烏の城2.0 美しい音楽とは

 音楽が、美と認め得る要件とは。
 それは、作品が「オブジェクト」となることである。僕はこれを、「オブジェ」と呼んでいる。「対象」としての性質、鑑賞対象である彫刻作品「オブジェ」の性質を、併せ持つ。
 
 烏の楽曲を聴く。好きな曲もあれば、嫌いな曲もある。好きな曲の方が、断然少ない。ただ、好きな曲は、本当に好きだ。それが「好き」という言葉を、定義してしまうくらいに。
 ただ、今回は烏というより、僕の芸術観について。
 
 ラブ・ソングは苦手だ。特に、ねっとりした、バラードは。バラードが好きだった時期もある。その頃は、自分の感情が、作者の感情と重なり、同一の方向へと重なりあって、進行していた。しかし、僕の芸術観は変わった。オブジェとしての芸術を、意識するようになったのだ。作品を見る僕と、対象としての作品がある。僕が、作品に、美を認める。この構図が、音楽にも、小説にも、映画にも該当する。
 順を追って話そう。僕がラブ・ソングを苦手になった理由。たぶん、恋人がいないからだ。恋人、というより、好きな人が、長いこといない。そして、好きな人がいるという状況を、想像すらできない。だからこそ、ラブ・ソングを聴くとき、感情は僕の内部から、作品自体へと撃たれる。一方、作り手側の事情とは、熱意を持った作詞者ほど、感情を載せてしまう。作者の内部から、不特定多数の視聴者へと、感情は撃たれる。僕は、感情を撃たれる対象でもある。僕が作品・作者の方角へと発する感情は、作者が視聴者である僕へと発する感情と、衝突する。ここに、不健全な構図がある。片方が何かを発する時は、もう片方が、受け手にならなくてはならない。作品は、自らに向かって放たれる感情を無尽蔵に吸うことのできる、容器のような性質を持たなくてはならない。少なくとも、作品と僕の双方が、相手に向かって感情を撃っては、ならないのだ。
 では、容器としての作品とは、どんな作品か。容器の要件を満たしてさえいれば、どんな作品でも良い。ただ、僕の知るモデルこそ、「オブジェ」としての作品である。
 谷崎潤一郎の『春琴抄』を思い出そう。美しき盲目の少女と、それを愛する従者。ある日、少女の顔が、とある事件により、醜く壊されてしまう。報せを聞いた従者は、醜くなった少女の顔を見るのを拒み、自らの眼球を潰してしまう。そんな話である。
 我々がこの話に感動するのは、何も従者に共感するためではない。それが教訓であるためでもない。当作を読み、自分も目を潰そうと、教訓を得る人間はいるまい。我々が当作を愛するのは、それがいかなるメッセージも、意味も含んでおらず、それが「オブジェ」であるためである。真の文学とは、共感や教訓を得るためのものではない。共感や教訓をも手段として用い、そして最終的には、文体、話の展開の、率直な美的評価によってのみ、優れた作品と呼ばれるのである。『春琴抄』では、確かに途中まで、読者は従者に共感しているかもしれない。ただし、彼が最後の行動に至った時、彼の行動は、我々の共感を離れている。我々の胸の内から、意味を欠いた虚空へと、ひらりと迷い出るのである。このとき、彼の行動、つまり小説の展開は、「オブジェ」となる。我々は、もはや彼と自分を同一化することができず、はたと気付いた時には対象として捕捉されている彼に、美的評価を下すのである。
 こうして「オブジェ」としての属性は、僕が作品を評価する上で、最も重要な条件となっている。
 
 では、最後に烏の曲についても、少し話すか。一応、これまでの話は、彼の作品について云々するための、布石だったのだ。烏の曲は、自らの内奥にあるものを、直接的に発露する形式である。彼が以前、キャスで言っていたことには、彼の楽曲は、基本そうである。ただし小説では、その限りではない、という話だった。まあ三年近く前の話であるが。
 僕が特に好む烏の楽曲は、サイコビッチ、モイするあの娘、GPS、等。それらに共通するのは、僕がそれを「オブジェ」として、認識している点である。つまり、対象である。彼の曲を聴くとき、僕は断じて共感していない。彼の感情の表現が、同一のベクトルに沿ってなぞられるときではなく、そうした表現をする、そうした感情を抱く彼の存在そのものが、一つの珍奇なオブジェとなったときに、僕は初めて彼の曲を、素晴らしいと認める。その点で、僕は烏と、あまり似ていない。似ていないからこそ、彼が物珍しく映る。目新しいものを見付けた喜びで、僕は彼の曲を聴く。
ただ、その珍しさが、特異なのである。同じ手触りの特異さは、他の何処にも、見付からない。その特異さの素性を、僕は未だに理解できていない。
 
 長々と語ってきたが、これを『烏の城』の第二弾とする。続きは、また気が向いたら書くわ。

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