はじめて読書日記を書いてみて思ったこと
今日はじめて読書日記を書いた
ずっと読書日記を書きたかったけど書いてこなかった。読後の感想が「面白かった」くらいしかないから書けなかったし、インターネット上にはすでに自分より頭のいい人の感想が溢れていて、自分の浅い理解の感想なんて何の意味もないんじゃないかって思ってずっと書けずじまいだった。
それでも心のどこかでずっと読書日記を書きたいというしこりだけはあって、なんどかエディタで下書きをしてみたけど、やっぱりうまく書けなくて途中でやめるのを繰り返していた。それでもまたしばらくすると読書日記を書きたくなる波が来て、また下書きして、思うような文章が書けなくて放り投げる、それの繰り返し。
そもそも自分がどうして読書日記を書きたいと思っていたのかというと、何かしらアウトプットしないといけないという義務感と焦燥感みたいなものはずっとあって、自分がアウトプットできるものといえば、趣味の読書というインプットから発生するものくらいしかないだろうなって思ってたから。そのうちアウトプットの義務感の方が勝って、読書日記じゃなくて、自身の体験をちょっと書いて投稿してみたりすることになるのだけど。
なんで自分は読書日記を書けないのだろう、いや書けるけどインターネットに公開できないのだろうと考えてみたら、単純に恥ずかしいっていう、それだけの理由だった。自分の浅い理解しかできていないであろう感想を、まとまっていない文章を、誰かに見られるのが恥ずかしかったのだと思う。恥を書きたくなくて、ずっと足踏みしていた。でも、ストア哲学とかに触れて、他人の評価なんて自身でコントロールできるものではないし、いちばん大事にするべきは自分の意思だという思考に変わった。それで、そもそも読書日記を書いたことないのに、はじめからうまく書こうとしていること自体が傲慢だったということに気づく。はじめは下手くそで当たり前で、少しずつうまくなっていけばいい。とにかく読書日記を書くことでしか読書日記はうまくならない。うまくなるというか、自分の書きたいことをきちんと書けるようにならない。自分の書きたいことを書くのってふつうにできそうなものだけれど、自分の頭の中を思い通りにテキストに落とし込むのに必要な筋肉ってあると思う。その筋肉を鍛える必要があるんじゃないかって思った。
だからぜんぜん納得はできていないし、そもそも自分でも何を書いているのかわからなくなってしまっている読書日記を公開した。恥とか知らない。書いて、公開することでしか上達できないなら、そのサイクルを廻していくしかない。
たどり着きたい場所があるなら、なりふりかまってられない。浅い理解しかできていない感想でもいい、書きたいことの十分の一しか書けていない文章でもいい 、綺麗にまとめられなかった感情でもいい、次はきっともっとうまく書くぞって思いながら投稿ボタンを押して、成長していく
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