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国際結婚した私が思う、語学力より大切なこと

私はアメリカ人の夫と結婚してアメリカに住んでいる。思えば太平洋を渡り、遠いところまで来たものだ。

国際結婚や外国人との恋愛にもともと憧れがあったかというと、答えは否で、むしろ否定的だった。言葉や文化、育ってきた環境という人間関係を構築する上での土台になる部分は、できるだけ似通っている方が良い、というのが持論だった。

どうしてそう思ったかというと、20歳の頃にさかのぼる。当時、私には韓国人のボーイフレンドがいた。私も彼も中国の大学に留学していて、大学のキャンパスで知り合った。半年ほど近くで過ごしたものの、その後彼は韓国へ、私は日本へ帰り、日本海を隔てて遠距離恋愛をすることになった。

私たちの会話は主に中国語だったが、どちらにとっても母国語ではないので、思いを伝えるにはもどかしく感じることが多々あった。お互いに相手の発言を正しく理解できているのか心配になることもあった。近くにいて顔を見ているうちは、言葉以外の要素から理解できることがたくさんあるが、顔が見えなくなると、急に言葉でやりとりすることの重要性が増したことを実感した。

彼と付き合う中で私が不満だったのは、いつも彼が年上の友人から何かを頼まれたり、誘われたりすると、私との時間を削ってそれに応えようとすることだった。二人だけでいるときは穏やかに過ごせるのに、年上がからむと途端に雲行きが怪しくなる。遠距離になり、例えば彼が私に電話をかけてくる時間を約束していても、友達の誘いが入ったとやらで、後回しにされることが少なくなかった。一度や二度なら、それも後でちゃんとした説明がなされるなら許せただろうが、何度も続き、悪びれた風もなかった。

別に毎日電話してほしいなんて言っていない。自分から宣言しておいて、それを果たさない彼の行動が気に入らなかった。最初から約束などなければ、電話がなくたって心乱されずにいられるのに。

この時点で、もう明るい未来が見えないことは、今考えればわかるのだが、当時はそれがわからなかった。まだ若くて経験不足だったということもある。だがそれ以上に、初めて外国人と付き合って、国籍や文化の違いを乗り越えて相手を理解しようという点で、私はとても頑張っていたように思う。約束を破られるたびに、私は、本当は彼はこう言いたかったのに、私が彼の真意を誤解したのではないか、とか、韓国社会では、友達関係であっても、年齢による上下関係が日本より厳格な形で存在しているから、約束を守らないことがあっても、彼自身の問題というより、韓国社会においては仕方がないことなのかもしれない、とあれこれ想像を巡らせ、彼自身に悪意はなかったのだと自分に言い聞かせ、悲しみやイライラを呑み込んでいた。

結局、その彼とは遠距離を始めてから数カ月でお別れをした。学んだことはシンプルで、その国の文化がどうであろうと、その人に悪意や落ち度があろうがなかろうが、約束が守れない人は信用できない。イヤなものはイヤだということ。そしてもう一つは、人間関係を深めていく過程で、言葉が決定的に重要だということ。付き合い始めなんて、関係の大枠を捉えていく時期だから、極端に言えば言葉なんてなくてもよいのだ。でも関係が深まるにつれて、感情を細かく言語化して伝える作業が必要になる。というより、その作業なくてして関係は深まらない。

日本人同士なら、言動の背後にある事情を理解しやすいし、お互い母国語である日本語で話せる。外国人と付き合うよりもよっぽどアドバンテージがあるじゃないか、というわけである。

そう考えていた私だが、結果として国際結婚して、英語で会話する生活を送っている。夫の人柄に惹かれたことを除き、なぜ国際結婚に踏み切ることに躊躇がなかったのか。

一つは、ちょうど良い時期に出会ったのが夫だったということ。「結婚はタイミング」というけれど、まさにそのとおり。

もう一つは、言葉が重要だといっても、語学力以上に大切なことがあると気付いたから。もちろん語学力が高い方がより丁寧に思いを伝えることができるだろうから、語学力は高ければ高いほど良いと思う。だが、そもそも言葉で気持ちを伝えようとしない人だったら?そこに母国語や語学力のへったくれもない。

夫とは日本で知り合った。二人の会話は英語が主で、時々日本語。夫は当初から、私を理解し、そのために日本の文化や習慣を理解しようという姿勢が見て取れた。例えば、「日本人が付き合うときのプロセスを教えてクダサイ」というのは、今思い出してもかわいい質問だった(笑)。デートをするようになった頃、待ち合わせの度にハグをするのが気恥ずかしかったのだが、その様子を感じ取った彼が、私がどう感じているのかを尋ねてきた。ほとんどはこんな些細なことである。自分の気持ちや私の気持ちを丁寧に拾い上げて、言葉にして伝える作業をいとも自然にできる人だと思った。こうしたやりとりを通じて、お互いへの理解を深め、常に自分と向き合ってくれるという信頼を醸成してきたように思う。

かゆいところにまで手が届く高い語学力よりも、ちょっとした違和感や疑問を放置せずに、言葉にして相手に伝えようとする姿勢の方がよっぽど大事。なぜなら、それこそが二人の関係を大切に維持し、深めていく術だと思うから。二人の関係に生じた小さなズレやキズを一つ一つ点検し、修復し、更に以前よりも関係を強化する共同作業である。

アメリカに来て5年以上も経つが、この手の会話をする際の英語力はまだまだだなといつも思う。意思疎通をうまくやるために、語学力の向上はこれはこれで必要なこと。たまーに喧嘩したときに、言いたいことの半分も言えず、もどかしいこともある。正直、外国語で喧嘩するなんて面倒くさくて、もういいや、と投げ出してしまいたくなる。だが、ここは投げ出してはいけない。国際結婚たるもの、言語の壁に遮られるようでは先は続かない。と私は思っている。

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