外れ籤としての東京五輪(承前)


 二〇二〇年にこれほどのパンデミックが日本に上陸するなどとは誰にも予想不可能だった以上、この年の七月に東京五輪が開催されるという前提で小説を執筆した作家が幾人もいたことは当然だろうと思う。しかし結果的に、それらの作品はみな現実と異なるパラレルワールドを描くことになってしまった。時事ネタを作品に取り入れることは、そのような危険性と背中合わせの関係にある。

 それでも、早い時期に刊行された作品ほど、現実との乖離かいりを読者に意識させずに済んだのも事実だろう。発表が早い順に紹介してゆくと、吉川よしかわ英梨えりは第一章で言及した通り、東京五輪の警備のために新設された五港臨時署の活躍を描く「新東京水上警察」シリーズ(講談社文庫)の執筆を続けているが、コロナ禍を早い段階で物語の背景として描くなど、時局をスピーディーかつ積極的に取り入れることで読者に違和感を覚えさせない努力を重ねていた。ここでは、二〇一七年七月刊のシリーズ第三作朽海くかいの城 新東京水上警察』を紹介したい。

 東京都知事を乗せた豪華客船で乗客の焼死体が見つかる。一方では、高浜水門で頭に斧を突き立てられた死体が発見され、五港臨時署の面々が現場に急行するが、事件は、都知事ら乗客たちを巻き込んだ国家的非常事態へと発展してゆく。この出来事の裏では複数の人間の異なる思惑がうごめいていたが、その中には、二〇一一年三月の東日本大震災における原発事故で運命を狂わされた人物がいる。作中では、震災から二年後の二〇一三年三月に福島第一原発において汚染水漏れが起こったことになっており(実際には四月)、その際に素手で取水バルブを付け直した作業管理者が被曝して白血病を発症する。しかし二〇一三年は、当時の首相がIOC総会で東京五輪招致のために「アンダーコントロール」と断言した、まさにその年である。そのタイミングで、汚染水漏れ事故で被曝した作業員が白血病を発症したことを、国も東京都も絶対に認定するわけにはいかなかった――犯人たちの一部は、この件にまつわる怨念を背負っている。

 犯人の一人は、次のように告発する――「福一の事故なんてもうとっくに風化しちまっただろ。忘れちゃなんねぇのにさ、特に東京都民には思い出してもらわないといけないんだよ! 東京オリンピックは、土屋(引用者註・被曝した作業員)の犠牲の上で招致が成功したも同然だ。なにが〝状況は完全にコントロール〟されているだよ! 凍土壁作戦も失敗して、汚染水のコントロールは全くできていないし、燃料デブリがどうなってるのか、これからロボット入れて確認できるかどうかっていう段階なのに、なにがアンダーコントロールだよ! 都民は福島の危機を見て見ぬふりをして、あのIOC総会のとき、東京オリンピック開催決定に浮かれて、そこで疲弊する作業員たちを踏みつぶして狂喜乱舞したんだ! 福島第一原発でこれまで創りだしてきた電力のほとんどを消費してきたのは、東京なんだぞ!」

 前回言及した藤井ふじい太洋たいよう『ワン・モア・ヌーク』とこの作品は、東日本大震災に伴って発生した原発事故を忘れ去ったかのように東京五輪に浮かれる人々を批判のターゲットとしている点で似た構図を持つ。ただし、原発事故の風評被害の加害者を批判することで原発そのものの責任を不問に付したかたちの前者と、外国人労働者が劣悪な条件下で働かされていることをも視野に入れ、原発のダークサイドを剔抉てつけつした後者とでは姿勢そのものは全く異なる。吉川が『朽海の城』を執筆した際、東野ひがしの圭吾けいご『天空の蜂』を念頭に置いていたかどうかは不明だが、原発の危険性を忘却しがちな大衆への警告というメッセージ性は共通するものがある。


 五十嵐いがらし貴久たかひさ『コヨーテの翼』は二〇一八年十二月に双葉社から刊行された。中東のカルト集団「SIC」は、東京五輪のために建設されるスタジアムの地下に爆弾を埋設し、日本の首相・阿南あなんや各国から来日した国家元首などのVIPを爆殺することで、世界中に自分たちの実力を知らしめるという計画を立てていた。ところが、東京に潜入させた工作員が警察の検問に引っかかって逃走、その途中で死亡するという不測の事態により計画は瓦解がかいした。その時、幹部の一人が次のように進言する。

「アナン並びに各国VIP全員の暗殺は困難だと、自分も思います。ですが、アナン一人だけなら決して不可能ではありません。例えば開会宣言中のアナンが暗殺された場合、世界に与える衝撃は、ケネディ暗殺以降最大のものとなるでしょう。世界中がSICの実力を知り、ゾアンベ神の偉大さにひれ伏します。そうであれば五億人のゾアンベ教信者が決起し、聖戦開始が可能になります。勝利は疑いありません」

 この幹部は、コヨーテと呼ばれるスナイパーに阿南首相の暗殺を依頼するという案を出す。コヨーテは二〇〇五年の米軍のイラク侵攻で極秘任務に加わり、百人以上のイラク兵を長距離射撃で射殺するという手柄を立てるも、自身が危機から脱出するために指揮官以下多くの友軍兵士を射殺して単独で戦線を離脱、今度は寝返ってイラク側の傭兵となり、戦争犯罪人として指名手配中の身で世界各地において暗殺を請け負っているとされる人物だ。ハッキングによって米軍のコンピュータから自身のデータを消去したため本名どころか身長・体重すら不明という、ゴーストさながらの不気味な存在である。

 日本に潜入して五輪開会式で首相を狙撃しようと準備を重ねるコヨーテと、迎え撃つ日本の警察との頭脳戦がメインとなるこの作品は、明らかにフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(一九七一年)を本歌取りしている。コヨーテというコードネームもジャッカルを意識していると思われるけれども、コヨーテの正体に、読者が『ジャッカルの日』を思い出すことで成立するミスリードが仕掛けられている点に、著者のミステリ作家としてのしたたかさを見るべきだろう。『ジャッカルの日』の時代にはあり得なかったようなハイテクによる攻防も読み応えがある(これはこの章のテーマからは外れるのだが、宗教絡みの動機による要人狙撃という本作の着想は、安倍あべ晋三しんぞう元首相が銃撃により死亡した二〇二二年七月現在に読み返すと図らずも異様なリアリティを感じさせる。しかし、今後は要人狙撃を扱ったサスペンス小説の発表は、現実と重なりすぎて困難になるかも知れない)。


 二〇一九年八月には真山まやまじん『トリガー』がKADOKAWAから刊行された。東京五輪の馬術競技の最中、韓国の代表選手が射殺される。被害者は一選手であるにとどまらず、韓国大統領のめいであり、しかもソウル中央地検特捜部の検事でもあった。しかもこの事件が起こる前には、北朝鮮から日本に潜入していた工作員や、米軍の中佐が惨殺されるという不穏な出来事が続発していた。外交問題に発展しかねないこの一大事を、日韓それぞれの警察・検察、そして北朝鮮の工作員などが調査する……という物語だ。事件の背景からは、在日・在韓米軍の役割を民間に移行するという計画にまつわる巨大な陰謀が浮上してくる。そのような計画が現実にも具体的に存在するかどうかは不明だが、今世紀初頭から繰り広げられてきたテロとの戦いにおいて、米軍が民間軍事会社と契約を結び「戦争の民営化」を進めてきたのは紛れもない事実であり、政治・経済をめぐる人間模様の描写を得意とする真山らしい説得力をそなえた作品に仕上がっている。


 このあたりまでが辛うじてセーフと言える作品であり、二〇二〇年に入ってから刊行された作品は、完全に新型コロナウイルス流行のあおりを食らってしまった。

 二〇二〇年一月には、戸南となみ浩平こうへい『炎冠 警視庁捜査一課七係・吉崎詩織』が中公文庫から刊行された。渋谷のハチ公前広場で女性が爆死する。被害者の頭・首・腹部にはそれぞれ時限爆弾がくくりつけられ、指定のコースを時間内にゴールできなければ腰に装着された起爆装置によって爆発する仕掛けになっていたのだ。警視庁には、「カントク」と名乗る犯人から「ぬけたランナーたちを栄光へ導くためには、私の開発した超スパルタトレーニングが必要なのだ」という声明文が届き、その最後に「さあ、これからもビシビシ鍛えてゆくぞ」と記されていた通り、同様の手口の事件が連続する。そしてついに、二〇二〇年東京五輪のマラソン代表候補・樋口ひぐち舞子まいこが犯人に拉致され、このゲームに参加させられることになる。

 現実の二〇二〇年東京五輪では、二〇一九年十一月にIOCがマラソン競技の会場を東京から札幌に変更することを決定したが、この小説でもエピローグでその事実が言及されている。しかし、新型コロナ流行前に執筆されたためやむを得ぬとはいえ、そのマラソン競技が札幌で開催されたのは作中では二〇二〇年ということになっており、結果的に、現実とは異なるパラレルワールド的描写となってしまった。

 同年三月という、コロナ禍が既に拡大した中で光文社から刊行されたのが酒本さかもとあゆむ『幻のオリンピアン』である。体操競技で東京五輪出場が確実視されていたが故障によって夢を諦め所属チームのアシスタントコーチになった女性と、幼馴染みで五輪出場も狙えるほどの有力選手の様子が最近おかしいことを心配する高校体操部のマネージャーという二人の視点が並行して進む青春ミステリだが、刊行のタイミングの悪さ以前の問題として、東京五輪を扱っている時点で構成に仕掛けられたトリックが見抜けてしまったというのが正直なところだった。

 こうして東京五輪を扱った小説が、立ちはだかる現実の前で次々と討ち死にしてゆく中、二〇二〇年に刊行されたにもかかわらず成功作となったのが福田ふくだ和代かずよ『東京ホロウアウト』である。五輪開催が間近に迫る東京で、配送トラックを狙った毒ガステロや、鉄道の爆破、高速道路のトンネル火災などが発生。交通網を断たれ、食料品をはじめとする品物が入ってこなくなった東京は陸の孤島と化し、そこに台風到来まで重なろうとしていた。この危機に際し、物流を担う長距離トラックドライバーをはじめ、スーパーマーケットや警察等々、各方面のプロフェッショナルたちが対処するさまを描いた群像劇だ。

 この作品は二〇二〇年三月に東京創元社から単行本として刊行されたが、翌年六月という同社としては異例の早さで文庫化されており、その際に大幅に改稿されて、作中でも東京五輪は一年延期されたことになった(作中の事件は五輪開会式まで残り十日を切った時点からスタートする)。それに合わせて、世相の描写も二〇二一年の現実に即したものとなっており、例えばスーパーマーケットの代表取締役社長・永楽えいらく好美よしみが紹介されるくだりでは、「今年の二月には、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長が、『女性の話は長い』だの『わきまえておられ』る女性は役に立つだの、二十一世紀とは思えない偏見に満ちた問題発言で更迭こうてつされた。『わきまえない女』というタグがツイッターでトレンド入りするほど流行したが、女性の怒りは当然のこととして、永楽の年代では、『わきまえたふり』の上手な女性が多かったと彼女は思う。ワタクシはわきまえてますよとニコニコしながら、じわじわと自分の大きな尻の居場所を広げていく。みんなが気づいた時にはしっかり地歩を固めている。パワーを手にしなければ発言権がないのだから、最初はそうするしかなかったのだ。ただ、いつまでもそんなことではいけないというのも本当だ」(引用は文庫版。以下同じ)といった加筆が行われており、文庫版が刊行された二〇二一年の現実に、より生々しく密着した描写となっている。

 もっとも『東京ホロウアウト』という小説の真価は、そうした世相の反映より、東京に代表される大都市の物流が、地方からの道路を断たれただけで麻痺してしまう現実を見据えた点にある。登場人物の一人は言う――「東京は別の国なんだ」「事件を起こす前に兄が言った。この国では東京だけが特別で、まるで別の国みたいだって」――しかしその繁栄は、地方に依存し、場合によっては地方の犠牲の上に成り立っている。その意味で、この作品は地方に原発を押しつけることで東京の電力が維持されている現実を突きつけた吉川英梨『朽海の城』と通底するメッセージを持つ物語である。『東京ホロウアウト』にも「東日本大震災からの『復興五輪』という名目を掲げていたはずが、東京での建築ラッシュのため、人件費や資材が高騰し、被災地の復興をかえって阻害しているともいう」といった説明があり、この点に対する著者の透徹した視線を示しているけれども、この作品が雑誌《ミステリーズ!》に二〇一八年という早い時点から執筆開始されていたことが示すように、東京五輪やコロナ禍はそのテーマ性を物語る上で恰好の題材ではあっても、必須というわけではない。例えば品物の不足によって店頭で買い占めが起きる描写は、図らずもコロナ禍初期に見られたトイレットペーパーなどの紙製品を中心とする生活物資の買い占め騒動を想起させて異様な臨場感があるけれども、同様の買い占め騒動は、古くは一九七三年のオイルショック、記憶に新しいところでは二〇一一年の東日本大震災の時にも発生しており、特に後者は『東京ホロウアウト』の着想源となっている。いわば、東京五輪やコロナ禍がなくても実は成立する話なのであって、その意味で五輪延期という現実はこの小説の値打ちにいささかも傷をつけなかったのだ。


 現実世界では東京五輪は二〇二一年に開催されたが、その後、五輪をテーマにしたミステリはほとんど発表されていない。二〇二一年中には自衛隊を舞台にした夏見なつみ正隆まさたかの航空アクション小説「スクランブル」シリーズの新作『スクランブル 蒼穹の五輪』、二〇二二年に入ってからでは、一九六四年東京五輪の前年を舞台にした斉藤さいとう詠一えいいちの歴史ミステリ『レーテーの大河』くらいだろうか(もっとも『レーテーの大河』は、一九六四年東京五輪に象徴される輝かしい発展のために日本の暗部が不都合なものとして忘却の彼方へと追いやられてゆく流れを、飲めば記憶を忘れるというギリシャ神話の忘却の河レーテーになぞらえることで、一言も言及することなく二〇二〇年東京五輪を読者に連想させるという巧妙な戦術によって成功作となっているのだが)。コロナ禍を扱ったミステリが、第一章で紹介したように二〇二二年に入ってからもかなりの数に上るのとは対蹠たいせき的である(他に東京五輪を扱ったミステリとしては、九月上旬に堂場どうば瞬一しゅんいち『オリンピックを殺す日』が文藝春秋から刊行される予定だが、本稿の再校までに目を通すことは出来なかった)。

 やはりそこには、当初の予定から五輪開催が一年遅れたことで作品の構想そのものにひずみが生じてしまった数々の失敗例を、他のミステリ作家たちが目の当たりにしてしまったことが大きいだろう。作家たちにとって、東京五輪は手を出さないほうがいい「厄ネタ」となってしまったのだ。

 そんな中で、先見の明を感じさせたのがあかね灯里あかり『馬疫』(二〇二一年)である。著者は国際馬術連盟登録獣医師の肩書を持っており、その知識と経験を活かして執筆したこの作品(応募時のタイトルは「オリンピックに駿馬は狂騒くるう」)を第二十四回日本ミステリー文学大賞新人賞に応募し、受賞してデビューに至った作家である。

 この作品では、二〇二一年に東京五輪が開催された後も世界的な新型コロナウイルスの流行は収まらず、当初二〇二四年の五輪開催予定地だったパリに代わって、比較的収束した東京が再び夏季五輪の舞台に選ばれる……という設定となっている。大胆不敵な設定と言うべきだが、コロナ禍が始まった頃には二〇二二年半ばの現在になってもここまで収束しないと予想していたひとが少数派であった中、二〇二四年という長期的な視野でコロナ禍の継続を予想したのは慧眼けいがんである。ただしこの作品で扱われているのは新型コロナではなく馬インフルエンザ、それも感染した馬を凶暴化させる「狂騒型」だ。

 作中では二〇二一年の東京五輪で、馬術競技のために来日した馬のうち数頭が熱中症で死亡したことになっているが、やがて判明するように、この馬たちの死因には隠された裏の事情がある。そして五輪開催が迫った二〇二四年、五輪提供馬の審査会で複数の馬が馬インフルエンザの症状を呈し、しかもその先にはもっと恐ろしいウイルスが出現する。新型コロナではなく別種のウイルスと人類との戦いを、キャッチーなネタの五輪を織り込んで展開してみせた着想は非凡だった。時事ネタを作中に取り入れる際、この作品から得るべきヒントは多いように思う。


 今後、五輪ミステリを手掛けるならば、これまでとは全く異なるアプローチが必要とされるだろう。例えば、二〇二二年七月下旬には、東京五輪組織委員会の高橋たかはし治之はるゆき元理事が大会スポンサーのAOKIからおよそ四五〇〇万円を受け取っていたとして、東京地検特捜部が高橋元理事の自宅や大手広告会社・電通の本社、東京都庁にある組織委員会の清算法人事務局などへの強制捜査に乗り出したというニュースが流れ、八月中旬には高橋元理事およびAOKIの幹部三名がそれぞれ受託収賄・贈賄の容疑で逮捕されたが(組織委員会理事は「みなし公務員」であるため、職務に関して金品を受け取ることは禁止されている)、恐らくは氷山の一角であろうこうした疑惑なども、今後は一つの切り口たり得るのではないだろうか。

 一方、小説よりもむしろ映像方面に、東京五輪をさまざまな角度から扱った作例が目立ったことは注目に値しよう。

 その最も早い作例と思われるのは、東京五輪開催が決定した翌年の二〇一四年、NHK総合の「土曜ドラマ」枠において全五回で放送された『ロング・グッドバイ』である。レイモンド・チャンドラーの名作『長いお別れ』(一九五三年)を、一九五〇年代の日本を舞台に翻案したドラマであり(堀切園ほりきりぞの健太郎けんたろう演出、渡辺わたなべあや脚本)、原作の私立探偵フィリップ・マーロウが増沢ますざわ磐二ばんじ浅野あさの忠信ただのぶ)という名前で登場するなど、登場人物もみな日本人となっている。

 被害者の父親であるメディア王の原田はらだ平蔵へいぞう柄本えもとあきら)は原作の大富豪ハーラン・ポッターにあたる役柄だが、野心家の彼は実業界から政界へと進出する。その選挙ポスターに「原子力の平和利用」という公約が記されているところから見て、原田には、讀賣よみうりグループの総帥であり、初代原子力委員会委員長・初代科学技術庁長官として日本のエネルギー政策の方向を決定づけた正力しょうりき松太郎まつたろうのイメージが重ねられていると考えていいだろう(正力松太郎については、拙著『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』〈二〇一四年〉の、アニメ『UN―GO』を論じた章で言及しているので、詳しくはそちらを参照していただきたい)。

 ラストシーンではその原田の選挙ポスターを前に「東京オリンピック開催決定、万歳!」と浮かれる大衆の光景が、いつの間にか二〇二〇年東京五輪の開催決定を祝う垂れ幕が東京都庁に掲げられた現代の光景へとスライドし、そこにこのドラマのナレーター役も兼ねる新聞記者・森田もりた滝藤たきとう賢一けんいち)の「この国は行くよ。時代の底に幾千の哀しみをいだいて。輝く未来へ」というシニカルなモノローグが重なる。『長いお別れ』を、戦後の復興から高度経済成長へと突き進んでゆく時代からこぼれ落ちた人々の悲劇としてアレンジしたこのドラマのラストが、二つの東京五輪の時代を重ね合わせることで、今を生きる私たちに警鐘を鳴らしていることは明らかだろう。その意味で本作は、前出の『レーテーの大河』に極めてよく似た狙いを含んでいる。


 次に紹介したいのが、三田みた紀房のりふさの同題のコミックを原作とする映画『アルキメデスの大戦』山崎やまざきたかし監督・脚本、二〇一九年)である(この映画については探偵小説研究会の機関誌《CRITICA》掲載の拙稿「原作と映像の交叉光線・出張版15 阿呆船あほうせんの祭り――『アルキメデスの大戦』」で詳細に論じたことがある。本稿もその内容と多少重なることをお断りしておく)。ミステリ批評の文脈でこの映画を取り上げることを奇異に感じる読者もいるかも知れないが、実はG・K・チェスタトンや連城れんじょう三紀彦みきひこが書いたミステリのパラドックスさながらの異様なロジックが炸裂するミステリ映画としての鑑賞も可能な作品だ。

 大日本帝国が国際的に孤立の様相を深めていた一九三三年、帝国海軍では、時代遅れな巨大戦艦の代わりに航空母艦の導入を主張する山本やまもと五十六いそろくたちひろし)らと、巨大戦艦にこだわる嶋田しまだ繁太郎しげたろう橋爪はしづめいさお)らが対立していた。山本派の藤岡ふじおか喜男よしお造船少将(山崎やまざきはじめ)と嶋田派の平山ひらやま忠道ただみち造船中将(田中たなかみん)は、それぞれが設計した戦艦の設計図を会議に提示し、議長の大角おおすみ岑生みねお海軍大臣(小林こばやし克也かつや)は平山案に魅了される。だが山本や藤岡らは、平山案が不当に安い見積もりに基づいているのではという疑惑を抱く。山本はそれを証明して平山案を退けるべく、東京帝国大学数学科の元学生・かいただし菅田すだ将暉まさき)に、平山の偽りを暴くための正確な計算を行わせる。だが、櫂の天才的な頭脳を警戒する平山による妨害工作が立ちはだかる。

 監督の山崎貴は、ヒット作『ALWAYS 三丁目の夕日』(二〇〇五年)が安倍晋三の著書『美しい国へ』(二〇〇六年)の中で言及されたり、国粋的・排外的な言動が多い作家・百田ひゃくた尚樹なおきの小説が原作の『永遠の0』(二〇一三年)を撮ったりしているため、日本を過剰に美化する流れにくみする人物として批判されることもある。しかも二〇二〇年東京五輪の開会式・閉会式の式典総合プランニングチームのメンバーに選ばれたのだから、更に批判を浴びたのも無理からぬように見えるけれども、『アルキメデスの大戦』を観ると、彼が安倍や百田に象徴される反動的日本礼讃らいさんの流れに追随する人物だという見方は一面的でしかないことがわかる。

 平山忠道造船中将は、史実の戦艦「大和」設計者・平賀ひらがゆずるがモデルである。原作は現在まだ完結していないけれども、映画は原作の三巻までをなぞりつつ、ラストに原作にはない、平山が「大和」を造った自らの真意を櫂に明かすシーンを付け加えている。私がチェスタトン・連城三紀彦風パラドックスと評したのはここで平山が繰り出す驚くべきロジックに関してだが、二〇二〇年東京五輪の式典チームのメンバーだった山崎が、「大和」に仮託して、体制の国威発揚に踊らされる大衆の心理をこれほど皮肉った物語を演出したこともまたパラドックスと評するべきだろうか。私は二〇二〇年の時点で、先述の「原作と映像の交叉光線・出張版15 阿呆船の祭り――『アルキメデスの大戦』」を、「映画オリジナルの結末として平山の悪魔的な論理を思いついた山崎ならば、『大和』の運命と東京五輪をめぐる愚かしい狂騒曲とを重ねていてもおかしくはない。彼こそ、東京五輪という阿呆船に乗り込んだトロイの木馬なのではないか――というのは、些か空想がすぎるだろうか。しかしいずれにせよ、コロナ禍がここまで世界を覆い尽くした今、東京五輪は幻となる可能性が高くなりつつある。この五輪に対する山崎の真意も、その時は不明のまま終わるのかも知れない」と締めくくった。だが、東京五輪自体は二〇二一年に開催されたものの、山崎は五輪開幕前の二〇二〇年十二月に式典メンバーから外れてしまったので、結局その真意は不明のままであり、いずれ本人の口から明かされる機会を待つしかなさそうである。


 永岡ながおか智佳ちか監督、櫻井さくらい武晴たけはる脚本のアニメ映画『名探偵コナン 緋色の弾丸』は、第一章で触れたようにコロナ禍のため、当初の予定の二〇二〇年四月から、ちょうど一年後の二〇二一年四月まで公開が延期された作品である。作中の事件は、四年に一度の国際的なスポーツの祭典「ワールド・スポーツ・ゲームス(WSG)」の東京開催を祝うスポンサーたちのパーティーから開幕するが、これが東京五輪をモデルにしていることは明白だ。そのスポンサーたちが、正体不明の人物によって次々と狙われるというのがメインの事件である。そして後半のクライマックスは、名古屋駅と東京の山手線芝浜駅(二〇二〇年に開業した高輪ゲートウェイ駅がモデル)のあいだに開通した真空超電導リニアの車内で展開され、乗客の一人であるスポンサーを殺害するためリニアを芝浜駅に突っ込ませるという犯人の計画を阻止しようとする江戸川えどがわコナンたちの活躍により、リニアは駅ではなくWSG会場の芝浜スタジアム(位置関係などは異なるものの、どう考えても新国立競技場がモデル)に突入し、犠牲者を出さずに済む。各地の実在の名所をモデルにした建物を破壊するのは劇場版「名探偵コナン」シリーズではお約束とはいえ、東京五輪をモデルにしたスポーツの祭典を背景にした作品において、新国立競技場がモデルの建物を破壊するというのは凄まじい皮肉としか言いようがない。

 この映画でもう一つ皮肉な効果を生んだのが、東京事変とうきょうじへんによる主題歌「永遠の不在証明」だ。東京事変のヴォーカリストである椎名しいな林檎りんごは、本来ならこの映画が公開されていたはずの二〇二〇年四月時点では先述の山崎貴同様、東京五輪開会式・閉会式の式典総合プランニングチームに参加していたのだが、同年十二月には電通出身の佐々木ささきひろしが総合統括に就き、チームは解散に至った。その後になってこの映画を観ると、お払い箱になった椎名林檎が東京五輪をモデルにしたこの映画の主題歌を担当していることに(恐らく映画スタッフも椎名本人も当初は全く意識していなかったような)別の皮肉なニュアンスが生じてしまうのである。


 東京五輪を意識した映像ミステリで最後に言及しておきたいのが、TBS系で二〇二〇年六月から九月まで放送された連続ドラマMIUミュウ404ヨンマルヨン塚原つかはらあゆ子・竹村たけむら謙太郎けんたろう加藤かとう尚樹なおき演出、野木のぎ亜紀子あきこ脚本)である。初動捜査を担当する警視庁機動捜査隊(通称・機捜)の伊吹いぶきあい綾野あやのごう)と志摩しま一未かずみ星野ほしのげん)というコンビの活躍を描いた、バディものの刑事ドラマである。

 このドラマは当初は全十四話の予定だったが、その構想を狂わせたのがコロナ禍である。ちょうど各局のドラマの撮影に大混乱が生じていた時期であり、『MIU404』も撮影中断となり、全十一話に短縮されるという不運に見舞われた。ところが、その不運を逆手にとって物語としての高い完成度へと反転させたのが、脚本の野木をはじめとするこのドラマのスタッフたちのしたたかさであり、それに応えた出演者たちの見事な演技である。

 最終回は、途中から登場する黒幕的存在(二〇二〇年東京五輪を食い物にする人物として描かれる)との決着がつく回だが、その過程で物語はパラレルワールド的な奇妙な分岐を見せる。それは、二〇二〇年に予定通り東京五輪が開催された世界線と、現実と同じく中止になった世界線だ。

 この回では志摩と伊吹が、東京五輪開催反対派と賛成派の揉め事を仲裁するシーンがあるが、そこで反対派の老人は「俺だって、反対したくてしてんじゃねえよ。オリンピックが来ること、ガキの頃みたいに喜びたかったよ」と述懐する。そして二〇二〇年に東京五輪が開催されたほうの世界線で物語がバッドエンドを迎えた後、もう一つの世界線では事件が無事に一件落着した後のラストで、舞台はその翌年、つまりコロナ禍に覆われた二〇二〇年の東京へと移行する。そこでは伊吹と志摩がマスク姿で登場し、志摩は「オリンピック、まさかなくなるとはなあ」「賛成も反対も全部ウイルスが呑み込んだな」と呟く。そして、数字の0のかたちをした新国立競技場の上空からの撮影と、「ゼロ」という最終回のサブタイトルが出ることでこのドラマは幕を下ろす。このサブタイトルは、新国立競技場のかたちであると同時に、逮捕後は完全黙秘を貫き他者からのいかなる解釈も拒んだ黒幕の空虚さの象徴であり、その黒幕を追いつめる決め手となった違法ドラッグ「ドーナツEP」のかたちでもあり、更に言えば、このラストこそがここから始まる新たな物語の出発点でもある――ということだろう。

 第一章で触れたように、TVドラマは幾つかの例外を除いてコロナ禍など存在しないパラレルワールドを描くようになっていったけれども、常に現実と切り結ぶ脚本家である野木亜紀子がそのような道を選ぶ筈がない。コロナ禍や五輪延期といった、当初の構想が生まれた頃には想像できなかった世相の激変によって傷だらけになりながらも、『MIU404』はテンションを落とすことなくゴールまで走りきった。

『MIU404』が第百五回ドラマアカデミー賞で四冠に輝いた際、野木は《WEBザテレビジョン》のインタビュー(二〇二〇年十一月七日。インタビュアー:小田おだ慶子けいこ)で、「あのシーンが生まれたのはコロナ禍があったからでしかないですね。もともと全14話でオリンピック前までを描く予定だったのに、オリンピックが延期になり、どこで終わればいいのか分からなくなってしまった。私たちの意志で未来は選べるけれども、選べないことも多々あり、その代表が新型コロナウイルスじゃないですか。それによるオリンピックの延期も完全に不可抗力で、でも、私たちはこの現実から生きていかなきゃいけない。そういった状況が、『MIU404』で描こうとしたテーマにすごくマッチしているなと思いました」「それで、最後にマスクした彼らがあの競技場前からスタートしたわけですが、それにはある種の運命的な合致を感じました。たまたま2019年4月から物語を初め(ママ)、2020年で終わる設定にしていたのも奇縁というか…。連続ドラマでなかったら生まれていない展開で、タイミング的に良いかんじに取り込めたのもラッキーでしたね」と答えている。個人にはどうしようもないコロナ禍と五輪延期という想定外の状況の中で、それでも現実の社会をドラマに反映させてみせるという野木の強靱きょうじんな意志としなやかな発想がうかがえる。



 第一章で私は、コロナ禍を扱ったミステリではドラマなどの映像は世相を表現することには失敗し、むしろ新型コロナの流行が存在しないパラレルワールドを日々映し出すような現実逃避的な姿勢が目立ち、逆に小説はさまざまなかたちでコロナ禍を描こうとしている――と総括した。だが東京五輪を扱ったミステリに関しては、小説には五輪開催延期の煽りを食らった作例が多く、むしろ映像作品に成功作が目立つという逆転現象が見られる(『MIU404』のような連続ドラマのほうが、かえって臨機応変に対処し得たという事情はあるだろう)。しかし、成功したにせよ失敗したにせよ、東京五輪という外れくじを、それを踏まえた作品においていかに当たり籤へと変化させようとしたか――そこに、創作者たち各自の志や工夫が見られるのは事実であり、そこから学ぶべきものは多い筈である。

《ジャーロ No.84 2022 SEPTEMBER 掲載》



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