見出し画像

寝台列車で家出した夜


家出をしたことがある。大人になってからのことだ。


18で実家を出てからもう8年もひとりで暮らしているので厳密には「家出」ではなくただの「旅行」なのだが、あのときの心持ちはたしかに「家出」だった。家出がしたかった。

東京も、毎月安くない家賃を払っている部屋もなんだかもう一旦どうでもよくて、誰も私のことを知らない土地に行きたかった。深夜の3時、私は薄暗い部屋で、Instagramで見かけたとある島への経路をスマホで調べていた。

このとき私は会社に行っていなかったので(経緯は前回記事参照:https://note.mu/getsumen/n/ndae83ec26be4)、とにかく時間だけはあった。

その島は瀬戸内海にあり、飛行機でも新幹線でも行けたのだが、私の目に留まったのは「寝台列車」の文字だった。


寝台列車といえば『おもひでぽろぽろ』である。

27歳の会社員タエ子が有給を取って山形の田舎へ行き、小学5年生の頃のことを思い出しながら自分の内面と向き合っていく...というひと夏を描いた、故・高畑勲監督のアニメ映画だ。

劇中にはタエ子が寝台列車で山形へ向かうシーンが出てくる。


20代半ばの会社員である私は、いつのまにか小学生のタエ子よりも大人のタエ子に近い年齢になっていることに慄きつつ、行くなら寝台列車しかない、と思った。休職中の会社員が夜汽車でひとり旅なんて、就活前の大学生が世界一周に行くくらいわかりやすくて、一周回って最高ではないか。やってやるよ、俺の『おもひでぽろぽろ』。



数日後、私は夜の東京駅のホームにいた。

売店で食べたいものを目についただけ買い、いつもより少し高いビールも2本買い、列車が来るのを待った。これから朝までかけて日本のもっとずっと西まで行くのだ。兵糧は多めがいい。

ホームにすべり込んできた列車は「走るカプセルホテル」のようで、二階建ての上段下段に窓があり、それぞれに個室が見えた。値段の安い、仕切りだけの簡易寝台にする手もあったが、せっかくなので少し奮発して個室を取っていた私は乗る前から興奮していた。

私の部屋は上の段で、室内は横たわれるスペースと照明と棚というシンプルなつくりになっていた。ほとんどカプセルホテルなのだが、違うのは壁一面が車窓になっているところだ。この窓からいくつもの景色を見送りながら知らない街を目指すのだと思うとぞくぞくする。いいぞ、家出じみてきた。


個室に荷物を置いたあと、ワクワクしてとうてい眠くなりそうにないので、ひとまずラウンジで一杯やることにした。この列車にはラウンジがあり、車窓に向けて簡単なカウンターのような台と椅子がついている。先客は「大人の休日倶楽部」風の中年夫婦と、同じくひとりの女性で、皆持参した思い思いの駅弁やおつまみとお酒で一杯やり始めていた。自由だ。ドラえもんの道具「畑のレストラン」を思い出した。ダイコンの中に好きな料理が出てくるやつだ。冒険では各々が一番食べたいものを食べるのがいい。

何かにふっ切れたような顔でDEAN & DELUCAのデリをわしわし食べる女の横で、私も買ってきた寿司をわしわし食べた。言葉こそ交わさないが、平日夜の寝台列車にひとりで乗っている者同士の、物言わぬ連帯感が確かにあった。斜め後ろで休日倶楽部夫妻がどこからともなく取り出したミニワインで乾杯していた。

列車が動き出した。

きらびやかな丸の内のビル街を抜け、少しずつ灯りの数が少なくなっていく。毎秒ごとに東京から遠ざかる景色を、2本目のビールで少し酔った頭に焼き付けた。さよなら東京。ひょっとしたらもう戻らないかもしれない。そんな選択肢も、今ならあり得なくはない。ふらっと行った先に、住みついてしまうことだってできる。「旅行」は家に帰るまでが旅行だけれど、「家出」はそうと限らない。

充分「おセンチ」に浸ったところで個室に戻った。ラウンジでは気づかなかったが、個室の電気を消して目が慣れると車窓から夜の街が見える。真っ黒い海や、誰もいない温泉街、畑、田んぼ、また畑、山道にぽつんとある街灯、月明かり。

私は車窓を流れていく夜の世界を眺めながら、真っ暗な部屋でイヤホンで音楽を聴き、ひとりで「ルージュの伝言」を口パクで歌った。『おもひでぽろぽろ』でも『魔女の宅急便』でも、もう何でもよかった。投げやりで、無計画で、感傷的で、この上なく楽しい。私は完全にひとりで、完全に自由だった。


口パクリサイタルに疲れて少し眠り、目が覚めると外は薄い霧で、列車は広い田んぼの中を走っていた。向こうの山から朝日が昇り、ああ、本当に夜通し走って旅してきたのだ、と思った。

田んぼが家々になり、家々が街になる様子を、ラウンジでお茶を飲みながらぼんやり眺めた。全ての景色は延々とつながり、別のどこかにつながっているという当たり前の事実が、世界のとてつもない秘密のように思えた。この世は案外秘密だらけなのかもしれない。


ついに目的地の駅に着いた。まだ西の先へ進む列車を見送って、次に乗るべきバス乗り場を目指す。ここからバスに乗り、船に乗って、あの島へ行くのだ。

まだ「家出」は始まったばかりだったけれど、私はずいぶん勇敢になっていた。おかしな話だけれど、たぶん自分の勇敢さに勇気づけられていた。世界の何処へだって行ける気分だった。東京の家を出たときと同じ靴で、しかし全く違う足取りで、私は知らない駅の改札を出た。島はもうすぐだ。


旅の続きの話はまた後日。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?