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「意味のないもの」に不寛容な社会

少し前、文系学部廃止論が出て、話題になっていましたよね。きっと今でも言われているのでしょうけど。
私は中学生のときから文学部一択でしたし、大学のことを、就職のための職業訓練校のような機関として考えたことがありませんでした。本当に「やりたいことに専念できる教育機関」だと思っていました。
私は文学部の中でも英米文学を専攻しているので、4年授業を受ければそれなりに英語はできるようになります。そのため、周囲からは「まぁまだ英文は、英語力というスキルがつくだけマシだよね。グローバルな時代だし」というようなことを、散々言われました。
「就職・仕事に役立つかどうか」で、私の愛する学問がジャッジされることに、毎回心がギュッとなっていました。
実際、相当理解のある家庭か、余裕のある家庭のご子息でもなければ、卒業後、新卒で職に就くことが当たり前なので、そんな悠長な考えで大学を選ぶべきではないし、専攻もよく考えるべきだと思います。
日本はアメリカと違い、専門的な職以外は、大学時代の専攻が就職後の職種に直結していなくても良いので、そういう点では寛大な方かもしれません。

私は世間から「意味のないもの」として片づけられているものが大好きです。言い換えれば「役に立たないもの」「今生きるためにはどうでもいいもの」でしょうか。今生きるために不可欠なものをお金や衣食住だとするならば、芸術や文化、エンターテイメントは「どうでもいい」とされるものです。
コロナ禍で真っ先に切り捨てられたのが、これらでした。改めて、関心のない人にとっては無駄なものなのだなぁと実感しました。
確かにこれらのようなものでは、飢えをしのげません。食べてはいけません。しかし、食べ物では、肉体的な飢えを免れることができても、精神の渇きを癒すことはできません。
どんなに裕福で、側からみれば何不自由ない人生を送っている人でも、気を病んで自ら命を絶つ人もいます。人間は肉体的充足感だけでは生きていけないと私は思うのです。
さて、本当に目に見えて役立つものだけにしか意味がないのでしょうか。

これは、人生全般にも通じるものがあると思っています。
たとえば、絶対に成功する、結果が出る見込みのある、もしくは結果の出たものしか評価されないことが多いこと。
何も成し遂げられなかったけど、考え、もがき苦しみ、自分なりの答えを出そうとしたその時間や試みには、本当に何の意味もないでしょうか。
できれば結果が出た方がいいです。でも、結果は結果として、確かに努力してきた過程を、本人も周りも否定しないでほしいと思うのです。「あのとき、どうなるかは分からなかったけど、挑戦してみた」という事実が、後の人生でどんなに意味を持つか。目に見える結果とは違う形で、人生に影響を与えると思います。
「意味がない」と決めつけた瞬間に、それは本当に意味がなくなってしまいます。これは今の私自身への戒めでもあります。

コロナの影響で、益々人々には金銭的・精神的余裕がなくなりました。「今日生きるのも大変」という人も増えたでしょう。きっとこれからもそうな気がします。
人々が今まで「意味がない」と排してきたものは、そういうときに力を発揮するのです。

どうか、このような時代だからこそ、「意味のないもの」を切り捨てないでください。必ず救いになるときが来ます。

“意味のないもの愛好家”として、せめて自分だけでも、余裕がないときほど“無駄なものたち”を抱きしめて、生き抜いてやりたいと思います。

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