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犯罪者を理解するな。そこにいることを忘れるな|杉江松恋・日本の犯罪小説 Persona Non Grata【第7回】

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文=杉江松恋

  佐木隆三『復讐するは我にあり』の題名について長い間思い違いをしていた。

 我にあり、の主語を犯罪者自身だと考えていたためである。そうだとすれば、犯罪者による復讐宣言といった意味になる。西口彰という男が一九六三年十月から翌年一月にかけて合計五人を殺害した事件に取材した小説で、作中では榎津巌の名に改められている。我と名乗っているのが榎津だとすると、内容と齟齬をきたす。『復讐するは我にあり』において犯人の内面描写は完全に排されており、彼が仇と考える対象は存在しないのである。

 第七十四回直木賞の選考会でもこの点で評価が分かれた。松本清張は技法が必ずしも成功しているわけではないとし、「捜査記録とたんねんな調査による密度はたいへんに濃いが、それらの堆積による重量感にもかかわらず、犯人の人間がうすい」と指摘した。柴田錬三郎に至っては「読後の印象に犯人像が何ものこされない」と完全に否定している。それ以外の選考委員は逆に高く評価した。水上勉は「主題に迫る簡潔な文体が、ひとりよがりの心理描写を排除した点に」手法の新しさがあるとし、司馬遼太郎は作品自体には高い点をつけなかったものの、「人間の形をした『空白』をのぞきこんだとき、ごく一般的な作法によるなまなかな饒舌よりも人間のぶきみさについて、はるかに内容の深い何事かを感じさせる」と認める発言をしている。空白を覗く、というのが本作の肝だろう。

 私の思い違いは、初読時にエピグラムを見落としていたことに起因したものだ。本の巻頭には『新約聖書』の『ロマ書』十二章十九節から次のように引用されている。

「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」

 いかなる価値判断も排し、事実をもって語らせるという意図がこの題名には込められていた。聖書を引用したのは、西口彰=榎津巌の生家が先祖代々のカソリック信者だったという背景があるからだ。榎津も神父になるためミッションスクールに通っていたが、一九四一年六月に窃盗罪により別府署に検挙され、その後に中退した。それが転機となり、翌年九月に詐欺容疑で懲役一年以上三年以下の有罪判決を受けて服役、戦後になってからも三度の逮捕・有罪歴がある。佐木はこの事実を第三者の証人に淡々と語らせている。そうすることで榎津の棄教者としての側面には踏み込まないようにしているのだ。

『復讐するは我にあり』文春文庫

『復讐するは我にあり』は書き下ろしの単行本として一九七五年十一月三十日に講談社から刊行された。二年間かけて原稿用紙にして約千枚を書き、それを八百枚程度に縮めた。他の仕事を断っての執筆だったため、講談社への前借りは五十万円に達した。最後にどうしても西口彰の父親に取材する必要ができたが、もう資金が尽きた。そこで父親に話を聞かなければ画竜点睛を欠くのである。腹を決めて編集者に会うと、思いがけず三十万円を借りることができた。後で判ったが、講談社ではなく担当編集者と上司が自腹を切ってくれたのだ。それだけ佐木に気魄があったのだろう。対面を拒んでいた父親も取材に応じてくれ、佐木は無事に残りの原稿を書き上げることができた。

「第一の死体発見者は、筑橋市のはずれの穴生町の、六十二歳の農婦であった」という書き出しから物語は始まる。初版では関係者に配慮する意図で一部地名が置き換えられていたが、二〇〇七年に弦書房から改訂新版が刊行された際にすべて実在のものに直された。筑橋市は行橋市、穴生町は京都郡苅田町である。自分の畑に泥酔者が入り込んで寝ていると思った農婦が騒ぎ立てたことから第一の犠牲者である柴田種次郎の死体が発見される。続いて馬場大八の死体が見つかり、二人が運んでいた百二十万円の現金が奪われていることが判る。そして容疑者として榎津巌の名前が浮上してくるのである。

 榎津は姿をくらましており、元の同僚らによって人となりが語られる。「ものすごいインテリ」「流れ者」「港々で女をつくるタイプ」などと、散漫な言葉によって次第に輪郭線が形作られていくのだ。その中に浮かぶ顔はまだ茫洋としているが、榎津に強姦されたと訴える畑千代子の証言で一気に鮮明になる。たとえば以下のようなくだりで。

――強姦されたあと、じつは板前が主人だから、知れるとただでは済まないだろうと告げたら、わかった、わかったと詫びた。そうして榎津は、お茶を沸かしてタクアンを切り、自分でつくったニギリメシをすすめる。食べたくなかったが、断るのも怖いので一つだけ食べたら、また押し倒して強要した。(後略)

 タクアンとニギリメシのくだりに圧倒的な現実感がある。接触があった者たちの証言がこのように綴られることで榎津巌という男の人物像が描かれていくのだ。榎津は七十八日間、北海道から熊本県まで文字通り日本国中を逃げ回る。金が尽きると詐欺を働くのだが、弁護士に扮して保釈金を奪うなど、やり方は知能犯のそれである。その半面、強盗を企んで貸席業の母娘を殺害するなど、粗暴犯としか言えない行動を取ることもある。二つの顔は両方とも榎津のものだ。一九六四年一月三日に熊本県玉名市で榎津は逮捕される。

 全四十章のうち最後の十章は取り調べから刑執行までが描かれるのだが、三十二章「歌」に印象的な場面がある。最初の二件、柴田・馬場殺害の現場検証に連れだされた際、榎津は鼻歌を口ずさんでいるのである。巡査部長から「それでも人間か」となじられてもやめない。刑事調査官から「いまのは、なんちゅう歌か」と聞かれて榎津はこう答える。

「ほら、よう言うでっしょうが。曳かれ者の小唄ですタイ」

 曳かれ者の小唄とは、刑場に引き出された罪人が最後に空意地を見せて歌うものである。歌が何であったのかは小説の結末近く、第三十九章「夜」に置かれた一九六九年十二月十四日付の榎津の手紙で明らかにされる。おそらくここが榎津と読者の距離が最も近くなり、作品が小説の性格を顕かにする箇所である。西口彰という実在のモデルはいるが、『復讐するは我にあり』はやはり榎津巌を主人公とした物語なのである。虚構の物語を書きながら、作者の中だけに存在するのではなく、その想像を超えた犯罪者を創造するということに本作で佐木は挑戦し、成し遂げた。作家にとって絶対的他者であるはずの犯罪者をいかに描くか、という問いへの見事な答えがここにある。
『復讐するは我にあり』はひとりでに出来上がった作品ではない。トルーマン・カポーティ『冷血』から触発されたことを、佐木は複数の文章に書いている。『冷血』が本国で発表されたのは一九六五年だが、二年後には新潮社から龍口直太郎訳で日本語版が刊行されている。これに興味を持って読んでいた佐木が西口彰の連続殺人事件という題材に巡り合ったことから『復讐するは我にあり』が生まれたのである。

『冷血』は一九五九年十一月のある朝、カポーティが「ニューヨーク・タイムズ」で「裕福な農夫とその家族三人が惨殺される」という見出しの記事を読んだことから執筆が始まった。それ以前からカポーティは、ジャーナリズムやルポルタージュといったジャンルは新しい真摯な芸術形式を生み出すべきだという考えを持っていた。後に自らノンフィクション・ノヴェルと名付けたその形式は多くの後続者を生み、ニュー・ジャーナリズムと呼ばれる潮流を作り出すことになる。理念と手法はあり、そこにはめ込むべき題材のみが未定だった。記事がカポーティに天啓を与えたのである。

『冷血』 新潮文庫

 評伝『カポーティ』(一九九九年。文藝春秋)の著者ジェラルド・クラークはこう書いている。『冷血』はカポーティにとって「身の毛のよだつ単なる物語」ではなく「善良で道徳的な一家が、知ることも制御することもできない力に追われて破滅させられる話」であった、と。その言のとおり物語は事件の犠牲者であるクラッター家の人々を描き出すことから始まる。もっと正確に言えば、カンザス州西部の田舎町、ホルカムの克明な情景描写からだ。クラッターの一族が姿を現し終わった後、もう一方の主役である二人が登場する。リチャード(ディック)・ユージーン・ヒコックとペリー・エドワード・スミスだ。ディックはペリーに「約束するぜ。おれたち、髪の毛をそこらじゅう壁に吹っ飛ばしてやるからな」(佐々田雅子訳)と宣言する。これが来るべき惨劇の前触れとなる。

『冷血』の主眼はクラッター家の悲劇を描くことにあり、ディックとペリーという犯罪者はそのための触媒にすぎない。二人については家庭環境から犯行に至るまでのすべてが描かれるが、なぜ凶行に至ったのかという動機の問題に踏み込むことはない。あくまで彼らは理不尽な運命の象徴なのだ。一家殺害後にペリーはディックに「おれたち、どこか狂ったところがあるに違いない。あんなことをやるなんて」と語りかける。しかし自分の中の何が問題なのかが彼自身によって言語化されることはないのだ。自分の中に他者がいる。『冷血』に佐木を引き付けたのは、一切の主観的な評価を排除してただ事実だけを綴るという手法、そしてこの絶対的他者として犯罪者を描くやり方ではないかと思われる。

 佐木隆三こと小先良三は一九三七年四月十五日に朝鮮半島の咸鏡北道で生まれた。四歳のときに父は召集されてフィリピンのミンダナオ島で戦死してしまう。ために佐木は母親一人の手で育てられた。帰国して最初に住んだのは広島県高田郡だったが、やがて母の親戚を頼って北九州に移る。高校卒業後の一九五六年に八幡製鐵(現・日本製鉄)に就職、元から創作の趣味があったが、社内報「くろがね」などに投稿を重ねるうちに、その選者であった岩下俊作と知り合い、さらに創作欲を高めていくことになる。最初に世に出たのは、労働系の文学雑誌「新日本文学」が主催する新日本文学賞に応募した「ジャンケンポン協定」である。その第三回を受賞し、一九六五年に晶文社から単行本化されている。

 組合専従になった時代もあり、初期の佐木は労働問題を描く作家であった。組合運動に傾倒しすぎて八幡製鐵を辞め、一九六七年に上京した。そこからしばらくして返還の機運が持ち上がった沖縄に関心を持つようになり、一九七一年に現地に移住した。

 この時期の著作で注目したいのは一九七〇年に合同出版から刊行したルポルタージュ『沖縄と私と娼婦』(現・ちくま文庫)である。当時の沖縄では売春が合法であり、佐木はそうした労働者の元に足繁く通って取材を行った。ある仕事部屋には皇太子妃の写真が飾ってあり、客はその視線に見守られながら性交するようになっていたという。沖縄が米軍領化したのは言うまでもなく旧日本軍の起こした戦争のせいであり、その責任者である天皇は憎むべきであっても敬愛の対象となるはずがない。そうした見方とはまったく相反する女性に佐木は関心を持つ。政治という大所高所から見下ろす者の頭では考えられないようなことが地べたで生きる民衆の視点では行われている。そのことに新鮮な驚きを抱いたのだろう。それまでの佐木にとっては階級闘争こそがもっとも重要な命題だったが、沖縄で完全に生まれ変わることになる。他者をありのままに見る、それも自分の目で見たものだけを信じ、書くという態度が、その後の佐木隆三の基本姿勢となった。

 佐木は観察者であり続けたが、デモ隊が投げた火炎瓶によって一人の警察官が死ぬ事件が起き、デモの首謀者に疑われ、一九七二年一月十八日に琉球警察によって逮捕されてしまう。このときの経験が警察の取り調べに関心を持つきっかけであり、『復讐するは我にあり』の源流にもなるのである。傍観者に徹して政治的な行動を取らなかった佐木を揶揄する者もあり、沖縄出身の某評論家からは「売春専門ルポライター」と決めつけられた。しかし、佐木は動揺しない。このころの体験から沖縄が日本以外の国際社会とも密接につながっているという発見があり、目を世界に向けさせることになった。『復讐するは我にあり』に先んじて発表した『偉大なる祖国アメリカ』(一九七三年。河出書房新社)は、占領下の沖縄でアメリカ人の父を持つ者として生まれた青年を主人公とする犯罪小説だ。一九八〇年に発表した『海燕ジョーの奇跡』(現・小学館文庫)は、本来一九七〇年に沖縄取材を始めたころに構想されていたもので、フィリピン人と日本人の間に生まれたヤクザの物語である。主人公南風ジョーは二つの組織の暴力団幹部を射殺し、島伝いにフィリピンまで逃亡するのだ。

『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞したことによって佐木は一躍流行作家の仲間入りを果たした。自身の関心が赴くまま、また作品の需要もあって佐木は実在の事件に取材した作品を多く発表するようになっていく。そうした作品群の中で忘れられないのが『閃光に向って走れ』(一九七八年。現・文春文庫)と『曠野へ 死刑囚の手記から』(一九七九年。現・講談社文庫)の二冊だ。前者は中篇集であり、収録作中の「狙撃手は何を見たか」は四人を殺して死刑囚となった暴力団員・川辺敏幸に取材している。川辺は裁判で一切争わず、死刑判決を聞いて「出来ることなら、遺族の方に私を撃たせてあげたいと思う」と口にした。本編のための取材が終わったあと、佐木に長い手記を託した川辺は、弁護人による控訴を取り下げて死刑判決を自ら確定させたのである。このことに衝撃を受けた佐木が、川辺の人生を長篇として世に出したいと考えて書いたのが『曠野へ』である。

『殺人百科』(一九七七年。現・徳間文庫)シリーズなどの取材記や、冤罪の可能性を世に訴えるために書いたと思しき『ドキュメント狭山事件』(一九七七年。現・文春文庫)などルポルタージュの性格が強い著作が多くなったことから、昭和の末から平成期に入ると佐木は非小説の作家と見なされることも多くなる。しかし、絶対的他者をいかに書くべきか、という創作者としての自分への問いかけを止めたことはなかったはずである。

 これはノンフィクションではなくノンフィクション・ノヴェルだ、と佐木が断言している作品がいくつかある。一つは一九九四年に発表した『死刑囚 永山則夫』(現・小学館P+D BOOKS)である。連続射殺魔と異名をとった永山は獄中で『木橋』(現・講談社文芸文庫)を書き、一九八二年に第十九回新日本文学賞に応募して受賞を果たした。佐木はこのとき選考委員を務めており、その素朴で新鮮な作風に感動して強く推したという。永山への一審判決は死刑だった。だが一九八一年八月に高裁が無期懲役に減刑する判決を下す。そのために永山は『木橋』を書くことができたのだが、一九八三年に最高裁は二審判決を破棄して、高裁に差し戻した。この経緯に佐木は関心を持ち、永山則夫が罪を犯して裁かれるまでを書こうと考えたのである。永山と佐木を結びつけたものが小説を書くという行為だったという点が興味深い。

 さらにもう一作、一九九〇年の『身分帳』(現・講談社文庫)を挙げておきたい。『復讐するは我にあり』の十五年後に発表された、佐木犯罪者文学のもう一つの最高峰がこの作品であり、一九九一年には第二回伊藤整文学賞に選ばれている。長い間絶版状態だったこの作品が最近になって文庫で復活したのは、二〇二一年に映画監督の西川美和が『身分帳』を原案とする『すばらしき世界』を発表したからだろう。

『身分帳』 講談社文庫

 本作は、山川一という男が八年余の刑期を終えて旭川刑務所を出る場面から始まる。山川の履歴は刑務官の持つ収容者身分帳簿、通称身分帳に保存されている。山川一の受刑者としての記録を随所に置きながら佐木は、一般社会に出ていこうとする彼の戸惑い、世間から拒絶される哀しみを描いていくのである。

『復讐するは我にあり』は遥か遠くを走る榎津巌を追いかけ、追いついていこうとする作品だった。『身分帳』の場合、読者の視点は山川一の背後に置かれている。ページをめくる者は彼と共に歩きながら、その心中に思いを馳せていくことになるだろう。すぐ前を歩く人はいったい何を考えているのだろう。背中のこわばりは、肩の震えは、おそらくは感情の現れであろう。そういうことを考えたくなる小説だ。犯罪者という他者を小説の形で描くやり方について考えるとき、佐木作品には常に学ぶべき点がある。

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》



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