意味

 何故、過去に拘束されるのか。
 こう問うとき、きっと僕たちは忘れている。何故、過去に縋ることができようか、そう問うことを。
 
 不思議な、四角。黒い四角。
 
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 文脈について考えている。今、僕は何処にいるのか。そして、息をつく間もなく、次の疑問が首を擡げる。どうして自分の住所が、一定の語りの形式によってのみ知られ得るのか。僕は、語ることによってしか、自分の位置を特定できないのか。
 人生に、世界に、意味を求める限り、語りに縋る他ない。その外側へと、一歩足を踏み出せば、こうして書いている文字列さえ、ばらばらに解け、無秩序に散乱することだろう。僕は語りの上に身を置いているときにだけ、人と関わり、有意味な何かを為すことができる。けれど、語りとは、余りに脆い構造体なのだ。僕は自らの意志を介さず、しばしばそこから、足を踏み外す。有意味な何物も、認め得ない場所へと迷い込む。そのとき、僕は途轍もない恐怖を感じる。意味の欠如は、人間に本能的な恐怖を植え付けるのだ。
 いま僕は、ドトールにいる。白いカウンターと、喫煙室の中間にある、丸テーブルに陣取っている。丸テーブルには二つの肘掛椅子が置かれ、片方に鞄、片方に自分が座っている。マスク解禁の政府方針を受け、久々にマスクなしで出掛けてみたくなったのだ。春の陽気が、夥しかった。ぼくりりの『Black Bird』が聴きたくなる季節。あれは春の曲なのだ。『Black Bird』をループ再生しながら、温かい陽射しの往還を歩いた。
 僕は何処へ向かっているのか。そんな疑問が、ふと過る。いけない、また語りに頼っている。そう自省するも、やはり疑問は意地悪く、胸のうちに居座ったままだ。僕は、単調な世界に、意味の虚偽性が最早自明となった世界に、依然として何かの意味を求めている。どんな意味であるべきなのか、それはわからない。ありきたりなサクセス・ストーリーが、ひどく陳腐で退屈なものに思えることもあれば、すっかり心酔し、舞い上がることもある。意味は、気分次第で、あったりなかったりする。意味とは、一つの気分なのだ。けれど、気分であるからと言って、それが意味であるとは限らない。意味とは、気分の数ある種類のうちの一つであり、その気分が訪れない限り、僕は意味も無意味も考えず、平穏無事に呑気な生活を、いつまででも続けていることだろう。
 こうしてるうちに、気分が推移しつつある。今日の意味/無意味問答は、そろそろ終わる。それは、一つの気分の到来/退去と、ぴったり重複する。この問答そのものにも、意味はないのだろう。そう投げやりに考えたところで、気分は完全に消え去り、当面の間は、ナリを潜めていることだろう。

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