何故、過去に拘束されるのか。 こう問うとき、きっと僕たちは忘れている。何故、過去に縋ることができようか、そう問うことを。 不思議な、四角。黒い四角。 ■ 文脈について考えている。今、僕は何処にいるのか。そして、息をつく間もなく、次の疑問が首を擡げる。どうして自分の住所が、一定の語りの形式によってのみ知られ得るのか。僕は、語ることによってしか、自分の位置を特定できないのか。 人生に、世界に、意味を求める限り、語りに縋る他ない。その外側へと、一歩足を踏み出
僕は烏のことを忘れつつある。 先日、文藝賞に自作を一篇、提出した。大学時代、ブロン中毒だった経験を元に、構想した小説だった。そして、僕がブロンを飲み始めた経緯には、烏が関係している。詳しくは、前回書いたね。烏もブロン中毒で、僕は勝手に憧れて、勝手にブロンを飲んだ。 けれど、僕が書いた小説のなかに、烏は登場しない。実体験を元に書くことの難しさ、というか不可能性は、八月に提出した織田作の賞で、痛感した。それは、『烏の城』と銘打った作品で、こうして書いている一連のnoteも、
それを禁断の果実と呼ぶことも、智慧の実と看做すことも、気が進まない。あらゆる解釈の不在こそ、僕の直面した問題であったし、善悪は社会が決めるものだ。僕の直観が善としたなら、ある意味で、それは善。そして、社会が悪としたならば、ある意味で、それは悪。自分の過去を、息を付く間もなく社会の文法に還元する習慣は、生存をごく限られた圏域へと、閉じ込めてしまう。 しかし、始めに断っておく。 飽くまで社会的に考えて。間違いなく、あれは「悪」だった。 本来なら僕は、こうして当時を思い出す
音楽が、美と認め得る要件とは。 それは、作品が「オブジェクト」となることである。僕はこれを、「オブジェ」と呼んでいる。「対象」としての性質、鑑賞対象である彫刻作品「オブジェ」の性質を、併せ持つ。 烏の楽曲を聴く。好きな曲もあれば、嫌いな曲もある。好きな曲の方が、断然少ない。ただ、好きな曲は、本当に好きだ。それが「好き」という言葉を、定義してしまうくらいに。 ただ、今回は烏というより、僕の芸術観について。 ラブ・ソングは苦手だ。特に、ねっとりした、バラードは。
以下に語られる内容は、すべて実話です。まあ多少の記憶違いは、あるかもしれないけど。とりま、烏に関する記憶を、供養させてくれ。 大学一年の冬、とかだったかな。僕はツイッターで、太宰治botを探していた。僕は太宰治好きだったから、bot見付けた後も、趣味が合う垢とかないかな~みたいなノリで、他の垢を漁ってた。そのなかに、「太宰治になりたいボーイ」という垢があった。いい感じ、と思って、フォローした。フォロワー数は、数千くらいの、準インフルエンサーくらいの規模。ツイートの内容は