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謎と怪異が溶け合う未知のホラーミステリー【プロローグ&第一章全文公開】ーー『地羊鬼の孤独』大島清昭

2022年11月24日(木)発売の新刊『地羊鬼ちようきの孤独』(大島清昭・著)より、作品冒頭のプロローグと第一章を試し読み公開します。




プロローグ


 今日もまた、あの男がいる。
 二階の窓から、そっと自宅前の道を見下ろすと、近くの電柱の陰から男がこの家を見ている。スポーツウェアに身を包み、キャップを目深にかぶって、さもジョギングの途中だといった雰囲気を装っているが、実際は我が家の前を行ったり来たりしているだけで、運動が目的ではないことは明らかだった。通行人がいない時は、今のように立ち止まって家の敷地をのぞいていることもある。
 男を見かける頻度は、そう多いものではない。
 月に一度か、二度くらいだ。だから、最初はその存在に気が付くことはなかった。しかし、ある時、男の行動に違和感を覚えてからは、注意深く観察するようになった。
 以前一度だけ、正面から男を見たことがある。外出しようと庭に出た時に、ちょうどあの男が門の前に立っていたのである。
 知らない男だった。
 少なくとも近隣に住んでいる住民ではない。
 男は一瞬驚いたように目を見開いたが、何気ない様子を装ってその場から立ち去った。
 その不自然な態度から、不審者ではないかと疑った。
 もしかしたら妻や娘たちを狙っているのかと心配になり、警察官の友人にも相談した。不審者情報を管轄の警察署に連絡してくれたそうで、近い内に我が家の周辺をパトロールの巡回ルートに加えてもらえるらしい。
 家族には十分に気を付けるように注意したし、防犯カメラも新たに設置した。
 本当にあの男は何者なのだろうか?
 どうして何度も我が家を見張るような行為をしているのだろうか?
 全く心当たりがない分、男の存在は不気味に思えた。
     *
 やっと、やっと見つけた。
 大通りの道端に、無造作に置かれたその小箱を見つけた瞬間、私は歓喜の声を上げそうになった。
 ここ数年というもの、これを求めてあちこちに足を運んだ。養殖が盛んな沿岸部にも行ったし、もっと内陸の村も何度か訪れた。
 見かけたといううわさを耳にすることはあったが、これまで実物を目にしたことは皆無だった。最終的にこんな都会で見つかるとは思っていなかったが、結果オーライだろう。
 行き交う人々は、小箱に気付かないのか、あるいは、気付いてもえて無視しているのか、誰もがその場から足早に去っているようだった。
 私は人通りが途切れるのを待って、小箱に近寄った。
 蓋は開けられたままで、中には指輪やネックレスなどかなりの量の宝飾品が入っている。本物ならば相当な金額だろう。
 私は迷わずに、それを拾い上げた。
 不意に視線を感じて振り返ると、しわだらけの小柄な老婆が憐憫れんびんの籠もった視線を送ってきた。老婆は私の行為に対して、何もいわない。
 心配しなくて大丈夫ですよ。
 そう声を掛けたいところだが、他人との不用意な接触は避けるべきだろう。
 私は小箱に蓋をして、その場を後にした。
 散々準備に時間がかかってしまったが、いよいよ計画を実行に移す時が来たのだ。
 私はかつて受けた屈辱と絶望を思い出し、腹の中でどす黒いものが渦巻くのを感じた。
 もしも、もっと早い段階でこれが見つかっていたら、ここまで憎しみが増殖していたかはわからない。それを考えると、このタイミングは私にとってはよかったのだと思う。
 天の配剤という言葉が思い浮かんだ。
 来る日も、来る日も、燃やし続けてきたあいつらへの憎悪は、一時的な激情ではなく、今や紅蓮ぐれんの炎となって、全身を包み込んでいる。最早もはや目的のために他人の生命を奪うことに、何の躊躇ためらいも感じない。むしろどれだけの人間を死の淵に追いやれるのか、今は楽しみで仕方がなかった。
 気持ちが高揚して、顔が熱くなる。
 そして、私は無意識に十年前の特撮ヒーローの主題歌を口ずさんでいた。
 そう、私こそが正義なのだ。
     *
 霧崎きりさき病院(さいたま市、二十代、男性)
 これは去年の夏休み、栃木に帰省した時の話なんですけど、中学、高校が同じだった同級生の家に何人かが集まって飲んでたんです。えっと、男子が俺を入れて四人、女子が二人だから、六人ですね。
 それで、夜中過ぎになって、いつの間にか怪談大会みたいになっちゃったんですよ。その流れで、霧崎病院の話が出て。っていうのも、その飲み会の会場になってた奴の家が、霧崎病院の近くだったんです。
 霧崎病院っていったら、椰子尾やしお市じゃ滅茶苦茶有名な心霊スポットじゃないですか。みんなガキの頃から知ってるわけです。自殺した看護師の霊が出るとか、入院病棟から患者の霊が出てきて内臓を投げつけながら追いかけてくるとか、中に入った奴が精神に異常をきたしたとか、ホント昔から怖い噂だけは聞いていました。
 それで、誰かが「最近は動画サイトに霧崎病院がアップされてる」って話をして、「そんじゃ俺らも行ってみっぺ」ってな感じになったわけです。
 霧崎病院って行ったことあります? ああ、じゃあわかりますよね。あそこって三階建てで結構大きな建物なのに、通りから少し奥に入った場所にあるから、近くに行かないと建物が見えないじゃないですか。周りを林で囲まれてるせいか、フェンスとかバリケードとか全然ないし。あれじゃどっから何処どこ までが敷地なのかもちょっとわからないですよね。
 真っ暗な中を一本の懐中電灯とスマホの明かりで移動しました。まあ、二、三人だったら不安になったと思いますけど、六人ですからね。意外と怖くはなかったです。
 駐車場は雑草が凄かったです。アスファルトの亀裂から背の高い草がぐんぐん伸びて、俺らはそれを搔き分ける感じで、建物に近づきました。念のため、エントランスに入ったところで聞き耳を立てて、先客がいないか確かめました。ヤンキーとかいるとやっぱ怖いじゃないですか。こっちは女子もいるし。
 最初に行ったのは、手術室です。誰かが悪戯いたずらで手術台に血飛沫ちしぶきみたいな落書きしてて、懐中電灯で照らした時は正直ビビりました。メスとかハサミとか道具なんかも床に散らばってて、妙に生々しかったですね。その後、地下に下りて霊安室を見て、思ったより何もない空間だったんで、すぐに一階に戻りました。
「今度は上に行こうぜ」って話してた時です。ホントに何の前触れもなく、誰かが階段を下りてくる音がしたんです。それもだだだだだだだだって大きな音を立てながら駆け下りてくる感じでした。
 あんまり突然だったんで、全員で「ヤバい! ヤバい!」ってパニクって外に逃げ出しました。全力ダッシュです。
 でも、病院から離れたら、ちょっと冷静になって、「さっきのは俺らより先に肝試しに来てた奴らの悪戯なんじゃないか」って思ったんです。それでまた全員で病院の中に戻って、一人が「誰かいるなら出てこい!」って叫びました。
 次の瞬間、俺らの周りにスゲーたくさんの人の気配がして、あ、でも、姿は見えないんです。ただ、息遣いとか、服が擦れる音とか、生臭い空気とか、視覚以外の感覚で人がたくさんいる感じだけが伝わってきて、でも、逃げるにも周りを全部囲まれてる感じで、どうにもならなくて。
 結局、女子の一人が耐えられなくなって、「わー!」って叫びながら、外に飛び出したんです。
 慌てて俺らも後に続くように逃げました。逃げる途中、明らかに人っぽいものにぶつかった感触があったんですけど、あれって何だったんですかね。

 霧崎病院2(さくら市、三十代、男性)
 若い頃、霧崎病院でナース服を着た女に追いかけられたことがある。あれが幽霊だったのか、コスプレした人間だったのかはわからんが、血の付いた刃物を持っていたから、ヤバいと思って本気で逃げた。

 合戦場かっせんば (椰子尾市、二十代、女性)
 私の実家は椰子尾市の合戦場ってところなんですけど、そこは戦国時代に合戦が行われた場所なんです。
 小さい頃からずっと、夜になると、家の周りでガシャッガシャッて重々しい音がしてました。ええ、毎晩です。気になって外を見ようとすると、両親から割と真剣な顔で「やめろ」っていわれて、でも、子供って駄目っていわれると見たくなるじゃないですか。
 小学校に入ったばっかりだったかなぁ、まだ両親と一緒に寝てたんで、そのくらいだと思うんですけど、夜中にこっそりカーテンの隙間から庭を見たんです。
 そしたら、月明かりに照らされて、鎧兜よろいかぶとを着た人が歩いているわけですよ。背中をちょっと丸めるみたいな姿勢で、ガシャッガシャッて家の周りを回っている。
 顔とかはよくわからないです。でも、幽霊にしてはめちゃくちゃはっきりしてて、夜なのに鎧から血がしたたり落ちるのも見えて。
 私がぼうっとそれを見ていたら、母親が血相変えて飛んできて、慌てて私を抱きかかえて、窓から遠ざけたんです。その時、母親は物凄く怖い顔をしていました。で、「あっちに見てるのがバレたら、入って来るから」って、そういったんです。
 それ以来は夜中にどんなに音がしても、絶対に外を見るのは止めるようになりました。
 え? あ、はい。今でも毎晩聞こえますよ。ガシャッガシャッて。もう慣れましたけど。

 合戦場のコンビニ(椰子尾市、四十代、女性)
 これは椰子尾市の合戦場にあったコンビニでパートしていた時の体験です。そのコンビニには出るっていう噂がありまして、というのも合戦場って戦国時代の古戦場らしいんです。
 実際に深夜のシフトのアルバイトなんかは入れ替わりがとても早くて。はい、すぐに辞めちゃうんです。みんな落武者の霊を見たって話でした。いいえ、さすがに店内でじゃないですよ。外から金属がガチャガチャいうような音がして、駐車場で誰かが歩き回っているのが見えるみたいなんです。不審者かと思って様子を見に行くと、鎧兜を着た落武者だったって話で。
 直接体験した本人から話を聞いたこともあります。でも、大体は店長からのまた聞きが多かったですね。お化けが出るのはいやだなぁとは思っていましたけど、私は昼間のシフトだったんで、自分には無関係だって思ってたんです。
 でも、ある日の夕方、変なものを見ちゃって。
 季節は夏だったと思います。結構明るかったので。カラスが異様に鳴いていたんです。それも一羽や二羽じゃなくて、もっとたくさんのカラスが、コンビニの上でギャーギャー騒いでる。カーカーとかじゃなくて、ホントにギャーギャーって悲鳴みたいな不気味な声で鳴いてたんです。
 それで同じパート仲間と「何だろうね?」なんていって。「誰か食べ残しでも捨てたのかな」って。仕方がないので私が駐車場に様子を見に出ようとしたら、人がいるんです。
 駐車場の真ん中あたりに。ボロボロの着物を着ていて。
 でも、その人、首がなかったんです。
 見たのは私だけじゃありません。一緒にいたパート仲間も見てます。
 それからすぐに、コンビニは潰れちゃいました。その後も違うオーナーがコンビニをやったり、別の店になったりしましたけど、みんなすぐに潰れちゃうみたいです。
 今は空き店舗で売りに出されていますね。

 合戦場小学校(椰子尾市、十代、男性)
 僕の通っていた合戦場小学校は古戦場で、時々校庭から古い人の骨が出るそうです。体育の時間に校庭を走っていると、誰かに足をつかまれることがあると聞きました。
 四年生の時に同じクラスの女子が窓から校庭を見たら、桜の木の陰に鎧武者がたくさんいるといって、授業中なのにパニックになったことがあります。その子は霊感が強いみたいで、何回も学校で霊を見ているようでした。
 僕が見たのは鎧武者ではなくて、着物姿の女の人です。
 放課後、図書委員の仕事で遅くなって一人で帰る時に、廊下の向こうからおひな様が着てるような裾の長い着物を着た女の人が歩いてきました。髪が長くて、若い女の人だったと思います。
 凄くはっきり見えていたので、まさか幽霊だとは思いませんでしたけど、こんな場所にそんな服装でおかしいなぁと思っていたら、あっという間に目の前にその人がいました。
 頭から血を流していて、白目がなかったです。
 今でも時々夢に見ます。

 空っぽさん(椰子尾市、十代、女性)
 市の運動公園には空っぽさんっていうお化けが出るの。夕方になると、公園にコートを着た小学生の女の子が現れるんだって。
 真夏でも冬のコートを着ているから、出会った人が「変だな」って思っていると、その子は「あなたの内臓ちょうだい」って手を出してくる。でね、「イヤだ」っていうと、コートを広げるの。
 その女の子の体には、心臓も、肺も、胃も、腸もないんだって。体の中が空っぽなの。
 空っぽさんは、何年か前に殺されて、死体が運動公園の裏山に捨てられた小学生の霊だって話。
 その子の死体はバラバラにされていて、内臓も、脳味噌みそも、全部抜き取られていたんだって。

 空っぽさん2(椰子尾市、十代、男性)
 僕が聞いたのは、空っぽさんは内臓がない女の子の幽霊で、自分を殺した犯人を捜しているって話です。
 空っぽさんは椰子尾市立運動公園、黒木くろき神社、寺門てらかどダムの三か所に出ます。この場所は二〇〇七年に起きた女子児童連続バラバラ殺人事件で死体が見つかった場所なんです。だから、三人の空っぽさんはそれぞれ別の女の子です。
 でも、年に一度、霧崎病院って廃病院に集まって、犯人の手掛かりがないか相談するらしいです。

 空っぽさん3(椰子尾市、十代、女性)
 あたしが小学生の時の話です。あたしの家から塾に行くには、黒木神社の前を通らないといけないんです。
 昔から黒木神社は怖い神様がまつられているから、子供は近づいちゃいけないっていわれてたんですけど、あの小学生が殺されたバラバラ殺人があってからは、空っぽさんって幽霊が出るって噂になっていました。
 夏休みの夕方、自転車で塾から帰るところでした。八月だったんで、夕方っていってもまだ全然昼間みたいなものです。凄く暑かったですし。で、黒木神社の鳥居の前に、あたしと同じくらいの女子が立っていたんです。
 遠目からも、「あれっ?」って思いました。だってその子、真夏なのに真っ赤なダッフルコートを着てたんです。おかしいですよね? こっちはTシャツで汗だくなのに、コートなんて着てるなんて、普通じゃないです。
 その時、前に友達から聞いた「空っぽさんはいつもコートを着ている」って話を思い出しちゃって。もう怖くなって、全力でペダルを漕いで、その子のそばを通り過ぎました。ある程度進んでから振り返ったら、もう姿は見えませんでした。
 でも、何日かした後に、また同じ場所にその子がいて、相変わらず赤いコートを着てて、あたし、また全力疾走してやり過ごそうとしたんです。そしたら、チェーンが外れちゃって。それもまったのが、ちょうど鳥居の前辺りだったんですよ。
 焦って自転車から降りたら、目の前にコートの子がいました。
 ホントに目の前、顔と顔が触れそうな程、近くです。
 顔色は黄色っぽい土みたいな色でした。荒れた唇を半開きにして、目が濁っていて、眼球の上をハエがい回っていたんです。
 あたしは自転車を押しながら、全速力で逃げました。今思うと、変ですよね。自転車なんかそのまま放置してってもよかったのに。
 その日の夜から高熱が出て、それが三日間続きました。
 後でバラバラ殺人の昔の新聞記事を見たんですけど、あたしが鳥居の前で見た子は二番目の被害者でした。だから、熱が出たのは空っぽさんのたたりだったんだと思います。
 あ、そうですね。内臓、取られなくてよかったです。

 記録=船井仲丸「栃木県の怖い話 その9」『妖怪で世界を救う会会報』第十一号より

第一部 棺

第一章 弐の棺

   1

 事件現場を一目見た瞬間、八木沢やぎさわ哲也てつやからすぅっと現実感が遠退とおのいた。
 桜が咲き乱れる小学校の校庭である。鉄棒も、ブランコも、ジャングルジムも、ノスタルジーを誘うには十分過ぎるアイテムだった。これで児童が走り回っていたならば、まだ血の通った光景に見えたのだろう。しかし、生憎あいにく春休み期間だからか、児童の姿はない。
 この椰子尾市立合戦場小学校は、八木沢の母校ではないが、子供の頃に通っていた小学校とよく似ている。それはとても懐かしく、遠い記憶で、現在の自分との隔たりが余りにも大き過ぎた。だから、何処かアルバムを眺めるような感覚に陥ってしまう。
 あの頃の八木沢は身長も低く、坊主頭で、視力もよかった。終始ちょろちょろ走り回るような落ち着きのない子供で、よく両親や教師に叱られていた。他人の話もろくに聞かなかった気がする。
 それが今では、身長は一八五センチもあるし、髪も伸ばしている。シルバーのフレームの眼鏡めがねを掛け、動作も割ともっさりしているから、子供の時の印象からはかなり違って見えるだろう。
 否、見た目だけではなく、内面もだいぶ変わってしまっただろうと思う。
 八木沢は栃木県警椰子尾警察署の刑事課に所属している。この二〇一七年三月末で、刑事になって三年が経過したことになる。過去に二件の殺人事件の捜査に関わったが、これ程までに奇妙な状況の現場を見るのは初めてだった。
 満開の桜で彩られた校庭の中央には、白木のひつぎが置かれている。
 中には全裸の若い女性の遺体が入っていた。髪は長く、既に肌は生気を失った色をしている。痩せているが、胸は大きい。
 首にははっきりと絞められた痕があり、顔面も鬱血うっけつして苦悶くもんゆがんでいる。眼球に溢血点いっけつてんも見られるから、死因は頸部けいぶ圧迫による窒息死だろう。ただ、異様なのは胸の中央にある大きな傷痕だ。
 それは手術後に切開した場所を縫合したような痕で、遺体をより痛々しいものに見せている。検視官の話では死後十七時間程度経過しているという。
 棺の中に入っていた財布の中の運転免許証から、被害者はたき秋乃あきの 、二十五歳であることがわかった。免許証の写真を見る限り、美人の部類に属する容姿だと判断できる。
 自分と同じくらいの年齢の女性が、こうして無残な最期を迎えているのを目にすると、やり切れない思いになる。被害者にいちいち同情していられないのはわかっているが、生きている自分と死んでいる被害者が対峙する場にいると、色々と考えてしまう。彼女には彼女の人生があって、それは本来ならばもっとずっと続いていたはずだ。こうやって無残に生命を奪われてよいはずがない。
 八木沢の胸を占める感情は、正義感とは少し違う。最も近い言葉で表現するなら、寂寥せきりょう感だろうか。亡くなった被害者を見る度に、八木沢は途と轍てつもなく寂しくなるのである。
 それは八木沢の優しさに起因しているというよりも、事件の衝撃が生んだ喪失感に自身が耐えられないことから生まれているようだ。ただ、八木沢本人はそのことに無自覚なので、何となく胸に穴が開いたような心地で、被害者をぼんやり眺めてしまう。
 一陣の風が吹いて、淡い色の花弁を散らす。
 遺体の上にもはらはらと花弁が散った。
 八木沢は不謹慎だとわかっていたが、綺麗きれいだなぁと思ってしまう。
「ほら、ぼうっとすんな」
 上司の赤羽あかばねまもるに注意され、ようやく気持ちを切り替える。八木沢は同じような注意をもう何度も現場で受けていた。それなのに直らないのは、やはり自分に欠陥があるのだろうと思ってしまう。
 赤羽は五十代半ばで、煙草臭い。やや後退した頭髪は灰色だが、ロマンスグレーというような洒落しゃれた表現は似つかわしくない性格だ。いい意味でも悪い意味でも田舎のおっさんなのだ。とろんとした目つきと無精髭から夜勤明けか、寝起きのように見えるが、これが平素からの赤羽のスタイルである。スーツもシャツも皺が目立つのに、いつもネクタイだけは綺麗なものを身につけている。
 八木沢にはそのこだわりがよくわからない。
 県警本部の機動捜査隊員によれば、第一発見者は野球部に所属する児童たちである。
 春休み期間中は、午前九時から練習があるそうで、彼らは八時半くらいには集まってくる。道具を出したり、校庭をならしたりして、すぐに練習が始められるように準備するらしい。その最中に、四年生の男子児童が校庭の真ん中に奇妙な箱が置いてあるのに気が付いた。
 同級生二人と一緒に見に行くと、棺のような立方体の箱だった。蓋には赤い文字で「地羊鬼」「弐」と記されていた。三人がその場で「何だろうね、これ?」などと話していると、上級生数名が集まってきたそうだ。そして、部長の男子児童が蓋を開け、中の遺体を発見した。
 部長は副部長と一緒にすぐに職員室に行き、顧問である五味淵ごみぶちという男性教員が現場を確認。教頭、校長への報告の後、警察に通報した。ちなみに、遺体が発見された時点で、教職員は全員出勤していたが、誰も校庭の異状には気付かなかったらしい。
 現在、野球部員たちは一つの教室に集められ、五味淵と養護教諭が付き添っている。児童たちの精神的なケアという意味合いもあるが、大きな目的は監視である。
 というのも、どうも児童の何人かがスマートフォンで遺体の写真や動画を撮影したらしいのだ。
 当然、証拠品として押収したものの、まだ内緒で写真や動画を持っている児童がいる可能性があった。機捜から直接児童たちに、事件に関する情報をSNS等で外部に漏らさないように注意したというが、何処までそれが守られるのか疑問は残る。
 そもそも遺体発見現場の状況がひどい。
「ガキどもがだいぶ荒らしてるな」
 子供好きの赤羽は苦笑する程度だが、先程まで現場検証を行っていた鑑識課員たちはあからさまに憤慨していた。棺の周囲には野球用のスパイクシューズの足跡が無数に見える。きっと遺体発見という一大事に、児童たちの好奇心が爆発したのだろう。
「見つけた時はノリではしゃいでたんだろうが、後になってPTSDを発症しなきゃいいけどな」
 そういって児童たちを心配する赤羽の顔は、心なしかいつもの眠そうな表情ではなく、父親のそれだった。確か赤羽には高校生と中学生の娘がいると聞いたことがある。
 現場に残された被害者の持ち物は、棺に入れられた財布だけだった。鑑識課が現場周辺を捜索したが、現時点で衣服や靴、携帯電話のたぐいは発見されていない。
 財布の中にはクレジットカードや小銭は入っていたが、紙幣は一枚もなかった。だが、これは犯人が抜き取ったのか、元々紙幣はなかったのかの判断は難しいだろう。最近はキャッシュレス化が進んでいるから、人によっては現金を余り持ち歩かない者もいる。
「犯人はどうしてこんな場所に遺体を遺棄したんでしょうね」
 八木沢は咲き誇る桜を見ながらそういった。
「あん?」
「だって、小学校には防犯カメラが設置されてるのは明らかだし、周りにも商店も住宅もたくさんあるじゃないですか。遺体を夜中に運んだとしても、それぞれの家にだって防犯カメラが付いてる可能性は高いでしょう?」
「ホシは目立ちたいのかもしれんぞ。どう見てもこりゃ劇場型犯罪だろ?」
「う~ん、ですが、それならどうして春休みの小学校なんでしょうか。もう少しで新学期じゃないですか。それまで待ってから犯行に及んだ方がセンセーショナルですよね」
「そりゃあ、そうだが……」
「児童の登校しない小学校よりも、ショッピングモールの駐車場とかの方がインパクトは大きいですよ。そう考えると、何か中途半端な気がしてしまうんですよね」
 すると赤羽は「いや、そりゃ違うだろ」と否定した。
「こういう奴らは舞台に拘るもんだ。ホシにとっちゃ無機質な駐車場じゃなくて、満開の桜が理想的だったとは考えられないか?」
「ああ、なるほど」
「春休み期間中なのも、桜が散る前に遺体をこの場所に置きたかったんじゃねぇのか」
 確かに、新学期が始まる頃には、だいぶ桜は散ってしまうだろう。赤羽がいうように、この場所がビジュアル的に映えるのは、今なのだ。
 しかし、それでも八木沢には釈然としないことがあった。満開の桜が必要ならば、何も合戦場小学校を選ぶ必要はない。市内には何箇所か桜の名所があり、その中には犯行時に人目につき難い郊外の公園もある。八木沢がそういうと、赤羽は「まあ、それはそうなんだが……」といって頭を搔いた。
「それよりも『弐』って書いてあるってことは、どっかに『壱』があるってことだろ? こっちの方が問題じゃねぇか?」
 いわれてみれば、確かにそうだ。何処かに「壱」と書かれた棺があるとしたら、いまだに知られざる被害者がいることになる。
 犯人が合戦場小学校に遺体を遺棄した理由を考えるよりも、未発見の被害者を捜索する方が先決だろう。そして、もしも本当にまだ被害者がいるのだとしたら、この事件は八木沢が初めて経験する連続殺人事件ということになる。
「んじゃ、改めてガキどもの聴取にでも行くか」
「赤羽さん、くれぐれも子供たちや先生の前で『ガキ』なんて言葉、使わないでくださいね。今の子は速攻でネットにクレーム上げちゃうんですから」
「あったり前だろ。俺だってそこまで馬鹿じゃねぇよ」
 赤羽はそう笑ったが、上司の性格を知っている八木沢は、かなり心配だった。

   2

 その日の内に、椰子尾署に特別捜査本部が設置されることになった。
 会議室には年代物の長机が幾つも並べられ、若干さびの浮いたパイプ椅子がセットされた。県警本部の捜査一課と所轄の刑事課を合わせて、およそ五十人態勢の捜査本部である。
 八木沢が刑事としてこの署に配属されてから一年、これ程までに大掛かりな事件の捜査は初めてのことだった。緊張感と高揚感が渾然一体となり、いつもよりも思考が鈍化しそうになる。本部の捜査員の前で「ぼうっとするな」と注意されるのだけは避けたい。
 先輩刑事の口からは「十年振り」という言葉を聞くことが多かった。十年前の事件といえば、二〇〇七年に市内で発生した連続児童誘拐殺害事件のことだろう。
 あの事件では椰子尾市に住む小学生女児が三名犠牲になっている。被害者たちは性的暴行を受けた後に殺害され、遺体はバラバラに切断された上で、遺棄された。遺体からは脳や内臓のほとんどが摘出されるという凄惨な事件で、当時はセンセーショナルに報道された。それから十年が経過して、世間では事件の記憶は風化しつつあるが、犯人は未だに逮捕されていない。
 当時、高校生だった八木沢も事件のことはよく覚えている。あの頃は教室のあちこちでにわか探偵やプロファイラーがいて、もっともらしい推理を披露していた。八木沢はそうした輪には加わらなかったものの、事件についての報道は毎日チェックしていた。
 あの頃の自分は、今よりもずっと猟奇的な殺人事件に関心があったのだと思う。被害者のことを気の毒だと思うよりも、犯人の残虐性に興味の矛先があった。自分で殺人を犯したいとは思わなかったが、異常な殺人鬼に対して憧れというか、崇拝めいた気持ちがあったことは事実だ。そして、その犯罪への興味が原動力となって、警察官への道を目指すようになったのである。
 単なる捜査本部ではなく、特別捜査本部が設置されたということは、上層部は今回の合戦場小学校の事件も、過去の連続児童誘拐殺害事件並みに、大きな事件になると予想しているのだろう。
 会議室の最前に置かれた長机にはこちらを向いて、捜査本部長を務める県警の堀江ほりえ本部長、副部長の椰子尾署の亀井かめい署長と県警の細田ほそだ捜査一課長、実質的な捜査の指揮を執る鴻巣こうのす管理官、それに椰子尾署刑事課の佐治さじ課長などが並んでいる。
 署長や佐治だけでも緊張するのに、県警のお偉方が眼前にいるだけで、八木沢は落ち着かない心地になる。根が小心なのだ。
 最初の捜査会議では、捜査員全員に現在判明している情報を伝えることが主な目的だった。マイクを持って捜査員たちに事件のあらましを説明したのは、刑事課長の佐治である。
 ぎょろりとした目に大きな鼻、厚い唇は、どう見ても鬼のような容貌であった。角が生えていないのがうそのようだ。実際、陰では鬼瓦と呼ばれて、恐れられている。いつもは栃木弁丸出しの荒っぽい口調だが、さすがに県警本部長や署長を前にして鹿爪しかつめらしく限りなく標準語に近い言葉で話していた。そのギャップもまた、いつもと違っていて八木沢の緊張感に拍車をかける。
「被害者の瀧秋乃は日光にっこう市在住。同市にある日光にっこりランドの従業員です」
 日光にっこりランドは、県内だけではなく、全国的に有名な遊園地である。鬼怒川きぬがわ温泉に近い場所にあり、首都圏からのアクセスもよいため、季節を問わずにぎわいがある。
「現在のところ、被害者と接点のある合戦場小学校の児童や教職員は一人もおりません。ですが、皆さんもご存じのように日光にっこりランドは比較的有名な観光施設ですから、学校関係者に常連客がいる可能性はあります」
 実際に八木沢と赤羽が遺体を発見した児童たちに事情聴取した際、半数以上の児童が日光にっこりランドへ行ったことがあると証言した。小学校関係者の中に生前の瀧秋乃と面識がある者がいてもおかしくはない。
 次に佐治は司法解剖の結果を伝えた。
 瀧の死因は、やはり頸部圧迫による窒息死であった。死亡推定時刻は遺体発見の前日の十六時から十八時の間である。
「それから、遺体からは心臓が摘出され、代わりに木製の心臓の模型が入れられていたことが判明しました。この心臓の模型は、主に学校の教材用として流通している人体模型のものの可能性が高く、メーカーの特定を進めています。ただ、かなり古いものらしく、現在も製造されているものなのかは不明です」
 既に配布されている資料に記されていることであったにも拘かかわらず、この事実が告げられた時、捜査員たちからはわずかにどよめきが起こった。
 八木沢だって椰子尾市のような田舎で、このような猟奇的な殺人事件が再び発生するとは夢にも思わなかった。ずっと心の奥底にいた少年時代の異常性に憧れを抱く自分が、少しだけ顔を覗かせたのを感じる。
「遺体の解剖を担当した医師によれば、内臓の摘出及び模型への交換は、被害者の死後に行われたものだそうです。また、胸の傷は医療用の器具によって付けられた可能性が高いとのことで、実際に遺体の縫合に使用されている糸も医療用のものだと判明しております」
 遺体の損壊に医療用の器具が使用されたとすると、今後は医療関係者や医療機関への捜査も考慮する必要があるだろう。八木沢は何となく臓器移植という単語を思い浮かべた。だが、事態はもっと複雑な様相を呈していたのである。
「遺体が入っていた棺の蓋に書かれていた『地羊鬼ちようき 』という言葉ですが、これは中国の妖怪の名前であることが確認できました。ええと……出典は『七修類稿しちしゅうるいこう』というみんの随筆です。地羊鬼は雲南うんなん省の孟密もうみつ――現在はミャンマー領内の地方の妖怪だそうで、人間の内臓を木製、土製のものに変えてしまうと伝わっているそうです。犯人はこの妖怪を真似まねて、被害者の心臓を模型に交換したと考えられます。このことから、棺の蓋に書かれた『地羊鬼』というのも、自らの名前のつもりで署名したものである可能性が高いでしょう」
 隣の席の赤羽は、苦虫をみ潰したような表情で、「異常者め」とつぶやいた。
 確かに今回の犯人は、地羊鬼という妖怪を模倣しているのだろう。だが、その後の佐治の説明で、犯人が完全に地羊鬼を真似ているわけではないことがわかった。どういうことかというと、地羊鬼は臓器を木や土に変える場合、人間の腹を裂くわけではないようなのだ。
 地羊鬼は被害者の気付かぬ内に、いつの間にか内臓を木や土に変えてしまう。だから、狙われた人物は、急に腹が痛くなって悶死もんしすることになる。後になって遺体を調べると、内臓が木や土で出来たものに変えられていると伝えられているのである。熟練のマジシャンでも、地羊鬼と同様の芸当を行うのは不可能だろう。だからこそ犯人は遺体を切開するという現実的な方法で、心臓を交換したと考えられる。
 続いて、遺体発見時の状況についての基本的な説明が行われると、今度は鑑識課から現場に残された遺留品についての報告があった。
 遺体の入っていた棺は、流通しているものではなく、材料を購入して手作りした可能性が高いそうだ。蓋に書かれた文字は、大量に流通しているアクリル絵の具によるものである。従ってこの方面から犯人に迫ることは難しい。
 また、第一発見者である野球部の児童たちの足跡や通報者である教員の足跡に交じって、校庭からは別の足跡も発見されている。靴底の形状からホームセンターを中心に広く販売されているスニーカーのものであるとわかったのだが、こちらも流通量が多いため犯人の特定につながる可能性は低い。念のため、県内のホームセンターを中心に、ここ最近の販売履歴を当たることになるが、収穫は薄いのではないかと思われる。
 一方で、その足跡と一緒に駐車場から校庭の中央まで台車の車輪の跡が残されていた。このことから単独犯の可能性が高く、自動車を所持していると思われる。
 しかし、生憎合戦場小学校の防犯カメラは校舎に設置されているため、犯人の手掛かりとなる映像は記録されていなかった。また、現場周辺は福島方面へ向かう国道が走っているので、深夜でも交通量が多い。犯人が車を利用して遺体を運んだとしても、殊更ことさらに目立つことはなかったはずだ。現在のところ、不審者や不審車両の目撃情報は上がってきていない。
 鑑識課からの報告が終わると、再び佐治がマイクを手にした。
「尚、現場の棺には『弐』という漢数字が記されていることから、何処かに別の被害者が遺棄されている可能性があります。現在、県内の小中学校及び高等学校に情報提供を呼び掛けておりますが、疑わしい報告はありません。また県警本部を通じて各所轄にも今回発見された棺と同様のものが遺棄されていないか捜査協力を依頼しています」
 それから幾つか簡単な質問のやり取りがあり、最後に堀江本部長から「佐治君からもあった通り、本件には既に他の被害者が存在する可能性を否定できない。特別捜査本部を設置したのは、そうした事態を想定してのことだ。捜査員一同には十分気を引き締めて捜査に当たってほしい」という言葉があった。

 会議が終わってすぐのことだ。
「おい、八木沢ちょっと来い」
 八木沢は突然、佐治課長に呼ばれた。慌てて立ち上がったので、長机にしたたかに膝をぶつけてしまった。途端に見知らぬ本部の捜査員たちから冷たい視線を浴びる。赤羽のやれやれという苦笑交じりの表情だけが救いだった。
 鬼瓦のような佐治の傍らには、捜査本部の司令塔である鴻巣管理官と若い女性刑事が立っている。
八木沢がその前にかしこまって立つと、鴻巣は値踏みするような視線を送ってきた。佐治も迫力がある容貌だが、鴻巣も違った意味で怖い顔をしている。オールバックにでつけた髪に鋭い眼光と鷲鼻わしばな――昔見た吸血鬼のイラストそっくりだった。
 八木沢は思いきり萎縮した。
 何だ、この状況は?
 まだ本格的な捜査も始まっていないのに、自分は何かヘマをしただろうか?
 思い返すが、まだこれといって失敗はしていないはずだ。
「八木沢」と再度佐治に呼ばれ、返事の声が裏返ってしまった。佐治は一瞬残念なものを見るような表情になったが、すぐに咳払せきばらいをした。
「お前には本部の林原はやしばら警部補と組んで捜査に当たってもらう」
「よろしくね」
 そういって鴻巣の隣の女性が、微笑ほほえんだ。
 林原理奈りな警部補は、小柄な女性である。ウェーブした髪は赤みがあり、瞳の色素も薄い。もしかしたら外国の血が入っているのかもしれない。童顔なので年齢はよくわからないが、階級から考えて八木沢より年上なのだと思う。
 こうした大掛かりな捜査では所轄と県警の刑事は、二人一組で行動するのが一般的なので、八木沢が林原と組むのはわかる。ただ、どうしてわざわざ佐治に呼ばれたのか、そして、管理官の鴻巣がこの場にいるのかがわからない。八木沢の疑問を察したのか、鴻巣が説明する。
「林原君には他の捜査員とは違って、独自の視点から捜査に加わってもらう。君には彼女のサポートに徹してもらいたい」
「はあ」
「今後の詳しい捜査方針については、直接林原君から指示を受けてくれたまえ」
 鴻巣はそれだけいって、さっさときびすを返した。佐治は八木沢の耳元で「くれぐれも失礼がないようにな」とささやくと、鴻巣の後を追った。刑事課長の囁き声なんて初めて聞いたので、全身に鳥肌が立った。
 他の捜査員たちが四つの班に分かれて、今後の具体的な捜査について確認している中、林原は「場所を移して話そう」と提案してきた。
「は、はい」
 八木沢としては、階級が上である林原の指示に従うほかない。わけがわからないまま、林原と一緒に会議室を出て、廊下の隅にある休憩スペースに移動した。
 林原は自動販売機で微糖の缶コーヒーを買い、古いソファーに座った。八木沢も自分の分の飲み物を買おうか否か咄嗟とっさに考えた。八木沢はコーヒーが苦手で、大抵はコーラやサイダーのような炭酸飲料を好んで飲む。ただ、今の精神状態でそんなものを口にしたら、うっかりげっぷをしてしまうような不安があった。
 八木沢が逡巡しゅんじゅんしていると、林原は立ち上がって再び自動販売機の前に行き、迷わずコーラを買った。
「はい」
 差し出されたコーラの赤い缶を見て、八木沢は思わず「どうして?」と呟いた。まるで心の中を読まれたような、不思議な感覚だ。
 そもそも林原とは初対面のはずだ。それなのに、どうして彼女は八木沢が炭酸飲料を買おうか迷っているとわかったのだろうか? こういう時は大抵コーヒーや紅茶辺りのチョイスが無難だと思う。実際林原自身は微糖のコーヒーを選んでいる。八木沢の分もおごってくれるのならば、同じものを買うのが自然ではないのか。
「あれ? 要らない?」
「い、いいえ。いただきます。ありがとうございます」
 林原のフランクな態度に、八木沢はどう接したらよいのか判然としなかった。まだ佐治や鴻巣から受けたプレッシャーが残っているから、指先に緊張感が残っている。慌ててコーラを受け取ると、爪が痛くなるような冷たさで、少しだけ冷静になる。
「あの、どうして自分がコーラを買うか買わないかで迷っていたのがわかったんですか?」
 どうしてもそう尋ねずにはいられなかった。
 林原はソファーに座り直すと、「ああ、そんなこと」と苦笑する。
「あたしがコーヒーを買った後、八木沢君は自販機をじっと見つめてた。若干腰が浮いている感じだったから、これは何か飲み物を買おうとしているんだろうなって思った。で、ここは自分の勤務先なわけだから、自販機で買うものだって定番の飲み物があるはずでしょ? 普通だったら、さっさとそれを買うはず。でも、そうしないのは、何か理由があるんだろうなって思ったの。コーヒーとかお茶とかを買うのにそんなに迷うとは思えないから、八木沢君がいつも飲んでいるのは、初対面の人間の前で飲むには若干抵抗があるものなんだろうなって想像できる。更に八木沢君の視線を見てみると、温かい方じゃなくて冷たい方を見ている。これでコーンスープの可能性はなくなった。
 冷たいものの中であたしの前で飲むのに抵抗感を持つのは炭酸飲料じゃないかって思ったの。げっぷ出ちゃうかもしれないもんね。その自販機で売ってる炭酸飲料は三種類あるけど、無難なものとしてコーラを選んだってわけ」
「はあ」
 種明かしを聞いても、八木沢は啞然あぜんとするばかりだった。
 たったあれだけの短い時間で、林原は八木沢を観察し、その行動を推測して、コーラを買ったのだ。林原が鴻巣管理官から特別な捜査の任務を与えられている理由が、少しわかった気がした。少年時代に読んだシャーロック・ホームズものに似たような場面があったことを思い出す。あの時はどうせ小説の話だからと白けた気持ちで読んでいたが、自分が当事者になるとまるでマジックを見せられたような感覚だった。
 八木沢が興奮を抑えようとコーラを一口飲むと、林原が「今回はごめんね」と謝ってきた。
「え? 何がですか?」
 飲み物を奢ってもらった上に謝罪されるという状況は、全く意味がわからなかった。
「あたしなんかのおりを任せられて」
「はあ」
 一応返事をしてみたが、やはりよくわからない。
「多分ね、所轄の他の人たちと組ませるよりも、若い八木沢君と組ませた方がトラブルが少ないっていう、鴻巣管理官の配慮なんだと思う」
「すみません。状況がうまくみ込めないのですが……」
「あたしはね、今回みたいな事件が起こった時に、捜査本部に呼ばれることが多いんだ」
「今回のようなというと、猟奇殺人とかそういう?」
「違う違う。今回、犯人が地羊鬼って中国の妖怪の名前を現場に残したでしょ? あたしはね、そういう妖怪とか、幽霊とか、超常現象とか、オカルトっぽい事件の担当なの」
 最初は何かの冗談なのかと思ったが、林原の表情は存外に真剣だった。八木沢は僅かな沈黙の後、「それは林原警部補に霊感とかがあって?」と尋ねた。
「ないよ、そんなの。それじゃ、マンガじゃん」
「まあ、そうですよね」
 どうやら林原はマンガやアニメに登場するような霊能力刑事ではないらしい。
「たまたま幾つか関わった事件がそっち方面に関係しててね。もちろん、どの事件もちゃんと生きてる人間が起こしたものなんだけどさ、いつの間にか県警じゃオカルトの専門家みたいなポジションになっちゃったわけよ。ぶっちゃけ面倒臭いじゃん、オカルト絡みの事件とか、宗教絡みの事件とかって。何か、こう、ぶっ飛んだ感じの人たちが関わってたりするし。みんな出来るだけそういうのには関わり合いになりたくないわけ。それで、そっち関係の捜査にはあたしが使われる。改めていっとくけど、あたし自身には霊感もないし、専門的な知識もないからね」
「そうなんですか。え? じゃあ、いつもどうやって捜査を?」
「知り合いに専門家がいるの」
「あ、じゃあ、その人から捜査協力を受けているわけですね」
「そうそう。で、今から早速その専門家に会いに行こうってわけ」
 林原はそういってウィンクした。

   3

 八木沢の運転する車は、助手席に林原を乗せて、宇都宮市へ向かった。
 国道四号線はいつものことながら混雑している。普通乗用車よりも大型トラックやダンプカーなどが多く、すぐに渋滞してしまう。スムーズに進めば三十分程度で宇都宮市内には到着できるが、この分だともう少し遅くなる可能性がある。
 車内ではもっぱら林原が事件現場について質問してきた。八木沢は実際に合戦場小学校で目にしたことや現場での事情聴取について細かく説明した。
 事件についての会話が一段落すると、林原は唐突に「八木沢君って幽霊とか心霊現象とかって信じるタイプ?」と訊きいてきた。
「う~ん……」
 そう声を出しながら、八木沢は考える。
 子供の頃はお化けの類は信じていたし、本気で怖がっていた。今だって根は臆病だから、ホラー映画なんかは普通に怖がる。だが、霊の存在や超常現象を百パーセント信じているかといわれれば、そうでもない。
 確かに何処かには本当の幽霊というモノはいるのだろうが、そうあちこちに出るとは思えないし、そんなものが自分の身の回りにいるとも思えない。呪いとか祟りとか、そうしたものも怖いとは思うが、日常で接したことがないので、リアリティがないのである。だから、林原の質問には「半信半疑ってところですかね」と当たり障りのない返答をした。
「そういう林原さんはどうなんですか?」
「あたしはね、ぜーんぜん信じてない」
 まあ、それも当然かもしれない。信じていないからこそ、客観的な姿勢でオカルトが絡んだ事件に対応できるのだろう。
 専門家に会うというので、てっきり宇都宮市内の大学にでも行くのかと思っていたが、林原が指示した目的地は、宇都宮市の中心街だった。
 コインパーキングに駐車すると、八木沢と林原はオリオン通りというアーケード商店街に向かう。
春休み期間中ということもあって、学生らしき若者や子供たちの姿が目立つ。特にアニメショップやホビーショップの入った雑居ビル周辺は、かなりの賑わいだった。
 八木沢も学生の頃はよくオリオン通りを訪れたものだが、その時と今では幾つもの店が入れ替わってしまっていた。だから、昔よく行ったカレー屋がまだ残っているのを見つけると、無性に嬉しくなった。
 専門家とは全国チェーンのコーヒーショップで待ち合わせることになっているそうだ。林原が店の前で連絡すると、相手は既に店内にいるとのことだった。
 昼前の中途半端な時間のせいか、店内はいていた。八木沢は自分の分のオレンジジュースと林原のコーヒーを購入する。会計を終えると、「上ね」と林原が指を二階に向けた。
 二階は一階よりも更に空席が目立っていた。
 くだんの専門家は、奥まった場所にあるテーブルにいた。レザーのジャケットに黒いジーンズの男性である。淡いブルーの入ったレンズの眼鏡をかけている。第一印象はかなり軽薄そうな人物に見えた。
 男性はこちらに気付くと、微笑みながら軽く手を挙げる。林原も笑みを返して手を振った。
 もっと堅苦しい会合を予想していたので、八木沢は面食らってしまった。八木沢と林原は男性の向かいに並んで座る。
「えっとね、彼は在野の研究者で、船井ふない仲丸なかまる君」
 林原にそう紹介された男性は、「最近は研究者というより、オカルトライターみたいな立ち位置ですけどね」といって、名刺を差し出してきた。そこには、学者でも、ライターでもなく、妖怪研究家と記されていた。なかなか稀有けうな肩書である。
 八木沢も名刺を渡しながら、簡単な自己紹介をした。
 聞けば林原と船井は中学、高校の同級生なのだそうだ。この時、八木沢は二人が三十八歳だと知った。船井も実年齢より若い見た目だが、林原に至ってはまだ二十代でも通じるビジュアルなので、少なからず衝撃があった。
 林原と船井は、高校卒業後は疎遠になっていたそうだ。しかし、ある時林原が妖怪の伝承が絡んだ殺人事件の捜査に当たることになり、船井に専門家としての意見を求めることを思いついた。そして、林原から久し振りに連絡を取ったのがきっかけで、また交流が始まったのだという。
「で、丸ちゃん、早速で悪いんだけど……」
林原に「丸ちゃん」と呼ばれた船井は、手許てもとのスマートフォンを操作する。どうやらそこに調べてきた内容が書かれているらしい。
「質問の内容は地羊鬼についてだったね」
「うん。詳しいことは教えられないけど、取り敢えず地羊鬼がどんな妖怪なのか、何でもいいから教えてちょうだい」
「最初にいっておくと、地羊鬼は日本人が想像するいわゆる妖怪じゃないよ」
「へ? 地羊鬼って、人間の内臓を木とか土に変えちゃう妖怪じゃないの? えっと、何とかって中国の随筆に書いてあるんでしょ?」
「理奈ちゃんがいってるのは『七修類稿』かな」
「そう。それ」
「雲南省の孟密の事例だね。同じ記述は明の『雲南百夷篇うんなんひゃくいへん』って文献にもある」
 船井がそういうと、林原は字面を教えてもらってメモを取っていた。そして、「他にも地羊鬼に関して書かれてる本ってある?」と尋ねて、船井から更に幾つか文献をレクチャーされていた。
「で、地羊鬼が妖怪じゃないっていうのはどういう意味なの?」
「う~ん、広い意味では、地羊鬼も妖怪っていっていいと思うんだけど、どっちかっていうと呪術じゅじゅつっていった方が的確っていうか、実際、さっきの文献にも『鬼術きじゅつ』って書いてあって……あ、でも、うしとき参りは鳥山とりやま石燕せきえんも描いてるから妖怪に含まれるか。だとしたら、やっぱり妖怪っていってもいいのかな」
 船井は「そもそも妖怪って用語は、学術的には定義されていないんだよなぁ」とか、「日本と中国じゃ概念が違うしなぁ」とか、ぶつぶつと呟きながら何事か悩み始めてしまった。
 林原は楽しそうにそれを眺めているだけなので、八木沢は基本的な質問をすることにした。
「あの、素朴な疑問なんですが、地羊鬼って『鬼』って付くってことは、鬼の一種なんですか?」
 八木沢がそう尋ねると、船井は「難しい質問です」と即答した。
「難しいんですか?」
「そう。そもそも中国の鬼と日本の鬼はまるで違うし、日本の鬼だって歴史的に見ると大きな変遷が見られるわけで、やはり難しい。それを説明するだけで、かなり時間がかかってしまいます。ですので、あくまで簡単な説明になってしまうのですが、中国の鬼は大別すると二種類あると思ってください。一つは死者の霊――日本でいうところの幽霊ですね。もう一つは動物や植物、鉱物なんかが変化したもので、日本では化物ばけものとか通俗的な意味での妖怪の範疇はんちゅうに収まるものです。それで地羊鬼に関してですが、どちらかというと前者に近いんです」
「幽霊ってことですか?」
「いいえ。死者ではないので幽霊ではありません。生霊いきりょうといえばわかりやすいですかね。そもそも鬼の文字があるから何やら化物染みていますが、地羊といった場合は、人間や牛馬の内臓、或いは手足を木や石に変えてしまう呪術のことなんです。そして、かつてその呪術を行う人々が雲南省の孟密には多かったとされています」
 地羊鬼について、八木沢は勝手に羊の頭をした怪物をイメージしていたので、それを払拭ふっしょくするのが大変だった。
「ただ注意しなくてはならないのは、地羊鬼の伝承の背景には、漢かん民族が中央から遠く離れた土地を旅行する場合の恐怖心があるということです。昔の旅行ですから、当然病気や盗賊といったものもありますが、漢民族から見ると、現地の非漢民族も理解できない恐怖の対象だったと考えられます。その証拠に、地羊鬼のような伝承は他にもあって、例えば僕食プースーというのは、現地人の生霊が犬や猫などの動物に変身して、通行人を襲うというものです」
 すると、黙って聞いていた林原が質問した。
「あのさ、そもそもどうして地羊鬼は人間の内臓を木とか土とかに変えるわけ?」
うらみだよ。もっとも相手を殺す程の怨恨じゃない場合は、腕や足を木や土に変えてしまうだけだけどね。こうすることで旅行者が行動不能な状態にするわけだよ」
「なるほどね。地羊鬼が人間だってわかると、行動にも納得がいくね。あたしはわけのわからん怪物が通行人を無差別に襲うんだと思ってたよ」
「まあ、地羊鬼そのものが中国妖怪じゃマイナーだからね。日本で出版されてる中国妖怪の事典でも、『怪物』って書かれてるくらいだから、それなりに妖怪に詳しい人でも地羊鬼に関してはあんまり知らないんじゃないかな」
「はあ。あの、そういうのにもメジャーとかマイナーってあるんですね」
 八木沢が感想を漏らすと、船井は「それはそうですよ」といって笑った。
「日本だって、天狗てんぐ河童かっぱっていったらメジャーですけど、しずもちだとマイナーでしょう?」
「しずかもちって何ですか?」
「夜中に餅を搗つ くような音がするっていう益子ましこ町まちの妖怪です。柳田やなぎた國男くにおの『妖怪談義ようかいだんぎ』にも載っていますから、栃木県の妖怪としては有名ではありますけど」
 生まれた時から栃木県民の八木沢だが、静か餅という妖怪の名は初めて聞いた。つまり、そういうところがマイナーという意味なのだろう。
「ちなみに、中国妖怪でメジャーなものって何なんです?」
 その八木沢の質問には、林原が「龍とか、キョンシーとか、孫悟空そんごくうだよ」と即答した。確かにそれらの妖怪ならば、八木沢にもわかる。
「じゃあさ、地羊鬼がマイナーだとして、それを知ってる人間ってよっぽど中国の妖怪に詳しい人物って考えていいの?」
 林原が確認すると、船井は首を振った。
「それがそうでもないんだ。確かに地羊鬼はマイナーなんだけど、サブカル系の中国妖怪事典には載ってるんだよ。最近は妖怪を美少女に擬人化した事典が出版されているんだけど、その内の一冊に地羊鬼の記述があった。といっても、地羊鬼そのものはマイナーだから美少女にはなっていないけどね。だから、地羊鬼の知識を得るだけなら、誰でも可能だと思う」
「そっかぁ。じゃあ、その線から犯人を特定するのは難しいね」
「ちなみに、これって合戦場小の事件の捜査だよね?」
 船井の質問に、林原は「ノーコメント」と答えた。被害者の遺体が納められた棺に「地羊鬼」と書かれていることは、現時点では捜査上の秘密になっている。
「まあ、いいや。でも、あそこはかつての職場だからね、事件には関心があるんだ」
「丸ちゃん、元教師なの」
 と林原が補足する。
「合戦場小にいた頃は、たくさん怪談を蒐集しゅうしゅうできたんだよね。それでふと思ったんだけど、もしも地羊鬼が合戦場小の事件と関係しているなら、犯人はあそこの特殊性を知っていて屍体を遺棄した可能性が高いんじゃないかな」
「特殊性って何です?」
 八木沢が尋ねると、船井は不思議そうな顔をする。
「あれ? 八木沢さん、椰子尾警察署にいるなら聞いたことないですか? あの合戦場って地区は出るって有名なんですよ」
 出るとは、恐らくお化けが出るという意味だろう。確か、椰子尾署に配属になって間もなく、赤羽からそんなような噂を聞いた気がする。ただ、どうせ新人を怖がらせるための冗談だと思っていたので、記憶はおぼろである。
「あの場所は戦国時代に塩谷しおのや氏と那須なす氏の小競り合いが起こったそうです。まあ、いわゆる古戦場ですね。そのせいか昔から鎧武者や着物姿の幽霊が多数目撃されています。合戦場に住んでいる方たちは、余りにも頻繁に幽霊を見るので、慣れてしまって全く怖がらないんですよ」
 そういって船井は笑う。
 幽霊に慣れてしまうというのは、考えてみればすさまじい話であるが、よく考えればそれも道理である。毎日毎日、目の前に鎧武者が出ていたら、いちいち驚いてもいられないだろう。生活に支障が出ないなら、幽霊も昆虫も変わりない。否、むしろ昆虫――ゴキブリや藪蚊やぶかの方が、実害がある分、厄介な存在なのかもしれない。
 林原はコーヒーを一口飲んでから「あくまで仮の話として聞いて欲しいんだけど……」と切り出した。
「合戦場小学校の事件と地羊鬼が関係していたとして、そして、この事件がこれからも続くと仮定して、丸ちゃんは次に遺体が遺棄されるとしたら、場所はやっぱり心霊スポットだって思う?」
「もう学校関係は調べたんだよね?」
「うん。今のところ何も出てない」
「だったら、その可能性は高いんじゃないかな」
「どうしてそんな場所に遺棄するんだと思う?」
 林原は真剣な表情で尋ねる。
 船井は「愉快犯ではない」と断定した。
「犯人にはもっと呪術的というか、魔術的というか、そういう理由があるように感じるね」
「儀式殺人ってことですか?」
 そう八木沢が訊くと、船井は苦笑する。
「それは詳しい現場の状況がわからないと何ともいえませんよ。何か儀式めいた装置でも置いてあったんですか?」
 船井の言葉に八木沢は合戦場小学校の状況を思い返す。しかし、あの現場に儀式を感じさせるようなものはなかったように思う。
「もう少し現場の遺留品を細かく調べてみましょう」
 林原はそういった。

   4

 夕方の捜査会議では、八木沢は林原警部補と並んで、後ろの方の席に座った。
 最初の会議とは違って、県警の堀江本部長と細田捜査一課長の姿はない。代わりに鴻巣管理官が中心となって、捜査員たちが聞き込みで集めてきた情報の共有が図られた。
 まず被害者である瀧秋乃本人についての基本情報である。瀧は日光市の実家で、祖父と両親と共に暮らしていた。両親は共働きで、日中は祖父だけが家にいるような状況であった。瀧には三つ上の兄がいるが、現在は結婚して宇都宮市で暮らしている。近所の評判も悪くはなく、家族間でトラブルを抱えている様子もない。
 瀧は遊園地勤務のため、土日祝日が休みの両親とは生活のスケジュールが大きく異なる。
 日光にっこりランドは基本的に水曜日が定休日である。従って毎週水曜日は休みなのだが、それ以外はシフトの都合を見て、平日の何処かで休みを取っていたという。ただ、火曜日や木曜日を休んで、連休にすることはまれだったそうだ。
 休日の過ごし方については、祖父からの証言が取れている。瀧は朝から出掛けるか、前日から出掛けてしまい、自宅で過ごすことはほとんどなかったという。
「同居していますが、実際には家族との関係は希薄だったようです。トラブルがないのも、そもそも顔を合わせる機会がほぼなかったためと思われます」
 家族への聴取を担当した刑事はそう報告した。
次に職場での瀧秋乃の様子である。瀧は短大を卒業後に日光にっこりランドの運営会社である株式会社にっこりリゾートに入社している。にっこりリゾートは、日光市内で幾つかの観光施設や宿泊施設を運営している。瀧は最初から日光にっこりランドへの勤務を希望して、採用試験に臨んだそうだ。
「被害者は今年で入社六年目になりますが、日光にっこりランドは従業員の入れ替わりが激しいので、もうベテラン職員といってもよい立場だったそうです。まあ、あの辺の観光施設やホテルじゃよくあることですね」
 赤羽守がそう報告した。
 瀧の業務内容は、施設内のアトラクションの係員で、現在は3Dシアターの担当になっている。
直属の上司の話では、職場で目立ったトラブルはないという。また同僚の斎藤典正さいとうのりまさと交際しており、このことは近しい職員は誰もが知っているとのことだった。
「斎藤は被害者と同い年ですが、にっこりランドでは入社四年目で後輩に当たります。神奈川県内の大学を卒業後に、地元の日光市に戻って就職したようです」
 斎藤からの聴取でも、瀧が何らかのトラブルを抱えているようなことは見受けられなかったそうだ。また瀧と斎藤の関係については、周囲から見ても順調で、近く結婚の話も出るのではないかといわれていた。
 関係者たちの証言が事実ならば、現段階で家族や職場の人間の中で、瀧秋乃を殺害する明確な動機のある人物は特定できない状況といえる。
 次に、殺害されるまでの瀧の足取りについて報告がなされた。
遺体が発見される前日、被害者は体調不良を理由に職場を休んでいた。交際相手の斎藤は、このことを出勤してから知り、瀧本人に連絡を入れている。この時は瀧からすぐに返事があり、「熱があるので自宅で寝ている」という趣旨の簡単なメッセージが送られてきた。
 しかし、このメッセージの内容は噓のようだ。その日、瀧は家族には振替休日だと説明しているのである。祖父の話では、午後二時に自分の車で出掛け、そのまま帰宅していない。その時に瀧の使用した軽自動車は、椰子尾市内の峰々みねみね公園の駐車場で見つかっている。
「家族は夜になっても瀧秋乃が帰宅しないことを不審に思い、午後八時に本人のスマートフォンに電話をかけています。しかし、電源が入っていない状態で、繫がらなかったそうです。両親は相談の上、翌日になっても何の連絡もなければ、警察に捜索を依頼しようとしたそうですが、その前に遺体発見の一報を受けた形になります」
 峰々公園では、争ったような形跡や被害者の所持品、血痕などは発見されていない。また公園の付近にあるコンビニや石材店、釣具店の防犯カメラには被害者の姿は映っていない。
 公園から徒歩で出た場合、これらの防犯カメラに映らないことは不可能なので、被害者は自身のものとは別の車で移動したとも考えられる。ただ、それが瀧の自発的な行動なのか、何者かに指示された上での行動なのかは不明である。
 被害者の死亡推定時刻である十六時から十八時の関係者のアリバイについては、犯人を特定する情報には繫がらなかった。というのも、現段階では瀧秋乃の親しい人間たちには皆、明確なアリバイがあったからだ。
 瀧の両親は職場にいたことが確認されている。祖父は近所の知り合いの家を訪問していて、こちらも複数の人間によって証明されていた。瀧の兄夫婦もそれぞれが宇都宮市内の職場にいたことがわかっている。また日光にっこりランドの営業時間は、九時から十七時までであり、瀧秋乃と面識のある従業員は全員施設内にいたことがわかっている。
 ちなみに、今回の各所の聞き込みで、被害者の家族、職場の同僚、友人知人に行方不明者はいないことも判明した。つまり、仮に「壱」の棺が存在した場合、瀧秋乃の周辺の人物が被害に遭っている可能性は低いということである。
 現在も引き続き近隣の公立、私立学校において、本件と同様の棺が遺棄されていないか捜査しているが、発見には至っていない。
 報告を聞き終えた鴻巣管理官は、眉間に皺を寄せ、捜査員たちに向かってこういった。
「事件当日の被害者は職場や交際相手に噓を吐くなど、明らかに言動が不自然だ。状況から考えて、被害者は何者かに呼び出された可能性もある。しかも被害者はその人物との約束を周囲には内密にしたかったように思われる。現段階ではその何者かが事情を知っている可能性が高いだろう。ただ、家族や職場の人間にアリバイがある以上、被害者を呼び出した何者かは、日常生活で親しい間柄の人間ではないと考えられる。以上のことから、被害者の過去の人間関係も捜査してほしい。学生時代に何かトラブルはなかったのか、改めて周囲へ聞き込みをしてくれたまえ」
 最後に、鴻巣は林原に捜査の進捗を尋ねた。
 林原は船井仲丸から聞いた地羊鬼に関する情報を伝えた。地羊鬼が単なる怪物ではなく、明の時代に漢民族から見て辺境と考えられた土地の現地人だとされていたという点には、鴻巣管理官が「興味深いな」といった。
「容疑者がそうした時代背景や民族間の関係を知っていたとしたら、自らのルーツを表象するものとして地羊鬼を選んだ可能性もある」
「外国人の犯行ということですか?」
 佐治がそういうと、鴻巣は「あくまで可能性の話だよ」といった。
「現場周辺の聞き込みの際に、アジア系の外国人の目撃情報がないか改めて調べておいてくれ。或いはその地域にルーツのある日本人の犯行の可能性もある」
 鴻巣の言葉に担当の捜査員たちが威勢よく返事をした。
 次に林原は、地羊鬼は確かにマイナーな妖怪ではあるものの、日本国内の中国妖怪を扱った文献には取り上げられていることを報告した。
「以上のことから、地羊鬼は知名度の低い妖怪ではありますが、その情報にアクセスする方法は容易であり、特別な知識がなくとも知ることができるようです」
 最初から期待はしていなかったと思うが、捜査員たちからは落胆の声が漏れた。
「一方で、所轄の皆さんはご存じの通り、遺体が発見された小学校周辺の合戦場という地区は、市内ではよく知られた心霊スポットです。犯人が地羊鬼の知識を有していることを考えますと、合戦場小学校を遺棄現場に選んだのは、心霊スポットだからではないかと推察します」
「それは君の意見かね」
 鴻巣管理官の鋭い視線が向けられる。
「いいえ。専門家のアドバイスです」
「なるほど。船井氏の助言か」
「はい」
 どうやら鴻巣は林原が船井から捜査協力を得ていることを把握しているようだ。それに船井に対して一目置いているような印象を受けた。
「わかった。では、林原、八木沢の両名はその方面を当たってくれたまえ。もしかすると何か見つかるかもしれん」
 林原は返事をして、着席した。
 県警本部の捜査員たちはともかく、椰子尾署の刑事たちは冷笑交じりの表情でこちらを見ている。
心霊スポットというオカルティックな言葉が現実の殺人事件の捜査に役立つとは到底思えないのだろう。いい方は悪いが、恐らく椰子尾署の刑事たちは、林原を小馬鹿にしているのではないだろうか。
 だが、船井の助言が正しかったことはすぐに証明された。翌日未明に市内で最も有名な心霊スポットである廃病院から、「地羊鬼」「壱」と記された棺が発見されたのである。

(つづく)


続きは、新刊『地羊鬼の孤独』でお楽しみください。

■書籍情報

ようどく
著者:大島清昭
装画:ふすい
装丁:セキネシンイチ制作室
発売:光⽂社
発売⽇:2022年11⽉24⽇(⽊)
※流通状況により⼀部地域では発売⽇が前後します
定価:1,980円(税込み)
版型:四六判ソフトカバー

■著者プロフィール

大島清昭(おおしま・きよあき)
1982年、栃木県生まれ。
筑波大学大学院修士課程修了後、妖怪研究家として研究・執筆・講演を行う。2007年、『現代幽霊論―妖怪・幽霊・地縛霊』を上梓。2020年、「影踏亭の怪談」で第17回ミステリーズ!新人賞を受賞し、2021年、連作短編集『影踏亭の怪談』で小説家デビュー。他の著書に『Jホラーの幽霊研究』、〈怪談オウマガドキ学園〉シリーズ(共著)、『赤虫村の怪談』がある。


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