ドキュメンタリーとして観る『水曜日のダウンタウン』(後編)|稲田豊史・ミステリーファンに贈るドキュメンタリー入門【第7回】
文=稲田豊史
「仕込み」のメタ批評
今回は、TBS系で放映中のバラエティ番組「『水曜日のダウンタウン(水ダウ)』の本質は、ほぼドキュメンタリーである」という話の後編である。
※前編はこちらから
前号掲載の前編では、『水ダウ』がいかに関与型ドキュメンタリーの要件を満たしているか、見慣れた事象に新たな視点を設定しているか、自ら身を置くTV業界に対する自己批判を行っているかなどを、具体的な企画内容を挙げながら論じた。そこで明らかになったのは、ある種の「作り込んだお笑い」と社会派ドキュメンタリーとの類似性である。
前編の最後では、『水ダウ』きっての名作企画として名高い『テラスハウス』のパロディ「MONSTER HOUSE」(2018年、7回にわたり放映)を例に取り、その高い批評性を指摘した。その本家『テラスハウス』が2020年、出演者の自死によって打ち切りとなり、リアリティ番組でありながら「ストーリーは制作側で作っていた」「スタッフから出演者への〝指示〟はあった」という関係者証言が明るみに出たことは、実に示唆に富む。
ドキュメンタリーのいちジャンルであるとも言えるリアリティ番組にどこまで台本が存在するのか、参加者にはどこまでスタッフから「指示」が飛んでいるのかは、たびたび話題になり、問題視され、ときに炎上する。
話を広げるなら、『水ダウ』が身を置いているTV業界全体こそ然り。情報バラエティにしろドキュメンタリーにしろ、狙い通りに撮影するための算段・準備である「仕込み」や、過剰演出などによって事実と異なる内容を事実に見せかける「やらせ」は頻繁に告発され、都度問題視される。前編で言及した、名の知られていない女性タレントが自分に無理やり「汚部屋アイドル」「不思議ちゃん」といったキャラを〝乗せ〟てオーディションに挑むケースも、TV局側が「関与していない」としらを切ったところで、「キャラが強くないとTVに出られない」という無言の圧はかかっていただろうし、「そこ、もう少しキャラ強めに出せないか」という〝リクエスト〟がなかったとは思えない。『水ダウ』はこのデリケートゾーンに分け入り、批評的告発を試みたわけだ。
『水ダウ』がTV的「仕込み」をメタ的に批評した企画は他にもある。
「ダブル八百長シリーズ」と称する企画は、芸人同士の偽対決(相撲・PK合戦・綱引き・二人三脚、大食い、恋愛サバイバルなど)で、両者ともスケジュールの関係で「わざと負けなければならない」状況になったらどうなるか?を検証するもの。
また「『ラヴィット!』の女性ゲストを大喜利芸人軍団が遠隔操作すればレギュラーメンバーより笑い取れる説」では、朝の情報バラエティ番組『ラヴィット!』(TBS系)にゲスト出演するやや不思議系の若手女性アーティスト「あの」に対し、別室にいる野性爆弾・くっきー!、霜降り明星・粗品ら売れっ子芸人がイヤホンを通して大喜利の答えを伝え、そのキレキレの回答に『ラヴィット!』の現場にいる芸人が焦る――状況を観察するもの。
「対決ものでわざと負ける」「クイズなどの問題や解答を前もって出演者に伝えておく」が、TV業界でどの程度「当たり前」なのかは知る由もないが、この2企画はそれらが「ないことではない」ことを匂わせる、絶妙の批評性に満ちていた。
『進め!電波少年』の「やらせ」問題
ドキュメンタリーもしくはドキュメンタリーに準じるバラエティ番組において、「仕込み」や「やらせ」はどこまで許されるのか。
田原総一朗は1960年代から1970年代にかけて東京12チャンネル(現テレビ東京)で数多くのドキュメンタリー番組を制作したが、その多くは「仕込み」と演出の産物だったことがよく知られている(*1)。
ただ、その「仕込み」を「やらせ」と捉えるか、関与型ドキュメンタリーの「関与」の範囲と捉えるかの線引きは難しい。関与は事実だとしても、それによって得られる被写体の反応が本物であれば、その「仕込み」は真実を引き出すためのプロセスとして免罪されるという考え方もある。であれば、「被写体の反応が本物」でさえあればいいという意味において、『水ダウ』などが試みる芸人への過激なドッキリも、田原のドキュメンタリーと構造的には変わらない。
ちなみに『水ダウ』のプロデュース・演出を務める藤井健太郎は、著書『悪意とこだわりの演出術』(双葉社)で「『やらせ』をしたことはありません」と断言している。ここにおける「やらせ」とは、「被写体の反応については台本に書いてない」を意味するのだろう。
バラエティ番組と「やらせ」でよく知られているのが、森達也が「ドキュメンタリーとして面白い」(*2)と評した『進め!電波少年』(日本テレビ系、92~98年放映)の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」だ。猿岩石の名を一躍有名にした同企画では、彼らがヒッチハイクのみで目的地に赴くルールのはずなのに、都合3回も飛行機に乗って移動していたことが明るみに出た。当時の日本テレビ社長・氏家齊一郎は「番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメント。物議を醸した。
氏家の発言からは、「真面目なドキュメンタリーではない、バラエティ番組だから許される」といったニュアンスが汲み取れるが、本稿前編で引用した森の言葉「社会告発だろうが、お笑いだろうが、お涙頂戴だろうが、ドキュメンタリーの手法を使ったのならその瞬間に、その表現はすなわちドキュメンタリー」(*3)を踏まえるならば、氏家の発言は不穏当であろう。もし何か説明するなら、「飛行機に乗ったことは企画の秀逸さをねじ曲げるものではなかったし、旅の途上で猿岩石が乗り越えた試練の価値を損ねるものでもない。なにより被写体(猿岩石)のさまざまな反応は本物だった。ゆえに問題はない」で通すべきだった。
秀逸なフェイクドキュメンタリーとしての『めちゃイケ』
フィクションにもかかわらず、ドキュメンタリーの手法で(ドキュメンタリーに偽装して)撮られた作品を、俗にフェイクドキュメンタリー(和製英語。正式にはモキュメンタリー/mockumentary)と呼ぶが、フェイクドキュメンタリーと「お笑い」の文脈で必ず押さえておかなければならないのが、「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」が放映された1996年にフジテレビ系でスタートした『めちゃ×2イケてるッ!』である。
1996年から(前身番組は1995年から)2018年まで放映されていた同番組は、ナインティナイン(岡村隆史、矢部浩之)をメインに据えたバラエティ番組だが、その軸になっていたのはロケである。ゆえにたくさんのドキュメンタリーライクな企画が生まれた。
たとえば、岡村がSMAPやEXILEのコンサートやライブに出演したり、劇団四季の「ライオン・キング」に出演したりする「岡村オファーがきました」シリーズ。雛形あきこの大ファンである少年を長期にわたり追跡した「ヨモギダ少年愚連隊」シリーズ。SMAPの中居正広と岡村による人気スペシャル企画「中居&ナイナイ日本一周」など。その多くは建前上、行きあたりばったり突撃ロケの体裁を取りながら、そのドラマチックな展開からは綿密なシナリオの存在を感じさせ、良い意味での作り込みに満ちていた。
『めちゃイケ』は「秀逸なフェイクドキュメンタリー」として完成されていた。起こるハプニングや芸人のリアクションは〝計算され尽くして〟おり、その細かい所まで行き届いた制作者側の配慮が、密度の高い笑いを生んでいたからだ。
関与まみれで、仕込みまみれ。しかし現場で起こっていることの「とんでもなさ」は紛れもなく事実。そこに巻き込まれる芸人やタレントたちの反応も――幾分かは台本によって増幅されている(と推測される)とはいえ――基本的には「湧き起こるべくして湧き起こったもの」と納得できるだけの説得力にあふれていた。その完璧に段取りが整えられた台本上の、完璧に設計された笑いの精密さによって、我々は安心して笑うことができたのだ。
『めちゃイケ』の〝完璧な設計〟がもっとも秀逸な形で結実していたのが、2010年11月27日に放映された、岡村の番組復帰にまつわる企画である。
岡村は2010年7月より体調不良(岡村曰く「(頭が)パッカーンってなった」)によって5ヶ月弱休養したが、明るく天真爛漫な芸風のお笑い芸人がメンタル不調から復帰するのが「TV的に難しい」ことは容易に予想された。シリアスに病状を報告すれば笑えない。しかし何事もなかったかのように復帰するのも不自然に過ぎる。
そこで『めちゃイケ』の出した答えが、当時世界的なニュースになった「コピアポ鉱山落盤事故における作業員救出」をパロディ化する、というものだった。
岡村は地中から引き揚げられたカプセルから無言で登場し、「生還」を表現する。岡村も相方の矢部浩之も感極まってはいるが、これはコント的なパロディフォーマットの上で行われているパフォーマンスなので、ギリギリ「笑い」に回収できる。かつ、岡村は表情が悟られないよう作業員のコスプレでサングラスを装着、かつ「無言のキャラ」という設定を貫いたため、視聴者は岡村に対して無用の「痛々しさ」や「哀れみ」を感じないで済んだ。
その上で、この〝茶番劇〟の底には「岡村が満を持して復帰した感動」という本物の感情が流れている。台本のある虚構によってリアルな感情を白日のもとに晒す。その機能だけを言うなら、真実を引き出すためのプロセスとして「仕込み」を活用したドキュメンタリーとなんら変わらない。
プロレス的なる「虚」と「実」
誤解を恐れず言うなら、ある種のショーアップされたプロレス興行も「岡村復帰企画」と同じ性質を帯びる。そこには、シナリオ化された「因縁」や、増幅された演者としてのレスラーの「感情」が、興行主の意図まみれで充満しているからだ。
ただし、これを「八百長」と断定するのはあまりに浅はかである。鍛え上げられたプロレスラーの肉体は本物。技をかけるテクニック、かけられるテクニック、そこに生じる痛みも本物。ドキュメンタリーで言うなら「被写体の反応が本物」というやつだ。
だから我々は、シナリオに乗せて語られるレスラーたちの雄叫びを噓だとは思わない。台本に従ってセリフを発する役者の芝居で受けた感動を噓と呼ばないのと同じである。
ただ、そこに漂う「虚」と「実」の線引きは非常に難しい。否、線引きを理解するにはある程度のリテラシーが求められる、と言うべきか。たとえば、『めちゃイケ』の「中居&ナイナイ日本一周」については、番組終了から4年以上も経過してから、こんなことがあった。
中居が2022年7月5日放送のNHK特番『笑いの正体』で、同企画が一言一句、全部台本にかかれている通りに進行し、リアクションの取り方まで細かく指示されていたと発言したのだ。
一定のリテラシーをもった視聴者にしてみれば、「今さら何を」案件ではあるが、その発言があまりに波紋を呼んだのか、後日中居は自分のラジオ番組で釈明し、反省と『めちゃイケ』メンバーに対する謝意を表明した。たとえるならこれは、プロレスラーが過去の試合を振り返り……いや、皆まで言うまい。
ちなみに、『水ダウ』の藤井健太郎はプロレス好きを公言しており、同番組にもプロレスネタが多い。松本人志をマスクマンに仕立てて観客に伏せた状態で試合に出したり、DDTプロレスリング所属のスーパー・ササダンゴ・マシンというプロレスラーを企画のプレゼンターとしてスタジオに出演させたり。藤井は自著で、自分の番組に「悪意がある」と言われるというくだりで、試合を盛り上げるために〝あえて〟ヒール(悪役)を引き受けるプロレスラーの例を出している。
藤井はプロレスが好きな理由を、「格闘技・プロレスは、『活字プロレス』という言葉に代表されるように、まさに『文脈』で語られるジャンルです。どんなに試合がつまらなくても、その裏に物語があれば乗れちゃうという側面がある」(*4)と述べているが、虚実入り交じるドキュメンタリーの醍醐味に通じるものがある。
改めて考えてみると、『水ダウ』があそこまで過激なドッキリを許されているのは、騙される側が芸人や芸能人という「特殊な訓練を受けたプレイヤー」であり、リアクションや醜態を晒されることも含めて彼らの(おいしい)仕事としてプラスになっているからだ。その芸人や芸能人を「プロレスラー」に置き換えても、この見立ては成り立つ。
であるならば逆に、『水ダウ』という番組はあるひとつのプロレス興行団体であり、その所属選手が団体のマット内だけで成立する過激なパフォーマンスを毎週客に見せている、という見立てもまた可能なのかもしれない。
ちなみに森達也はかつて小人プロレスを題材にしたTVドキュメンタリー(*5)を撮っているばかりか、戦後のアメリカで〝卑怯な日本人レスラー〟として富を築いたグレート東郷を追跡したノンフィクションの著作(*6)もある。ある種のドキュメンタリストは、虚実入り交じったプロレスの構造的魅力にどうしたって惹かれてしまうのだ。
プロセスの可視化/構成と展開
プロレスも作り込まれたお笑いも、藤井の言葉を借りるなら「『文脈』で語られる」。その文脈を作り出すのが「構成」である。
『マン・オン・ワイヤー』(08)でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞したイギリスのドキュメンタリー監督ジェームズ・マーシュは、「ドキュメンタリーで物語を劇的に語るためには、最適な構成を見つけ出さなければいけない」「どんな映像作品を作るとしても、ともかく重要なのは構成」と、構成の重要さを強調する(*7)。
断言してもいいが、優れたドキュメンタリーはおしなべて構成が優れている。取材によって集めた膨大な映像素材のどこをピックアップし、どういう順番で配置すれば、論点が明確になるか。問題意識が適切に伝わるか。設定した視点が効果的に機能するか。ドキュメンタリストは知恵を絞る。
あるテーマを描くにあたり、構成に唯一無二の正解はない。10人のドキュメンタリストがいれば、10通りの構成がある。ただ、基本的なセオリーはいくつかある。そのひとつが、プロセスを可視化することだ。
『哀しみと憐れみ』(69)などで知られるドイツのドキュメンタリー監督マルセル・オフュルスは、「視点は誰でも持っていますが、要はその視点にたどり着くのがどれほど大変だったかという過程を見せるのがコツ」と唱える(*8)。森達也も「撮る前に事前の取材は重ねている。ある程度の構成も頭にある。でも、いきなり結論を呈示しては作品としては成立しない。撮影と発見が並行する形で、事前の取材を通して僕が体験した経過を、もう一度映像の形で反復せねばならない」と言う(*9)。
これを綺麗になぞっているのが、『水ダウ』藤井の演出術だ。藤井は言う。「ただ爆破しただけじゃ別に面白くはない。『どういう流れで爆破に至ったか』『どういう状況での爆破か』、そういうことが一番大事で、それによって全く面白さが変わってきます」(*10)。ここにおける「爆破」とは、たとえば「芸人の大事にしているものを目の前で爆発させるドッキリ」のごとき爆発を指すが、単に派手な爆発をダイナミックに撮っても面白みは出ない。やはり大事なのは文脈づくりであるということだ。
藤井は「説(『水ダウ』における企画の呼び方)」を採用するポイントのひとつにも、「結論に至るまでの展開がちゃんと面白く描けるか、そのプランが見えているかどうか」を挙げる(*11)。
文脈あるいは展開は、構成によって生成される。考え抜かれた構成が文脈をあぶり出し、展開のダイナミズムを担保する。やはり、構成なのだ。
研ぎ澄まされた漫才のごとき構成
「お笑い×ドキュメンタリー×構成の妙」の掛け算が見事な作品としては、『ザ・エレクトリカルパレーズ』(20)も挙げておきたい。お笑いコンビ・ニューヨークのYouTubeチャンネルで公開されたドキュメンタリー(と便宜上呼ぶ)で、その内容は、かつてNSC(吉本総合芸能学院)に存在した「ザ・エレクトリカルパレーズ(エレパレ)」という10数名ほどの男性集団の謎に迫るもの。エレパレに関係した多数の芸人・元芸人たちのインタビューによって、エレパレの実態が明らかにされていく。
取材者が、取材開始時点では意図しなかった意外な〝真実〟に、期せずして到達してしまう構成は、まさにプロセスの可視化。藤井が言うところの「結論に至るまでの展開がちゃんと面白」いを体現している。それゆえ尺は128分とかなり長いが、長さを一切感じさせない。
また本作は、2つの点において著名ドキュメンタリーを彷彿とさせる。めくるめく展開がもたらす興奮は原一男の『ゆきゆきて、神軍』(87)、結末の静かなるどんでん返しは森達也の『FAKE』(16)。そしてその2点はそのまま、同作に登場する芸人たちが日々磨いている芸――「漫才」の特徴そのものだ。筆者はWebに寄稿した同作についてのコラムにこう書いた。
「秀逸な漫才は、流れるような掛け合いを一瞬たりとも緩めることなく、観客を意外な結末へと一気に運んでいく。演者に腕があれば、『その演者すら想定していない結末だった』と観客に錯覚させることも可能」(*12)。
『ザ・エレクトリカルパレーズ』に登場する人物は全員が芸人もしくは元芸人なので、そういった意味では『水ダウ』の「プレイヤー限定のプロレス興行団体」感がなくもない。その意味では、同作にどの程度(作り込んだ、という良い意味での)「仕込み」があるのかはわからない。ただ、128分を飽きさせないで見せる研ぎ澄まされた構成の価値は、同作に「フェイク」な箇所が含まれていようがいまいが、変わるようなものではない。
なお、構成至上主義者たる藤井は、自著で「構造で遊んでいるものが好き」という主張の流れから、「フェイクドキュメンタリーモノは必ずチェックしています」と述べている(*13)。フェイクドキュメンタリー的なる「めちゃイケ」やプロレスと『水ダウ』との接近感は、ここからも察知できる。
発言者を腐す編集の妙
藤井はかつてインタビューで「僕のディレクターとしての能力が編集とか構成にだいぶ寄ってる」と語った(*14)。その言葉どおり、『水ダウ』で構成と同じく力が入っているのが編集だ。VTRの大枠の構成が決まれば、今度は発言やリアクションのどの部分を採用するかを、秒単位どころかフレーム単位で策定し、それによってリズムを作り、湧き上がるおかしみを演出する。気の利いたテロップやナレーションで笑いを増幅する。これが編集だ。
『水ダウ』の編集で特徴的なのが、「カット尻の悪意」である。カット尻とは、あるVTRにおけるひとつづきのカットの終わり際のこと。ここに意地悪を込めるのが、実に上手い。
たとえば、ある人物がドヤ顔で何か偉そうなことを語るVTR。その言い終わりですぐにカットを切り替えず、言い終わってもしばらくカメラを向け続け、スタッフがあえて相槌も打たず、気まずい沈黙のまま2、3秒間「放置」するのだ。これにより場の「サムい空気」「スベった感」「気まずさ」が強調される。発言者を編集によって腐しているわけだ。
仮に同じ発言でも、言い終わった瞬間にカットが切り替われば「スベった感」は回避される。また、スタッフに「なるほど」といった相槌を打たせたり、テロップやナレーションで発言を補完したりすれば、発言者の援護射撃となりうる。一般的な情報番組やワイドショーならば、そうするだろう。
しかし『水ダウ』はあえてそうしない。これは明確に、番組が「その発言はスベっている」ことを演出として伝えようとする意図の表出であり、エンターテインメントとしての〝悪意〟だ。悪意をプロレスのヒールの役割――試合を盛り上げるための手段としてひどいことをする――にたとえた藤井らしい。
逆に、まだ話が終わっていないのに突然カットが切り替わって話が乱暴にぶった切られる編集もある。これは「話がつまらないから、これ以上聞く価値がない」ことの表現だ。発言者にとっては残酷かつサディスティックな仕打ちだが、『水ダウ』の発言者は基本的に芸人もしくはいじっても良さそうな著名人、あるいは番組がいじってもいいと判断した一般人なので、このあたりは容赦ない。
結末を想定しないで撮り始める
また、『水ダウ』の特徴的な編集のひとつに、「冗長なくだりの早送り」がある。何かを調べたり撮ったり追跡したりしてみて、特にこれといった結論にたどり着かなかった場合、VTRをチャカチャカと早送りして「これといった理由や結論が見つからなかったので後半は駆け足でお送りしました」などと、呆れるほど正直に「撮れ高がなかったこと」をあけっぴろげにし、それ自体をメタに笑い飛ばす。
どう転ぶかわからない事象を追い、狙ったような結論が出なくてもそれを受け入れ、編集で面白く仕上げることに執心する。構成を練り、鑑賞に耐える映像作品に仕立て、そこにある種の意図(笑える意地悪や高度な皮肉)を忍ばせる。これは非常にドキュメンタリスト的な態度ではないだろうか。
実際、慎重で誠実なドキュメンタリストであればあるほど、カメラを回す際に結末を想定しすぎない傾向にある。
前出の『ゆきゆきて、神軍』や『全身小説家』(94)といった人物密着ドキュメンタリーをよく手掛ける原一男は、「作る段階から成功するかどうかはわからない。わからないけどやってみようと思ってやるのがドキュメンタリー」(*15)と、撮る前に結末を想定しないスタンスを明らかにしている。また、『ヤクザと憲法』(15)、『さよならテレビ』(18)といった野心的なドキュメンタリー番組を多数プロデュースする東海テレビの阿武野勝彦は、「デスクが取材前のイメージに執着すると、実態との乖離をどうするか困ったことになる」(*16)と自戒を込めた警鐘を鳴らす。
その阿武野の下でディレクターとして現場に赴く、同じく東海テレビの圡方宏史ディレクターも、「このテーマで撮りたいという熱意が全て。走りながら考えるというか、走ってから考える感じ。とりあえず1年取材して、どうまとめるかを考える」「何かことが起こらないと前に進められない。待つしかない。でも、急に動き出すこともある。この、どうなるのかわからない状態が続くことこそが、ドキュメンタリー」(*17)と言い切る。
阿武野はこのような東海テレビのスタイルを、「事前に下調べせず、予断を持たず、シノプシスを作らず、ノーガードで視聴者の目線で対象に向かってゆく、そして収録できた素材から構成を組み立てる、いわば『手ぶらのドキュメンタリズム』」(*18)であると説明した。
精密に込められた監督の意図
藤井は『水ダウ』の編集作業をすべて自分で行い、ナレーション原稿もすべて自分で書くという。「日々の作業の中で一番時間を使っているのが編集かもしれません」(*19)とまで言っていることから、そこに賭ける熱量は相当なものだ。細部にまで張り巡らされた『水ダウ』の悪意とはつまり、藤井の意図の産物である。
『めちゃイケ』の生みの親にして総合演出やプロデュースを行っていたフジテレビの片岡飛鳥も、編集、ナレーション原稿作成、テロップ構成・デザイン作成などを自ら行っていたが、片岡の『めちゃイケ』での肩書は一貫して「総監督」だった。監督だからこそ、演出にたくさんの意図を込める。1フレーム単位、テロップ1文字単位で細部に至るまで手を入れる。手を入れているものがバラエティ番組かドキュメンタリーかの違いはない。
以下の森達也の言葉は、藤井や片岡の行っている編集が、いかにドキュメンタリー監督のそれと同じかを表している。
「主観の果実に、編集作業という作為的な加工が施されて作品は完成する。そこには中立や客観などの概念が入り込む余地などまったくない」(*20)
本連載で再三繰り返していることだが、ドキュメンタリーに「中立視点」は存在しない。すべてが監督の主観であり、もっと言えば監督の自己表現だ。森はかつて、「プロデューサーに『そんな恣意的なドキュメンタリーはありえないでしょう』と真顔で言われ、『恣意的ではないドキュメンタリーなど意味があるのですか?』と思わず聞き返したことがある」という(*21)。そんな森の持論は一貫して、「ドキュメンタリーは徹底して一人称」だ(*22)。
阿武野勝彦は自著で「ドキュメンタリーには、他者を題材にしながら今の自分を表現するという側面がある」「最後に番組に映り込むのは、紛れもなく制作者である自分の裸なのではないか」(*23)と述べているが、このような考え方は阿武野に限らない。圡方宏史も「被写体との間にカメラを入れた段階で、そこには作り手の意図が入る」と言っている(*24)し、『選挙』(07)、『精神』(08)などで知られる想田和弘監督も、自身にとってドキュメンタリーとは「僕自身の私的な経験を映画的言語によって再構築し、それを観客と共有するということ」「僕の個人的で主観的な体験にすぎません。新聞とか論文とかいうよりは、日記」とインタビューで答えている(*25)。
セルフブランディングする被写体
テーマの切込み角度に立ち現れる批評性、「仕込み」や「やらせ」の付随や自己言及、プロレス的なる「虚」と「実」の戯れ、プロセスの可視化、構成と編集のダイナミズム。それらすべて、『水ダウ』をはじめとする作り込まれたバラエティ番組とドキュメンタリーに共通する要素だ。
藤井がプロデュース・演出を担当する『クイズ☆正解は一年後』(TBS系、13年~)という年に1度の特番がある。これは毎年1月の収録時に「今年起こりそうなこと」を予想するクイズを芸人たちに答えてもらい、その年の12月末に答え合わせを行いながら生放送するという壮大な企画だ。同番組について藤井は、「時間をかけるアプローチはある種ドキュメンタリー的でもあります」とした上で、好んで見る番組はドキュメンタリーが多いと明かした(*26)。ここからも、『水ダウ』をはじめとした藤井作品の根底に流れるドキュメンタリー成分は、相当に「濃い」と考えてよさそうだ。
なお藤井はインタビューで、芸人からすれば『水ダウ』の仕事は手応えのないものも多い、どの部分が面白がられているのかが見えづらいから――と述べた後、「逆にそこの自覚がない人のほうが面白いんじゃないですか?」(*27)と続けた。
この発言はドキュメンタリーの被写体にも大いに当てはまる。被写体が「カメラで撮られていること」に意識的であればあるほど、被写体の態度はよそ行きになり、収められる映像にはどこか作為感が漂うからだ。人間とは、「誰かから見られている」と意識すればするほど無意識のうちにセルフブランディングを始める生き物だ。ブランディングとは「競合との差別化を図り、顧客にとっての価値を高める行動」のこと。
要は、人は他人から「良い人間」だと思われたい。
そう考えると、『水ダウ』の被写体の多くが、セルフブランディングがとても重要な職業の人間――芸人や著名人――で占められているのは面白い。『水ダウ』は、放っておいてもセルフブランディングを始めてしまう被写体に対し、「そうはさせるか」とブランディング行為を無化すべく様々に仕掛ける。それによって、被写体自身が想定していなかった被写体の本質を暴こうとする。「自覚がない人のほうが面白」くなるからだ。
撮られる者の意図に反し、撮る者がサディスティックな攻勢を仕掛ける。撮る者と撮られる者の攻防戦が、観客が見るに値する反応を生む。まさに、ドキュメンタリーだ。
以前の拙稿で引用した森達也の言葉を、ふたたび引用しよう。
この「ドキュメンタリー」という文言はそのまま『水曜日のダウンタウン』に置き換えが可能だ。
《ジャーロ NO.86 2023 JANUARY 掲載》
▽ミステリーファンに贈るドキュメンタリー入門
▽稲田豊史さん近著
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