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金魚飴 第1話

 ────二◯一◯年・晩夏

 華やぐ東京の大歓楽街・紅大門。

 そこには遙か昔、戦乱の世に生きた者達が憩としていた遊廓街を思い起こさせるような景観が名残り、出入口となる金の装飾を派手に纏った紅く大きな門をくぐると、軒を連ねているのは飲食店に飲み屋、風俗店が主で、その中でも五階建ての風俗店『遊廓屋吉原ビル』はのぼりを大々的に掲げ、一際目を引く存在であった。

 吉原ビルは、“遊廓屋”と言うだけあって内装もそれらしく造り込まれている。

 そこを仕切るは極道界一派の古城組だ。裏社会、反社会勢力。その頂点を目指し関西圏までをも飲み込もうとするこの組織は、シノギの一つとして人身売買をしている。

 様々な事情で身売りされた子供達は一生、死ぬまで古城組の下で生きるのが掟なのだ。

 人身売買、と言っても、むやみやたらに人拐いをする訳ではない。

 家庭の事情などで育てられなくなった子供達を金で買い取り、女は吉原ビルで働かせ、男は組に入れ、下っ端として働かせる、というものだ。

 子供の立場からしてみれば、そんな理不尽なことはないだろうが、古城組からしてみればそれで採算が取れるのだから、願ったり叶ったりの商売である。

 これは、そんな色街で起こる、任侠者達の話である────。


   ***


 息も荒く絶え絶えに、男は死に物狂いで走る。

 止まってはいけないのだ。

 止まればどうなるか、自分の足に言い聞かせる。

 人混みを掻き分け、ぶつかり、倒れ、なおも立ち上がりまた走り出す。

 一方、追っ手の行き道を邪魔する者はいなかった。その追っ手がヤクザだからだ。

 男は大門の出口を目指していた。

 ここ歓楽街は、大門をくぐった先は無法地帯そのもので、身売り、ドラッグ、ヤクザ同士の抗争、その他様々な犯罪が横行しているが、この地域一帯には暴力団排除条例が定められていない為、警察も取り締まることができない仕組みになっている。

 それを知ってか男は無法地帯という牢獄から出れば、ヤクザ達も手出しはしてこないだろうという考えがあった。

 そして自分を信じてひたすらに走り続けているのだ。

 だが男は間違いを犯していた。土地勘が全く無かったのだ。

 そんな人間がこの入り組んだ歓楽街を抜け切ることはかなり難しいことだ。

「いっ、行き止まりっ」

 男は引き返そうとした。が、遅かった。

 このシマを仕切る古城組のヤクザ達は既に戻る道を塞いでいた。

「もう逃げ場は無ぇぜ」

「わわっ、わかった!金は返す!だから、な?」

 聞く耳を持たないヤクザ達は鉄パイプや木刀で一斉に男を殴り出した。

 男は身体のあちこちに血を滲ませ必死に身を守る体勢で苦しそうに呻いている。

「ハイハイ、皆さん終わりやでー」

 突然、陽気とも取れる関西訛りの男の声がしてヤクザ達は皆手を止め振り返った。

 そこには身長190センチ近くはあるかと思われる、二十代後半くらい、細身の黒長髪男がコンビニの袋を持って立っていた。

 その男の左眼は金色に光り、まるで蛇の眼のような瞳で、睨まれでもしたら動けなくなってしまうかもしれない程の禍々しさを帯びている。

 ヤクザ達は一斉に「水屋さん!」と声を上げた。

 名は水屋久路。古城組に所属し、吉原ビルでマネジメントをしている極道者は、その眼で男を見下ろしている。男は顔面蒼白になる。

「この兄ちゃん何したん」

「水屋さん、こいつ店の金・・・」

「盗ったんか」

 水屋は血塗れの男の前にしゃがんだ。

「兄ちゃん、アンタぁようここまで来れたなぁ。大門、すぐそこやで。ぎょうさん人にもぶつかったやろ。逃げるんはさぞ難儀やったやろなぁ」

 水屋は眉間にシワを寄せ、深く息を吐いて話を続ける。

「ここはなぁ、ワシら極道もんが息づく街や。だがなぁ、ワシらみたいなもんに助けられとるカタギの連中も多少なりとおる。恩売っとる訳ちゃうで。ただそういう奴らはだいたい何が起こっとるか解るんや。そういう街なんや。ワシがたまたま通りかからんかったら兄ちゃん今頃お陀仏やったで」

 水屋に人差し指で胸を突かれ男の心臓がキュッと締まる。

「ま、この街でこないなことすると、金以上に大事なもん失くすで。命は大事にせぇや」

 そう言うと男の肩をポンポンと叩き、立ち上がって若衆達の方を向く。

「お前らもなぁ、あんま目ぇ余るようなことしたらアカンでぇ。うちの店の評判っちゅうもんもあるやろが。周り見てみぃ」

 若衆達が振り向くと、その目先に大勢の野次馬の姿があった。 
 何があったのかと不安そうな顔で見ている者、楽しそうにヤジを飛ばす者、皆それぞれにこの一件を気にしている。

「な?せやから今度から気ぃつけぇや」

 その言葉に続くかのようにザッと雨が降ってきた。

「お、雨かいな。風邪ひいたらアカンなぁ。みんな、鍋でもつつきに行こうや」

 先程まで強張っていた若衆達の顔が綻び、「はいっ!」と威勢の良い声が重なり合った。

「あ、そのコソ泥、誰でもえぇからお巡りさんとこ連れてってあげやぁ」


   ***


 腹も膨れ、若衆達は水屋に奢ってもらった礼を言う。

 皆水屋を慕い水屋に憧れ、優しさと強さを兼ねたそのカリスマ性に惹かれるのだ。

 こうして下っ端に食事を奢るのも士気を高める手の一つだと、水屋は金を渋ることは無かった。

 話し合いで解決出来ることはとことんそうする。無駄な争いは好まない。だが腕っぷしは桁外れに強い。そんな人柄に惚れ込む輩が多いことは確かだった。

 水屋も満足気で、その後、若衆達と別れて吉原ビルへと戻った。

 未だ雨は降り続いていて、傘の無かった水屋はずぶ濡れのまま裏口からビル内へ入った。

 裏口は八畳程の広さで、入ってすぐ右手に従業員用の傘立てと下駄箱があり、その先には厨房への入り口がドアを隔てて在る。

 専属の板前が作る料理の良い匂いがドアの前を通る度食欲をそそり、腹が空いている時に通るのは酷なくらいだ。

 水屋がクシャミをすると、遊女見習いの百合がタオルを持って走り寄って来た。

 百合は長い黒髪を揺らしながら、これまた黒くて大きな瞳を輝かせている。

「はい、これ。水屋さんの傘、ずっと置きっ放しだったから」

 タオルを差し出した手は恥ずかしさと緊張で僅かに震えていた。

「何や、気ぃ遣ってくれたんか。おおきになぁ」

 嬉しそうな笑みを浮かべながらそう言われ、大きな手で頭を撫でられた百合は、顔を真っ赤に染め、余りの気恥ずかしさに意識を失いかける。

 そして照れ隠しにその場をそそくさと後にした。

 それに気付かぬ様子で水屋は濡れた髪をタオルで拭きながら、自室までの廊下を歩いた。

「初見世近いんだってな、百合」

 吉原ビル支配人の片桐架橋だ。腕を組んで壁に寄りかかっている。

「わっ!?何やおったんか兄弟。ビックリさすなや」

「ははっ、悪りぃ。百合がどうしてもお前の帰りを待ちたいって言うもんだからよ」

「ん?ああ、そうなんか。で、百合が何やて?」

 そうなんかって・・・と、片桐は苦笑する。

「初見世だ、初見世」

 水屋はその言葉を聞くと、悲哀に歪めた顔に薄っすら影を落とす。

「そうか、早いもんやのぅ。あの子がここ連れられて来たんはワシらがまだ十六、七ん時やったなぁ。女将がエライべっぴんさんが入った言うて浮かれてたん思い出すわ」

「そうだな。遊女、か。俺ら男には一生解らない立場だな」

「せやなぁ」

 水屋は濡れたタオルに顔を埋め、やるせない溜息を漏らした。


   ***


 午前三時を過ぎた頃、歓楽街は音と色を終い静けさに制された。

 水屋は吉原ビル内に在る自室のベッドで横になっていたが、何だか胸がざわついて眠れず、起き上がり、長髪を後ろで一つに結わいてから上下ジャージという軽装に、護身用として背中に銃を一丁隠し持ってコンビニへ足を運んだ。

 胸のざわつきは一体何なのだろうか。

 思いあたる節も無く、ただ漠然と今まで感じたことのない虚無感にまとわりつかれていた。

 水屋は紅大門が静けさを取り戻したこの時間帯が好きだった。開いている店は24時間営業のコンビニくらいで、薄暗く、風の吹く音のみが聴こえるこの時間だけが己を人から開放してくれるのだ。

 孤独は嫌いだが、この開放感は嫌いじゃない。

 水屋は好物のサバ缶をあるだけ買いコンビニを出るが、その帰り道、ふと目の前に視線をやると、3、4メートル先に見慣れない少年が立っていて、水屋に銃を向け構えている。

「何やわれぇ」

「ボクのこと、覚えていますか?古城の毒蛇さん」

「・・・知らんなぁ」

 少年は水屋の通り名を知っている。

 水屋には何の覚えも無いが、自分に関わってくる輩は大体ヤクザ関係だ。

「そうですか。覚えてないんですか・・・それは残念です────」

 少年はさも残念そうな顔をした瞬間銃弾を放った。

 弾は水屋の左頬を一瞬にして横切るが、水屋は物怖じ一つせず真っ直ぐに少年の目を見て立っていた。

「その蛇眼、綺麗ですね。もっともボクには通用しませんがっ」

 少年が再び銃口を向け水屋に近付いて行く。

 水屋は背に隠してあった銃を素早く取り出し構える。

「無駄ですよ」

 気づくと少年は既に水屋の背後を取っていた。

「なっ・・・」

 銃口は後頭部に密着している。
 もう、終わりか。いくら沈着冷静な水屋でも覚悟を決めるしかなかった。

「ボク、強くて綺麗なお兄さん好きなんです。だから貴方は殺しませんよ」

 少年はそう水屋の耳元で囁くと、不敵な笑みを浮かべどこかへ消えた。

 水屋は辺りを見回したが少年の姿は無かった。

 ワシの命狙うっちゅうんはどこかの組のもんか?疑問は残るが命を狙われている以上、下手に動けないだろうという懸念を抱くことになった。


   ***


 翌日、午前十時。

 水屋は自分の所属する古城組の事務所に来ていた。

 今朝のことを古城組組長代行の古城敬(こじょうけい)に報告するためだ。

「失礼します」

 深々と頭を下げる水屋を見るなり、真向かいのデスクに鎮座している敬は天井を見上げながら煙草を吹かし、長い両足はデスク上に乗っけられ、偉そうに組まれているが妥当だろう。

 まるで女性らしさの無い敬だが、これでも胸はDカップある。

 敬の横には組長代行補佐の深海潮(ふかみうしお)がズンと立っている。高い身長と、ガッチリしたたくましい身体つきは、古城組での役割が力仕事メインだということを物語っている。

「よお水屋。急だな。怖い顔してどうしたんだ」

 敬が抑揚のある声で言うと、水屋はゆっくり頭を上げた。

「実はお話ししたいことが・・・」

 敬は身を起こし灰皿に煙草を押し付け、「何だい、その様子だと私の顔を見に来た訳じゃあなさそうだねぇ」と冗談混じりの笑みを見せた。

「少しばかり、お耳に入れておきたい話がありまして」

「いいよ。話な」

 水屋が早朝の出来事を嘘偽りなく話すと、敬は眉をひそめる。

「厄介な話だねぇ・・・護衛でもつけようか」

「いや、要りません」

「自信があるのかい?」

「他人を犠牲にして自分の命守ってるみたいで嫌なんです」

 敬はフッと笑むと、「そうかい」と呟く。

「しかし・・・」

 深海が遮るかのように割って入る。

「いいんだよ、深海。こいつはそういう奴なんだ。だが無茶はするなよ」

「はい。では、失礼致します」

 水屋が頭を下げてから出て行くのを見計らい、深海が心の内を話す。

「しかし・・・大丈夫ですかね、水屋のやつ」

「大丈夫かどうかは結果が出てみないと判らないよ。しかし水屋を襲ったのは何者なのかねぇ。厄介事が大きくならなければいいんだけど」


   ***


 百合は明後日に初見世を控えていた。

 最後の下積み生活。

 これからは籠の中で身を売るのだ。

 百合はまだ十四歳である。初めて客をとり始める身分としては気が気でないかもしれない。そう案じた水屋は、百合を縁日に連れて行くことにした。それは、水屋なりの慰め方なのかもしれない。

「久路、遊女見習いを縁日に連れてくなんて本当世話好きだな」

 片桐が吉原ビルの裏口まで水屋と百合を見送りに来て言った。

「兄弟も一緒に行けばえぇのに。楽しいで。なぁ、百合」

 頷く百合の頭を撫でる片桐。

「あいにく、俺はマネージャーのお前よりずっと忙しいんでな」

 片桐は皮肉をこぼして去ろうとするが踵を返した。

「そうだ久路、今夜久しぶりに一杯どうだ?」

「おお!えぇなぁ!なら七時にいつもんとこで!」

 片桐が、ああ、と嬉しそうに微笑むと、水屋は片桐の肩を軽く叩く。

「ほな行って来るわ!」

 夕暮れが人の波に飲まれてゆく。

 歓楽街の縁日の華やかさは他と引けを取らない程に賑わいをみせていた。

 日本の祭特有の商材はある程度揃っており、祭好きだったら一度は訪れたいと望むであろう。しかし、行われている場所が場所だけに、一般人は入りずらい独特な雰囲気も放たれている。だが、この縁日の時だけはここのヤクザ者達も大人しく一般人を迎える。年に一度の暴力の無い例外の日だ。

 無論、その状況の中で無法を働く者には例外は例外となるのではあるが、この熱気と賑わいの中ではそうは現れない。

 そんな特別な日に、色とりどりに並ぶ屋台をゆっくりと眺め歩く水屋と百合は、縁日の空気に少し酔い気味に眼を輝かせ、店先に並ぶ物に興味津々である。

 水屋が眼を留めた店には和柄の扇子がずらりと並んでいた。

 千円台で買える物から高いと四、五万円する物もあった。

 水屋はその中でも昇り龍の扇子に惚れ込み値札を見ると、そこには『三万円』の文字が。

「兄ちゃん、どうだい一本!」

「せやなぁ、三万払うたら財布ん中スッカラカンやでー。でもなぁ・・・その昇り龍の扇子かっこえぇなぁ。なぁオッチャン!それ、負けてくれや!この通り!」

 水屋は目を瞑り顔の前で手を合わせてみるが、店主はやはり気が乗らない様子で「んー」と腕を組んで悩み始めた。

「そうだなぁ。この扇子は特注品でな、なかなか手に入らない代物なんだよ。まぁ、兄ちゃんがそんなに欲しいと言うなら、二万でどうだ?」

 それでも納得のいかない水屋は「あと一声!」と値切りに値切る。

 店主は再び「んー」と腕を組み、更に首を捻る。

「一年に一度の祭りやで。オッチャン頼むよ、な?」

「そうだな。兄ちゃんの店にはいつも世話んなってるしな。なら一万五千でどうだい?」

「よっしゃ!やっぱ祭りはこうでないとな!オッチャンおおきに!」

 水屋は久しぶりに良い買い物をした、とご満悦そうにその扇子を開き扇ぐ。涼しい風が気持ち良く、値切れたそれで扇ぐと余計に涼しく感じられるから不思議だ。

「どこにも行かないでね」

 百合の唐突な言葉に「え?」と聞き返す水屋。

「その龍、お空の上まで飛んでってどこかへ行っちゃうんでしょ?水屋さんもその龍みたいにどこかへ行っちゃいそうで・・・」

 水屋はフッと笑み、百合の前に腰を落とした。人差し指で蛇眼を指しながら、ニッコリ笑いこう返す。

「ワシは龍やない。蛇や。蛇は空は飛ばん。地を這うだけや」

 百合はその屈託の無い笑顔を見て何だか力が抜け、安堵の表情を浮かべた。

「ほな行こか」

水屋に手を引かれ、百合の鼓動は早さを増していくばかりだった。

 やがて空の赤が黒と交わり、屋台や照明の明かりが街を彩る。

 賑わいは増す一方で、人混みの中二人の瞳は輝きっぱなしである。

 屋台は大体見て回った。それでこの後どうするか、となった時のことだ。

「水屋さん!あれ!」

 百合が“あれ”と指差したのは、細い木の棒に刺さった透き通った赤い金魚の飴細工だった。

「欲しいんか?」

 目を爛々と輝かせコクリと頷く百合。

「オッチャン、それ一つくれや」

 財布から小銭を出している時もまだ百合の目は輝いていた。余程欲しかったのだろう、と水屋は微笑ましくなって思わず笑みをこぼした。

「はいよ、お嬢ちゃん。金魚飴一つね」

 金魚飴という名のそれは思ったより重く、今にも暮れ空に泳ぎ出しそうな金魚飴を百合はジッと見つめて感嘆の溜息をついた。

 水屋に礼を言うと、でもね・・・と続けた。

「これ、水屋さんにあげる」

 水屋は驚いて自分を指差した。

 再びコクリと頷く百合。

 受け取ると、水屋も金魚飴をジッと見つめ、暮れ空にかざしてみせた。

「綺麗やのぉ・・・てか、なぁんでワシに?」

 百合の唇が震えた。少しばかり緊張した様子だ。

「金魚飴って、本当は蝋細工だから食べれないんだよ」

 へぇ、と水屋はどこで覚えてきたのかと百合の知識に感心する。

「それ、水屋さんみたいだから」

 その言葉と共に、水屋と百合以外の時だけが止まったかのように雑踏の音が失くなった。

「だって、ヤクザなのにすごく優しいでしょ、水屋さん。金魚飴って名前なのに、食べれないのと一緒だね」

 百合は屈託の無い顔で微笑み、言った。

 まるで時は動かず、二人だけの世界が回っていた。見つめ合っているうち、やがて動き出した時は二人を現実へと呼び戻した。

 水屋の鼓動も、百合の鼓動も脈が速くなり、深い呼吸を求めているようだ。

 遠くで遊女の文子がみこしを観ようと呼んでいる。

「ふみちゃんも来てたんだ」

 今行くー!と百合は大きな声で返し、水屋の手を取る。

「行こ!水屋さん!」

 胸の辺りが水飴に浸かったかのように甘くて、水屋は求めた空気を無心に吸っていた。

「何なんや・・・ったく」


   ***


「この扇子、恰好えぇやろ」

 午後七時。居酒屋のカウンターで水屋は片桐と飲み始めていた。

 一旦吉原ビルに戻り、金魚飴は自室の片隅に飾られた。その後、片桐と合流。

 そして水屋は今日の収穫を見せびらかすが、無邪気な水屋を見て片桐は安堵の気持ちだ。

「昇り龍か、お前らしくて良いな。つーか随分高そうだがいくらしたんだ?」

 嬉しそうに水屋は右手の人差し指で『1』、左手をパーにして『5』を作って見せた。

「おお、安いな。ま、お前のことだからどうせケチって値切ったんだろうが」

 水屋は目を細め「チッ」と舌打ちして熱燗をグイっと飲み干した。片桐はフフッと笑う。

「で、俺に土産は?」

「無いわバーカ!」

 水屋の性格上、この後何をすれば素直になるかを、幼い頃から一緒にこの街で生きて来た片桐には手に取るようによく解る。

 が、今夜はいじけた水屋を見ているのも面白い、と、水屋を放って置くことにした。

「そんなにふてくされて」

 片桐が水屋のお猪口に酒を注ごうとするがそれよりも先に自分で注ぐ水屋を見て、片桐は内心面白くて仕方なかった。

「可愛いな、お前」

「はぁっ?」

 片桐の酔ってもいない口から出た突拍子のない言葉がまたしゃくに触ったのか、はたまた照れたのか、水屋は顔を真っ赤にして片桐をなじった。

「きょーだいっ!もう酔っ払ったんか!ワシ“可愛い”なんて生まれて初めて言われたで!ああっ?」

 胸ぐらを掴まれた片桐はそろそろ水屋を鎮めようと、笑うのを必死に堪えて言った。

「今日は俺の奢りだから、な、落ち着けよ」

 そう言われた水屋はキョトンとするが、咄嗟に席に座り頭を抱え出した。

「アカン・・・これ、夢やないやろな」

 紅大門界隈では財布の紐がかなり固いと有名な片桐の言葉をイマイチ信じきれず、水屋は頬をつねる。

「今日何日だっけ?」

「二十九日や。それがどないした」

 片桐は水屋の肩に手を置き「給料日」と告げる。

「そうや!今日は給料日やんけ!だから・・・」

 だから片桐は飲みに誘ってくれたのかと、理解するまでに少々時間を要したが信じることがやっと出来た。片桐の財布の紐が唯一緩む日なのだ。

「今夜はハシゴや!なぁ、兄弟!」

 そうだな、と片桐は顔を綻ばせ水屋のお猪口に酒を注いだ。

 ニ軒目の居酒屋を出たはいいが、水屋は酔い潰れて片桐の肩を借りている。

「お前、どうした。今日はやけに飲んだなぁ。何か嬉しいことでもあったのか?」

 吐瀉こそしないものの、水屋がこんなに酔っ払うのは初めてのことだ。背丈が同じくらいということもあって、水屋を連れて帰るのは片桐にとっては一苦労なことだった。

「きょーだい、今日は、えぇ日やぁ。も一杯・・・」

「まったく。いい気なもんだぜ」

 酒で火照った身体は晩夏の夜風に吹かれ、次第に鎮まっていった。

 ニ人が吉原ビルに着く頃には片桐の酔いは覚め、一方水屋はというと、まるで幸せいっぱいな夢を見ているかのような顔で片桐の肩にもたれている。よっぽど良いことがあったのだろう。片桐はそれを自分のことのように感じていた。

 同じ境遇。水屋も片桐も、身売りされてこの街へ来た。幼い頃から同じ街で同じ教育を受け、互いに佗しい気持ちを解り合いながら同じように育ってきたのだ。だから相手の嬉しい気持ちだって悲しい気持ちだって分け合える。ニ人が兄弟の盃を交わしたのも、そういった解釈あってのことだった。


   ***


「百合、おるか?」

 百合と文子の相部屋に、水屋が訪ねて来た。奥の方から文子がいそいそと出て来て、百合なら中庭ですよ、と答えた。

 初見世が近いことを気遣ってのことだろう、百合に声を一言、掛けたいのだ。

 中庭に行くと、ベンチに座りながら百合が俯いていた。

 やはり気落ちしているのか。だが声を掛けづらい雰囲気は然程無かった。

「百合、何しとるん」

 聞き慣れた声に百合は振り返る。

「水屋さん・・・!」

 水屋は徐ろに百合の隣を陣取ってから、手に提げていた紙袋を百合の目の前に差し出した。

「あ!〈山銀〉!!」

〈山銀〉とは、紅大門に在る老舗の和菓子屋のことだ。

「お前の大好物の苺大福、買うて来たで!」

 お互い顔を綻ばせ、特に百合は大きな黒目をキラキラ輝かせて喜んだ。

 自分が不安に置かれている時、いつも、いつでも、水屋は傍に居てくれた。百合にとってそれがどれ程の安心感を与えてくれていたか、痛いくらい感じているのだった。

「水屋さんて不思議。私が悩んでるといつも貴方が傍に居るの」

 百合は下を向いて言うが、水屋の眉尻も目尻も垂れた。

「私ね、五歳の時に古城組に売られて、今までずっと親を恨んで過ごしてた。けど、もうそんなことどうでもいいの・・・」

 百合はスクッと立ち上がると、水屋の前で何かを言おうとする。

「私……」

「ここに居たのか久路・・・!!」

 百合の言葉を遮るように、血相を変えた片桐が二人に割って入った。

「ちょっと、来い」

 吉原ビルの詰所に連れられて来た水屋は、黒革のソファーに座らされた。

 いつになく尖った空気が神経を逆撫でる。

「よく聞いてくれ。お前、昨日の夜十一時頃、どこで何してた」

「十一時・・・確か事務所で金勘定してた筈やが。それがどないした」

「その時間に、深海さんの兄弟が殺害されたらしい」

 水屋は眉をひそめる。

「そこにお前が愛用しているレアな銃の弾と特注して作ったお前のシャツのボタンが落ちていたらしい」

「何やそれ。ワシ、疑われとんのか」

「今日深海さんから直接電話があった。怒りでなのか声が震えていた。が、俺は信じない。お前がそんなことする理由が見当たらない」

片桐は唇を噛む。

「ワシやないで、兄弟」

「判ってる。真犯人は他にいる。探そう、真相を暴くんだ」

「それは無理や。ワシの処遇ももう決まってるやろし。不本意やがケジメつけなアカン」

 片桐は一息飲むと、下を向き言った。

「降格・・・だそうだ」

「はぁ?それでえぇんか深海さんは。・・・ま、えぇわ。後は頼んだで、兄弟」

「お前はそれでいいのかっ。濡れ衣着せられて、はいそうですかって。のし上がるんじゃなかったのか?この世界で一緒にてっぺん取るんじゃなかったのかよっ」

 水屋は片桐に背を向け、手を振る。夜空を見上げると、季節外れの朧月が嘲笑うかのように鈍い光を放っていた。


 ────つづく。

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