見出し画像

作品の内と外で|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【第7回】

▼前回はこちら


文=千街晶之

第四章 作品の内と外で

 ある作品を、完全に独立したものとして捉える場合と、その作品を取り巻くコンテクストも込みで解釈する場合とで、評価が大きく変わってくるケースというのは少なくない。その典型と言えそうなのが、二〇一九年六月に公開された映画『新聞記者』(藤井道人監督、詩森ろば・高石明彦・藤井道人脚本)である。

 この映画は東京新聞の記者・望月衣塑子の著書(二〇一七年)と同題だが、「原作」ではなく「原案」とクレジットされているのは、望月の『新聞記者』が完全なノンフィクションであるのに対し、映画は現実をモデルにしたフィクションだからだ。まず、ストーリーを簡単に紹介しておく。

 東都新聞社会部記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、ジャーナリストだった父親が誤報の責任を負わされて自殺したという過去を背負いつつ、権力者に対しても遠慮することなく真実を追求している。ある日、内閣府の肝入りで進められた大学の新設計画に関する極秘情報を匿名でリークするファクスが社会部に届き、吉岡は上司から調査を任される。一方、外務省から内閣情報調査室に出向中の若手官僚・杉原拓海(松坂桃李)は、時の政権に不都合な人物の印象を悪化させる情報をSNSで拡散したり、そのような人物のスキャンダルを政権寄りのマスメディアにリークするなどの仕事に従事させられていた。

 そんな折り、内閣府の官僚・神崎俊尚(高橋和也)が飛び降り自殺を遂げた。杉原は北京の日本大使館にいた頃の上司だった神崎が、最後に電話で「杉原、俺たちは一体、何を守ってきたんだろうな」と言い遺して死を選んだことに疑問を抱いていた。反体制の新聞記者と体制側の官僚という立場の違いを超えて調査を進めることになった吉岡と杉原は、内閣府が進める大学の真の設置目的がきな臭いものであることを知る。だが、情報提供者として実名を出してもいいと覚悟を決めた杉原と、真実を報道する記事を執筆した吉岡の前に、杉原の現在の上司である内閣参事官・多田智也(田中哲司)の圧力と策略が立ちはだかる……。

 この映画を観たひとのうち多少なりとも事情通であれば、吉岡エリカのモデルが望月衣塑子であることは即座に察する筈だ。ところが、この映画には吉岡エリカ=望月衣塑子という解釈を脱臼させる仕掛けも用意されている。というのも、劇中で吉岡が観ている政治番組には、望月衣塑子、元文部科学官僚の前川喜平、ジャーナリストのマーティン・ファクラー、朝日新聞記者の南彰の四人が本人役で出演しているからだ。ジャーナリストだった吉岡の父親が誤報が原因で自殺したという設定も、現実の望月とは全く無関係である。つまり、観客には劇中の吉岡を見て望月を連想しつつ、なおかつフィクションの登場人物として吉岡を捉えるという二重解釈が求められているわけである。

 他にも、本人役とは別に架空のキャラクターとして登場している人物がいる。劇中で内閣情報調査室のリークによって不倫スキャンダルを報じられる元文科省大学教育局長の白岩聡(金井良信)は、歌舞伎町の出会い系バーに出入りしていたことを読売新聞に報じられた前川喜平がモデルだろう。もう一人、吉岡の亡父を知るニューヨーク・タイムズ東京支局長のジム(イアン・ムーア)も、同紙東京支局長の経歴を持つマーティン・ファクラーがモデルである可能性が高い。また、首相と近しいジャーナリストからのレイプ被害を記者会見で告発する後藤さゆり(東加奈子)は明らかに、二〇一五年にTBSテレビの政治部記者でワシントン支局長だった山口敬之から準強姦被害を受けたことを告発したジャーナリストの伊藤詩織がモデルである(山口は当時の首相・安倍晋三に極めて近しい立場の人物であり、彼への逮捕状が執行寸前で停止された裏には、警視庁幹部による首相への忖度があったのではと取り沙汰されている)。敵役である内閣参事官の多田智也は、警察官僚出身で、第二次安倍政権下で内閣情報官・国家安全保障局長として辣腕を振るった北村滋がモデルだろうか(この役の不気味な存在感が印象的だったためか、演じた田中哲司はその後、警視庁公安部長や、政府にも影響力を持つ投資家といった権力者の役が増えた)。

 では、大学の新設計画をめぐって自ら命を絶った神崎俊尚と、その妻の伸子(西田尚美)は……といえば、所謂「森友学園問題」に関連して、上司から土地の売却に関する公文書の改竄を命じられた末に二〇一八年三月に自殺した財務省近畿財務局職員の赤木俊夫と、その妻の赤木雅子がモデルと見るべきだろう。ところが、実はこの二人がモデルかどうかについては微妙な問題が介在している。

『新聞記者』という映画は、第四十三回日本アカデミー賞において最優秀作品賞・最優秀主演男優賞・最優秀主演女優賞・優秀監督賞・優秀脚本賞・優秀編集賞を受賞するなど、映画界から高い評価を受けた。これを左翼的な偏向した価値観の表れとする意見も見られたが、日本アカデミー賞は翌年の第四十四回では、『新聞記者』とは価値観的に正反対とも言える作品で左派からの評判も悪かった『Fukushima 50』(若松節朗監督、二〇二〇年)にも優秀作品賞・最優秀監督賞など幾つもの賞を授けているのだから、思想的偏向という評価は的外れだろう。問題は『新聞記者』や『Fukushima 50』が、日本アカデミー賞がそこまで高く評価するほどその年の日本映画を代表する作品だったかという点であり、私の見るところ、両作ともそれに値する水準の作品かと言われれば疑問が残る。

 取り敢えず『新聞記者』に話を絞るなら、この映画を高く評価する立場からも疑問が見られたのが、脚本のうち、首相を後ろ楯として内閣府が設置を進める大学の設置目的に関する部分だ。現実の森友学園・加計学園問題が、首相夫妻やその支持者たちという狭い人間関係をめぐる極めて卑小な悪だくみが一人の官僚を自殺にまで追いつめた……という不条理さこそを本質としていたのに対し、映画では荒唐無稽とすら言える大計画のために大学設置が利用される。基本的には、フィクションは何をどう描いても構わないものだと思うし、現実の出来事をそのまま忠実に再現しなければならないわけでもない。とはいえ、実際に死人が出た事件をモデルにする場合、何らかの社会的配慮が求められることも多いだろう。『新聞記者』の場合、何故現実の出来事に即さず、ある種陰謀論的とも言える「巨悪」を描くことになったのか。

 実はその背景には、本作の評価そのものにまで関わってくる後ろ暗い事情があったと推察されるのだが、その言及に移る前に、『新聞記者』から派生した三つの映像作品に触れておくべきだろう。一つ目は、二〇一九年十一月に公開された『i 新聞記者ドキュメント』(森達也監督)である。こちらはフィクションではなく、望月衣塑子記者を追ったドキュメンタリー映画であり、『新聞記者』をプロデュースした河村光庸が企画・製作・エグゼクティブプロデューサーを務めた。

 この作品は、望月が記者として取材を重ねつつ安倍政権の暗部に迫る姿を中心に据えており、当時の内閣官房長官・菅義偉、森友学園理事長だった籠池泰典、その妻で副理事長だった籠池諄子、前川喜平、伊藤詩織など、本作の撮影開始前から撮影期間中に話題になった「渦中の人物」が次々と登場する。

 実は、私が『新聞記者』という映画に微妙な評価を下さざるを得ないのは、この『i 新聞記者ドキュメント』を観たからでもある。敵も味方もひたすら陰々滅々としている『新聞記者』のフィクションの世界に対し、このドキュメンタリーが捉えた現実世界の人々のなんと生彩のあることか。主人公である望月衣塑子記者は、とにかくパワフルでしたたか、そしてお茶目で魅力的で恰好良く撮られている。私が特に印象的と感じたのは、記者会見の席で菅官房長官を見据える鋭い眼差しから一転、ラストにおける左右両派の「安倍辞めろ!」「安倍晋三!」というシュプレヒコール合戦の中で幾分戸惑ったような望月の姿だ。たぶん記者としての熱さと同時に冷静な部分も持ち合わせている人物で、たとえ味方の側でも熱狂に巻き込まれるのは好きではないのかも知れない……というのが、私がこの映像から受けた印象である。

 もっとも、そう感じたのは監督の森によるある種の印象操作のせいかも知れない。というのも、このラストに続けて、森は一九四四年のパリ解放後、ドイツ兵と交際していたフランス人女性たちが丸刈りにされて晒し者になっている写真と、ドイツ軍に協力した人間が裁判なしに大勢処刑された史実を紹介し、左右両派のシュプレヒコール合戦の映像に重ねて「僕は、憲法九条は守るべきだと思う。原発再稼働にも反対だ。沖縄から基地をなくしたい。つまり、リベラル。でも、イデオロギーの違いとか、誰を支持するとかしないとか、どの集団に属するとか、そうした違いが本当に大切だとは思えない。主語を複数にした集団は熱狂しつつ一色に染まる。一色に染まった正義は、暴走して大きな過ちを犯す。それは歴史が証明している。一人称単数の主語を大切にする。持ち続ける。きっとそれだけで、世界は変わって見える筈だ」という自らのナレーションを流している。リベラルでありつつも森は左右両派の熱狂に等しく不安を感じているのであり、その点、望月のこともかなりフラットな視点で見ていると推察される。

『i 新聞記者ドキュメント』では望月以外の登場人物も実にキャラが立っており、特に、安倍首相からトカゲの尻尾扱いで切り捨てられたため望月の取材に協力する籠池夫妻に至っては、お茶目な魅力すら発散している(夫に突っ込みを入れつつ、取材陣にどら焼きを勧める妻の姿は笑いなしでは観られない)。ドキュメンタリーであるにもかかわらず、『i 新聞記者ドキュメント』には『新聞記者』よりもエンタメ感がある(選挙応援に現れた菅官房長官に望月が接近するくだりに至ってはコミカルなアニメが挿入されるが、ここはちょっと滑った感が否めない)。ヴェテラン映像作家としての森達也の手腕のなせるわざであろう。

 しかし、この作品や、あとで言及する『主戦場』といったドキュメンタリー映画の面白さに、『新聞記者』が負けてしまっている点には当惑させられた。創作上のキャラクターより現実の人間のほうが生彩があって面白い場合、フィクションの面目は立つものなのだろうか……第四十三回日本アカデミー賞の授賞式の中継を見ながら、そのような疑問が湧いたことを覚えている。

『新聞記者』から派生したフィクションの映像作品は二つある。まず、藤井道人をメイン監督として地上波で放映された連続ドラマ『アバランチ』。もう一つは、Netflixで配信された藤井道人監督の連続ドラマ『新聞記者/The Journalist』である。

『アバランチ』は、二〇二一年十月から十二月にかけてフジテレビ系で放映された。政治家による轢き逃げ事件を隠蔽しようとした上司を殴ってしまった刑事の西城英輔(福士蒼汰)は、警視庁捜査一課から「特別犯罪対策企画室」なる窓際部署に追いやられたが、配属早々、室長の山守美智代(木村佳乃)によってある秘密の場所に案内される。そこには、謎の男・羽生誠一(綾野剛)をはじめ、ハッキングの天才や格闘技の達人、爆発物処理のプロといった一癖ある男女が集っていた。「アバランチ(雪崩)」と称する彼らは、リーダーの山守の指揮下、悪人たちの所業をインターネット上の動画チャンネルにアップロードするというかたちで暴露してゆく。やがて西城もアバランチの一員となり、彼らと行動をともにすることに……。

 悪人たちの所業を衆目に晒すことで社会的地位を奪うアバランチのやり方は、ドラマ「ザ・ハングマン」シリーズ(一九八〇~一九八七年)を想起させるが、彼らの戦いの背後には、無能な首相を操りながら絶大な権力を振るう内閣官房副長官・大山健吾(渡部篤郎)の正体を暴くという大きな目的があった。かつて警視庁公安部外事三課に所属していた羽生は、大山が世論誘導のために起こした自作自演のテロで同僚を失っていたのだ(その同僚は山守の婚約者でもあった)。

 アバランチと大山の対決は、前者から犠牲を出しながらも、アバランチの正義に気づいたマスメディア関係者の協力、大山側についていた人物の改心、真実を知った首相の覚醒などによって最後は悪が滅びるという結末を迎える。現実を踏まえたため苦い結末に至らざるを得なかった『新聞記者』に対し、現実の出来事を想起させる要素を鏤めつつも、基本的にスリルと痛快さに徹した勧善懲悪謀略アクションドラマに仕上げたあたりは、藤井監督が『新聞記者』のテーマを引き継ぎつつ、現実に縛られないフィクションの面白さを強調したかったのだろう。『新聞記者/The Journalist』では板挟みの立場で苦悩する官僚を演じた綾野剛に、こちらではアウトロー的役柄をのびのびと演じさせたあたりにも、現実とフィクションを対蹠的に演出しようという藤井の意図が垣間見える。

 さて、問題なのがそのドラマ『新聞記者/The Journalist』(山田能龍・小寺和久・藤井道人脚本)である。二〇二二年一月から配信された全六話のこのドラマは、名古屋市の栄新学園への国有地売却に首相夫人が関与していたのではという疑惑をきっかけに、官邸が財務省に資料の改竄を命じるところから開幕する。東都新聞社会部記者・松田杏奈(米倉涼子)は実兄にまつわる過去の因縁もあって、この問題の裏を暴こうとする。一方、首相夫人付の官僚だった村上真一(綾野剛)は内閣情報調査室への出向を命じられ、政権に有利になるような情報操作に従事させられる。女性新聞記者と若手官僚の苦悩を軸とした点は『新聞記者』と同様ながら、遥かに尺が長いこともあり、映画版に不在だった「市井の人」の役割を担う就活中の大学生・木下亮(横浜流星)、日和見を決め込む上層部に反旗を翻して単身真実に迫ろうとする名古屋地検特捜部の矢川検事(大倉孝二)ら、数多くの登場人物が織り成す群像劇の印象が強い。『新聞記者』の多田智也がこちらにも登場しており(演じているのも同じ田中哲司だ)、両作品が地続きの世界の出来事であることを示している。

『新聞記者/The Journalist』は映画版よりも遥かに現実に即した作りになっており、例えば冒頭、松田が官房長官に質問しようとすると傍らの職員から「簡潔にお願いします」などと遮られる描写は、『i 新聞記者ドキュメント』で紹介されていた望月衣塑子記者に対する官邸の対応そのままだし、首相が栄新学園に自分や妻が関わっていたことが証明されたら首相や議員を辞めると断言するくだりも現実通り(ドラマでは、この発言は官僚が用意した答弁から逸脱して首相が勝手に言い切ったものであり、その辻褄合わせのために官僚たちが文書改竄に走るという流れとなる)。首相補佐官から改竄を直接命じられる財務省理財局長・毛利義一(利重剛)は現実の森友学園問題における佐川宣寿元理財局長の役回りをなぞっているし、「AI詐欺」問題で容疑をかけられるも官邸の判断で逮捕を直前に免れる内閣官房参与・豊田進次郎(ユースケ・サンタマリア)は、山口敬之と竹中平蔵を合体させたキャラクターであると推察される。そして、ドラマ版の場合、自殺に追い込まれる官僚は鈴木和也(吉岡秀隆)、その妻は鈴木真弓(寺島しのぶ)という名前で登場している。誰が観ても、この二人が赤木俊夫・雅子夫妻をモデルとしていることは明らかである。

 ところが、実際にはこのドラマは、制作者サイドおよび望月記者と、赤木雅子との意見の相違をすり合わせることなく作られていたのだ。

 一連の経緯については、森友学園に関する公文書改竄事件の取材を続けてきたフリー記者・相澤冬樹の取材をもとにした《週刊文春》二〇二二年二月三日号の記事「森友遺族が悲嘆するドラマ『新聞記者』の悪質改ざん」が最もまとまっていて情報量も多いと思われるので、これを要約する。二〇二〇年、赤木俊夫の遺書をもとにした相澤の告発記事が《週刊文春》に掲載された数日後、赤木雅子のもとに望月記者の手紙が届いたが、それには映画『新聞記者』のプロデューサーである河村光庸の手紙が同封されていた。三人はリモートで対面することになったが、その際、赤木雅子は河村の態度に不信感を抱く。望月は「この問題に世間の関心を集めるための追い風になります」などと盛んに後押ししたけれども、「これまで財務省に散々真実を歪められ、捻じ曲げられてきたのに、同じ轍は踏めない」と考えてドラマ版への協力は断った。その後も望月との交流は続けたものの、よりによって、森友学園が運営する塚本幼稚園で子供たちに「安倍首相、ガンバレ!」と連呼させていた映像を想起させるような、子供たちに「雅子さん、ガンバレ!」と連呼させる動画が望月から送られてきたため、一気に赤木雅子の心は冷えたという(望月に悪気はなかったのだろうが、無神経なのは否めない)。そのあいだ、協力を断ったドラマの制作は着々と進められており、しかも当初は官僚夫妻に子供がいる設定だったなど(赤木夫妻に子供はいない)、現実と相違する部分が幾つも見られた。赤木雅子・望月・河村に、赤木俊夫から遺書を託された相澤を加えた四人で話し合いが持たれるも折り合いがつかず、やがて河村から赤木雅子に、あくまでもフィクションなので要望を殆ど受け入れずドラマの制作を開始するというメールが届く。

 こうしたトラブルが《週刊文春》二〇二〇年九月二十四日号で報じられると、望月は赤木雅子からの連絡に一切応答しないという態度に出る。しかもこの記事が出た後、森友問題に関する署名記事を一本も執筆していない。これらの事態を受けて、『新聞記者/The Journalist』で赤木雅子をモデルにした鈴木真弓役を演じる予定だった小泉今日子は、「私を降板させるか、一旦撮影に入るのを中断してきちんと赤木さんの了承を得るのか、二つに一つです。どうしますか?」と河村に迫る。だが、ドラマの筋書きは最初から出来上がっており、河村は小泉の降板を選択するしかなかった。

 河村は『新聞記者/The Journalist』が配信される直前に赤木雅子に謝罪しているが、望月は謝罪どころか、一切連絡を取ろうともしていない。赤木俊夫の遺書や家族写真といった、取材で得た資料や情報を報道以外の目的に使用した可能性については、自身のTwitterアカウントで否定したのみで、《週刊文春》二〇二二年五月五日・十二日合併号の記事「望月衣塑子記者が赤木雅子さんに発した叫び声」によると、東京新聞の社屋前で偶然望月と鉢合わせした赤木雅子が声をかけたところ、望月は悲鳴を発して社内へ駆け込んだという。

 望月衣塑子が、内閣官房長官にも一切遠慮しないほど肝の据わった人物であり、政権への忖度が蔓延るマスメディアの中において記者としての良心を持ち合わせていたことは間違いない。しかし、そのような姿勢を称賛されているうちに、彼女の中に慢心が生まれていたのではないか。真実を報道するべき記者が、真実とフィクションの境界線を曖昧にする映画やドラマという領域に関わってしまったこと、それ自体が彼女の過ちだったのかも知れない。問題に注目を集めるために映画やドラマを利用するのであれば、望月はその問題の犠牲者である赤木雅子の心を傷つけるような行為は一切するべきではなかったし、してしまったと気づいたのであれば謝罪するべきだった。相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由』(二〇一八年。文庫化の際に『メディアの闇 「安倍官邸vs.NHK」森友取材全真相』と改題)や赤木雅子・相澤冬樹『私は真実が知りたい 夫が遺書で告発「森友」改ざんはなぜ?』(二〇二〇年)によると、赤木雅子は財務省で夫の同期だった人物や、訴訟に向けて最初に代理人を依頼する予定だった弁護士など、信頼できると考えていた多くの人物からの手ひどい裏切りを経験している。そこに、正義の新聞記者として名高い望月衣塑子までが加わったのだ。まず政権や財務省といった「体制側」から殴られたあと、味方面をして近づいてきた「反体制側」からも殴られたのと同然である。しかも、権力者への鋭い追及を武器にしてきた記者が、いざ自分が追及される側になると情けなく逃げまどうなどというのは、醜態以外の何物でもない(《週刊文春WOMAN》二〇二二年秋号掲載の対談「赤木雅子さんが小泉今日子さんに語った『いま、私が思うこと』。」でもドラマ化にまつわるトラブルは言及されており、望月から何らかの謝罪があればそこで話題になった筈なので、この時点でも事態は何ら変化していないことが推察される。望月の過失を単なる行き違いとして弁護しようとする姿勢も一部の左派に見られたが、ただの行き違いならばこんなにこじれる筈はない)。

 ここは想像になるが、『新聞記者』では赤木夫妻を想起させる人物を登場させたものの、別に許可を取ったわけではないので、敢えて「これはあくまでもフィクションですよ」ということを強調するために、作中の大学設置の目的を改変するしかなかった。しかし、その改変が荒唐無稽だという評判が相次いだため、制作者たちはより現実寄りのドラマ『新聞記者/The Journalist』を作りたくなった。そうなると今度こそ赤木雅子の許可を得ないわけにいかず、しかし物語の構想が出来上がってから彼女に接触したため、そこから生じたこじれを無視して突っ走らざるを得なくなったのではないか。

 私個人としては、現実をモデルにしたフィクションを制作する際、必ずしも当事者の意向は全面的に尊重されなくてもいいとは思っている(被災者全員の意向を確認しなければ東日本大震災を扱ったフィクションを作れないということにもなりかねないからだ)。また、遺族の思いが絶対というわけでもない。例えば、三島由紀夫の短篇小説を彼自身の主演・監督により映画化した『憂国』(一九六六年)は、彼の死後、三島夫人平岡瑤子の意向で上映は禁止され、フィルムまで焼却された。共同製作者の藤井浩明がネガフィルムだけは残しておいてほしいと彼女に懇願しなければ、恐らくこの映画は永遠に闇に埋もれていたかも知れない。その意味で、作品の価値は遺族の意向をも超えると考える。しかし、最初から遺族に接触しないのであればまだしも、一度は遺族に協力を持ちかけておきながら、その意向を踏みにじったとすれば話は別である。『新聞記者/The Journalist』の場合、プロデューサーである河村光庸は、協力を要請したからには遺族の納得を得られるよう丁寧に調整を重ねるべきであったし、望月衣塑子は功名心に起因する軽率な言動の責任を取るべきだった。

 これらの一連のトラブルが、『新聞記者/The Journalist』の評判を貶めようとした政権や右派言論人などではなく、NHK記者時代に森友学園問題を報じようとして上層部に疎まれ、フリー記者になって事件を追い続けた相澤冬樹によって報じられたことも重要である。志を同じくする筈の相澤にとってすら、望月の行為は不誠実なものと映ったのだ。

 こうした裏事情を知ってみると、映画『新聞記者』とドラマ『新聞記者/The Journalist』に対する印象も大きく変わってくる。「国家のため」と「国家の罪を問うため」という二つの大義名分が、左右両方からある遺族を深く傷つけた。その罪深さの前では、『新聞記者』と『新聞記者/The Journalist』は犠牲者を踏み台にした望月のプロパガンダ映像に見えてしまう。

 本稿執筆中の二〇二二年十一月二十五日、赤木雅子が佐川宣寿に対し、夫の死に責任があるとして一六五〇万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が大阪地裁で下され、赤木雅子側の請求が棄却された。《AERA dot.》同日付のウェブ記事(記者:野村昌二)によると、赤木雅子は「結局、夫は守られなくって、佐川さんは守られたという思いでいっぱいです」と悲憤を滲ませ、「ここまでたくさんの人に応援してもらってきて、やはり真実を知りたい。私の闘いは終わりません」と控訴の意思を示したという。体制からも反体制からも利用しつくされた赤木夫妻。その闘いが勝利を迎えることを祈らずにはいられない。

 ここで、『i 新聞記者ドキュメント』同様、ドキュメンタリーでありつつ、なまなかのフィクションよりよほど面白い映画として『主戦場』(ミキ・デザキ監督・脚本、二〇一九年)を挙げておこう。曲がりなりにもサスペンス映画と言える『新聞記者』と違ってドキュメンタリーである『主戦場』を何故ここで取り上げるのかというと、慰安婦問題をめぐる左右両派の言論バトルのスリリングさと、ある種のサプライズ・エンディングは、制作者が意図したか否かにかかわらずミステリ的であるからだ。

『主戦場』は従軍慰安婦問題に対して意見を異にする左右両派の人物に対するインタビューを軸としつつ、関連した映像資料を挟み込んでいる。慰安婦が大日本帝国の犠牲者であることを否定する側の代表として出演した人物のうち、ケント・ギルバート、トニー・マラーノ、山本優美子、藤岡信勝、藤木俊一の五人は、出演を依頼された時には一般映画として商業公開する目的を伏せられていたにもかかわらず公開されたとして民事訴訟を起こしたが、二〇二二年、一審の東京地裁で請求は棄却された(同年、デジタル配信が開始され、この映画をウェブ上で観られるようになっている)。恐らく監督の意図を理解していなかったとはいえ、映像収録前提で自分たちの主張を言いたい放題喋り散らしておきながら、それを公開されたら訴訟を起こすというやり口は滅茶苦茶であり、地裁が請求を棄却したのは当然である。

 基本的に『主戦場』は、右派言論人の放言を紹介し、それに左派がファクトチェックを入れるという構成になっている。その意味で右派が不利なのは事実だし、騙し討ちにされたという言い分もわからなくはないが(ジャーナリストの江川紹子ら、保守派ではない言論人からもこの映画のやり方には批判が出ている)、そもそもドキュメンタリー映画とは真実をそのまま伝えるものではなく編集して監督の意図に沿わせるものだし、その意図を見抜けず、ついつい油断していつもの調子で軽く喋りまくった右派は脇が甘いとしか言いようがない(『新聞記者/The Journalist』に協力を拒んだにもかかわらず自身をモデルにしたキャラクターを登場させられた赤木雅子の件とは全く事情が異なる)。彼らの発言の軽さは、そのまま慰安婦問題に対する彼らのお気軽な姿勢の反映である。特に「テキサス親父」として知られるトニー・マラーノやそのマネージャーの藤木俊一、そして自民党国会議員の杉田水脈の発言はここに書き起こすことを憚るほど醜悪であり、この映画のせいで右派が慰安婦問題において不利に陥ったとすれば彼らの自業自得に他ならず、まさにこれこそが映像の持つ力である。そしてこの映画は慰安婦問題のみにとどまらず、岸信介から孫の安倍晋三に継承された、戦前の日本を全面肯定しようとする反動主義の形成と流れがその背後にあることに鋭く迫る。

 先ほど「ある種のサプライズ・エンディング」と記したのは、最後にラスボス然と登場する「日本会議」代表委員・加瀬英明のことである。終盤、歴史修正主義者や関連組織の人脈をつなぐ要として浮上するのが彼の名であり、どれほど凄みのあるフィクサーなのかと観客の期待をそそるのだが、実際に取材に答える彼は、何の屈託もないニコニコ顔で「日本が戦争に勝った」(私の書き誤りではなく、実際にそう言っている)からその恨みでアメリカ人は慰安婦問題に関心を持つのだと言い放ち、吉見義明のような左派の慰安婦問題専門家ばかりか自身の友人だという秦郁彦のような右派の歴史研究にすら目を通していないと述べるなど、何もかも台無しにするほどいい加減極まりない人物なのである。出演した右派言論人は映画の上映に抗議する前に、味方の背中を撃っているとしか見えない加瀬に抗議したほうがいいのでは――とすら思ったが、加瀬の出番を温存しておいて最後の最後にその実像を暴いてみせた監督の意図はあざといほどに鮮やかだ。政治問題についての対立を、映画の公式ホームページのトップにもある「ようこそ、『慰安婦問題』論争の渦中へ」という惹句が示すように、ゲーム『逆転裁判』さながらのエンタメとして演出してみせたミキ・デザキのアジテーターとしての天才ぶりを堪能できる映画と言える。

 ただし、単に右派の愚かさを暴き立てた映画として溜飲を下げるだけで済ませるべきでもない。というのも、作中で語られなかった事実を知ることで、また別の事情が浮かんでくるからだ。

 二〇二〇年四月、韓国の慰安婦支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連、旧挺対協)の前代表・尹美香が国会議員に当選した。ところが同年六月、元慰安婦の李容洙は、正義連の抑圧的構造に抗議して水曜集会(慰安婦問題の解決を求めて毎週水曜に開かれる定期デモ)への参加を拒否、尹美香が不透明なかたちで寄付金を使用していると告発した。これを機に、尹美香には幾つもの疑惑が浮上する。これが原因で、彼女は「共に民主党」から除名され無所属議員となった。尹美香は、他ならぬ『主戦場』に元慰安婦支援者の代表として登場している。そのような人物にかけられた疑惑は、『主戦場』という作品の評価に無関係である筈はない。もし公開が一年遅れていたら『主戦場』も無傷では済まなかっただろう。

 また、慰安婦問題をめぐっては、『主戦場』にも登場する慰安婦の象徴としての少女像そのものの造型に疑問を呈する見方も存在する。これについては前提として、『主戦場』前半に登場する二人の韓国人女性、すなわち尹美香と、日本文学者・朴裕河の対立を押さえておく必要がある。作中、後者は慰安婦問題の背景に当時の朝鮮社会を支配していた家父長制・男性優位の傾向があったと指摘するが、前者はそのような問題を超えて日本こそが絶対悪だと主張し、韓国・日本双方で波紋を呼んだ朴の著書『帝国の慰安婦』(二〇一四年)を「読む価値すらない」と切り捨てる。ただし、『主戦場』では両者の対立は軽く紹介する程度で踏み込もうとはしていない。

 韓国の文化や政治に通暁している比較文学者の四方田犬彦は、『世界の凋落を見つめて クロニクル2011-2020』(二〇二一年)所収のエッセイ「いつも問題は少女」で次のように記している。

 いまから3年前【引用者註:この文章の初出は《週刊金曜日》二〇一五年一月九日号】、ソウルの日本大使館前に、チマ・チョゴリを着た可憐な少女の彫像が建てられた。彼女は裸足で、力強く拳を握り、鋭い目つきで大使館を見つめている。無理やりに連行されたことに怒り、抵抗を示している「従軍慰安婦」の像である。
 だがこの像は、どこまで慰安婦の実態を体現しているのだろうか。そう問うのは、『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を書いた韓国人研究家、朴裕河である。今日発見されている資料では、慰安婦の平均年齢は25歳であった。少女像は現実の慰安婦とは無関係に、慰安婦をあるべき「民族の娘」、純潔な処女として理想化するための虚構にほかならない。
 かつて朝鮮が日本の統治下だったとき、半島全域にわたって独立運動が起きたことがあった。京城(日本統治時代の名称。現在のソウル)で率先して旗を振り、官憲に捕らえられ、拷問死した17歳の少女がいた。「韓国のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるこの少女、柳寛順の名は、今なお抗日運動の神話的記号である。従軍慰安婦の銅像は、実は彼女にそっくりなのだ。韓国ナショナリズムが、慰安婦を民族独立の闘士に仕立てあげてしまった。

  四方田はこれに続けて「とはいえ日本人に、韓国ナショナリズムの虚構を笑う資格があるとは思えない。日本も同じく、ある少女の映像を前面に押し出し、北朝鮮を難詰糾弾しているからだ」と、拉致被害者の中でも特定の女性にだけ焦点をあてる手法に、慰安婦をチマ・チョゴリを着た少女像として造型する虚構と通底するものがあると指摘している。実際、四方田が『われらが〈無意識〉なる韓国』(二〇二〇年)所収の「朴裕河を弁護する」で指摘しているように、「朝鮮人慰安婦たちはチマ・チョゴリといった民族服を着用することなど、許可されていなかった。彼女たちは少しでも日本人に似るように、名前も日本風に改め、着物を着用することを命じられていた」。その意味では少女像は韓国のナショナリズムによる歴史の美化であり、尹美香にまつわる不正疑惑は、まさに『主戦場』で暴き立てられた日本のナショナリストたちの実態と鏡面関係にあるとも考え得るのだ。もっとも、『主戦場』の中では現在の姿を表した老齢の元慰安婦像も登場する。

 こうしたコンテクストを参照することで、『新聞記者』やそこから派生した複数の映像作品同様、『主戦場』についても全面肯定でも全面否定でもない、より複雑なニュアンスを帯びた評価の可能性が立ち現れるだろう。文章よりも遥かに強力なプロパガンダの可能性を持つ映像だからこそ、評価にはそのような姿勢が求められる。

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》



▼ジャーロ公式noteでは、皆さんの「ミステリーの楽しみ」がさらに深まる記事を配信しています。お気軽にフォローしてみてください。


この記事が参加している募集

いただいたサポートは、新しい記事作りのために使用させていただきます!