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私たちはだれに向けて言葉を紡いでいるの?

自粛生活が長引いて、大学は9月までオンラインで授業をやることが決定した。就活とタイミングが重なったこともあり、バイトもしていない。オフラインで人と会う機会が本当にないから、人と交わる唯一の手段がTwitterと言っても過言じゃない。でも、疲れた。ずっとみんなうっすらと、あるいは猛烈に何かに対して怒っている。

中学1年生の時にTwitterを始めて、もう10年目になる。大学受験の前は中断していたこともあったけど、ほぼずっと何かしらのアカウントを持っていた。昔の私は今よりもっと無知で、だんだんネットリテラシーを身につけてきたんだと思う。もちろん今が完璧なわけではないけども。「昔は良かったのにな〜」みたいな話はしたくない、けど昔はこんなにおそるおそるインターネットと向き合っていたっけ?とも思う。Twitter自体が変わったのかもしれないし、私自身が変わったのかもしれない。多分昔はそんなに期待していなかった。もっとどうでもいい、別に聞かれても聞かれなくてもいいようなことばっかりツイートしてた。Twitterで声をあげてもそれが現実世界を変えるって思ってなかったから、ネット民同士の争いはあっても、特定の誰かを猛烈に批判したり世界をより良くするために意見を表明しよう、みたいな気持ちが今よりもなかった気がする。もちろん私の見える範囲の世界の話しかしてないから、昔から怒っている人はたくさんいたのかもしれないけど。

女子プロレスの木村花さんが亡くなったというニュースが流れてきた。テラハに出演して、誹謗中傷を浴びせられていたらしい。私は正直テラハを一度も見たことがないし、この人のことも全く知らなかったから誹謗中傷をしていた人をここで咎めるようなことはしない。でも「メディアに出る以上ある程度誹謗中傷されることは仕方ない、覚悟するべき」みたいなコメントがたくさんあることが引っかかった。

この主張はある程度正しい。でもお前が言う?って話なんだと思う。同じ矢面に立たされがちな人たちがアドバイスとして言うのであれば納得感のある主張だけど、そうでない、むしろ攻撃する側の主張だと「芸能人は矢面に立っているから攻撃していいですよね?」に置き換えられてしまう。だから結局「何を言うか」じゃなくて「だれが言うか」なんだと思う。

同じようなことをナインティナインの岡村のラジオでの発言の時も思った。ここでもあの発言の是非は置いておくんだけど、個人的な感情としては「深夜ラジオにまで踏み込んでこないでよ!」というものが一番にあった。半年前くらいから深夜ラジオをきくことにハマっていて、それは他のメディアよりも言いたいことを言える雰囲気が心地よかったから。リスナーなら怒っていいよ、でも聞いてもないくせにネットニュースだけを見て勝手に怒らないでよ!って。私自身女性だから、批判している人の考えはある程度理解できるし筋も通っていると思う。だから容易に反論もできなくて、でも好きなものを批判される悲しさを蔑ろにしてほしくなかった。

Twitterって影響力を持たなかった人がいくらでも発信力を身につけることができるツールだから、そういう人たちの主張を見るとき「だれが言ったか」の視点が欠けてしまいがちだと思う。じゃあ名前を持たない私たちが主張をしてはいけないの?といえばそういうことでもないと思う。結局何が言いたいの?と言われると難しいけど、ありきたりなことを言えば想像力が大事だなって思う。批判する時、物事の一面しか見てなくない?その批判で傷つく人がいない?でも考えすぎると何も言えなくなってしまうから、やっぱり昔みたいにどうでもいいことだけをつぶやいていたいなぁ。


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