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#3 創作できなかったことについて


自分にとって、創作することが一体なんだろうか。

幼い頃から絵やグラフィックが好きで、特に何も考えずに美しい線を描くのが一番の喜びだった。 中学時代の6年間は、未熟でありながらも自分でも好きな絵がたくさん描けた。


Sketch 2017.09.23

しかし、18歳になったとき、私は急に絵を描けなくなった。

紙にペンを走らせようとすると、考えなければいけないことに頭が先に疲れ切って、どうしても進められなかった。テーマ性、構図、対比、ジェスチャー......絵画に関する知識とテクニックが増えれば増えるほど自分の絵がどうしようもなく醜く見えて、練習することでさえ怖かった。 その結果、絵を描くことが苦痛になってしまった。

このことに本当に気づいたのは2022年になってからである。 ここ3年間、サークルや仕事のために絵を描いていたものの、その作業はかなり苦痛で、クリエイティブというより「仕事を終わらせる」という意識だった。 創造できないことが、さらに苦しみと絶望を与えてしまった。「創造できないのなら、私はなんのために生きているのだろう」と実存的な危機を感じた。

自己探求のはじまり

なぜ、今年になってやっと気づいたのかと問われれば、自分でもうまく説明できる気がしない。 全般性不安障害と診断されていたことが一番の衝撃であるものの、2022年の画像生成AIの指数関数的な発展との関連性も強いことは否定できないだろう。

Midjourney,Stable Diffusion,novel ai…….今では誰もが知っているこれらのアプリケーションも、半年前にはほとんど知られていなかった。 プロの画家でもなく、絵に対するこだわりも特にない私でも、「誰もが筆を持たずに創作できる」という事実に、心の中で疑問と不安の波が蠢いていた。

ここで、著作権の問題を論じたいわけではないし、描く行為の代わりに言葉(Promt)を使うことが絵画創作にカテゴライズされるのか、絵画の方法の違いから生まれる作品の市場価値について論じたいわけでもなかった。 どうしたらペンを取り戻し、再び創作への情熱を感じられるのか、自問自答し続けるのみだった。

いま、ここで、直感に立ち戻る

画像生成AIのブームの只中、重軽さんの新しくリリースしたポッドキャストをきっかけで、クリエイティブとは何かを真剣に考え始めました。テレビCMの歴史から50年経ち、「ゴミ」と言われた商業音楽の裏に、普通の人々の葛藤もあり、人生もあり、魂もあった。 私は、人間という、道具や技術などがなくても輝ける存在と、その裸に晒される創造性を再び信じ始めた。

2022年8月、21歳になった今、私が再び筆を取って絵描きを試みた。絵を描く過程では、創作を分析的な視点で捉えることから離れ、目を閉じて、次にどこに筆を置こうとしているのか、右手の動きに耳を傾けていた。 今、ここで、自分の直感に完全に身を委ねた。その試みから生み出された作品がこの絵である。

無題 2022.08.16

魂の共鳴

その後、1カ月のモロッコひとり旅で、ドイツから来たLaraという女の子に出会うという小さな出来事もあった。 私たちの性格はほとんど正反対で(私は外向的、彼女は内向的)、文化的背景も家庭環境も人生経験も全く異っている。 しかし、話を深めていくうちに、不安症状と創作においてボトルネックに引っかかっているところが極めて似ていることがわかった。 私は何年も絵を描くことができず、彼女は何年も文章を書くことができなかった。二人とも、脳裏のカオスな意識と思考をコントロールできず、かつて最も好きだったものを作れないことに、実存の危機を感じていたのだ。

真昼の裏庭、ぶどう棚の下で、少し日差しが差し込み、テーブルに波紋が広がっている。 私たちは語り合って、手を握り合い、耳を傾けてくれたことに、正直に話してくれたことに、かつて信じられないほど孤独だと思っていた世界が、こうして私たちを出迎えてくれたことに、感謝の気持ちをささげた。

まだきちんとキャンバスと向き合えないが、孤独感や無力感から解放されるようになった。

自己認識をもっと掘り下げる

ヨガに出会って半年、創作することに対する考え方が大きく変わった。
ヨガ哲学の八束則第一段階、Yama(ヤマ)のひとつに「アパリグラハ(持たず、手放す)」があり、その哲学は、物質的な執着を手放すだけでなく、自分の内なる実存以外のすべてを手放すことを勧めている。

結果を期待せずに創作せよ

アパリグラハが与えてくれた最初の洞察は、どうすれば情熱を取り戻せるかを考え、あるいは無理に絵を描こうとするべきではない。こだわりと結果に対する期待を捨て、過去を忘れ、今この瞬間の自分の考えや感情に身を委ねるべきだということだった。

具体的には、「創作すること」に価値づけることは、実は自分を縛り、脳から自らにプレッシャーをかけることだと感じた。

『ソウルフル・ワールド』で、芸術的成就を遂げる夢を実現した主人公が、夢がやっと叶えたのに、喜びは普段の練習から感じたものと大して変わらないことに気づいた。木の枝の葉の間から落ちる陽光が命を吹き込むように、当たり前だと思っていた日々の音楽と一緒にいる時間こそが最も大切にされるべきだということを悟った。

また、瞑想を練習している中、制作するときの「創作しなきゃ」という強制的な思考が、ここで似たような形で心の内的な旅を続ける障害となったことに気づいた。内的な不信と疑念に直面したとき、脳は「戦う」ーつまり意志の強さで行動を強制的に修正させるという、効果的だがエネルギーを大量に消耗するーか、「避ける」ー無関係なことに没頭することで現実逃避するーのどちらかを選択するのだ。

瞑想する際、自分の心の動きを批判と分析することなく、ただただ観察していたことから、自分の圧倒的な意志の強さが、体のエネルギーを枯渇させ、「創造的ボトルネック」と呼ぶものに変化していることに気づいた。

過去を手放し、現在のために創造せよ

Aparigrahaは、手放すという意味もある。 その中には、懐かしい思い出や夢のような時間など、過ぎたことすべてが含まれている。
これを受け入れることが難しかった。

小学校ではアクリル画や図工、中学校ではDTP、映像のデザイン、大学では建築を専攻するなど、子どもの頃から芸術表現が好きだと自認していた。 しかし、近年、創作のボトルネックに陥り、若い頃の無謀な情熱やひたむきさと現在の冷めた心とのギャップに、自分の存在意義を揺さぶられるばかりか、どうしたら中学時代の光景を再現できるのか、古き良き時代を懐かしむことが多くなった。 どうすれば、あの頃の情熱を取り戻せるのか。

同時に、サンクコストを惜しむこともあった。 今、創作をやめてしまったら、東大の建築学科に入るために費やした長年の決断、金銭、時間がすべて水の泡になってしまうのではないか。過去は、まるで岩のように重くのしかかり、前に進むことを余儀なくされていた。

しかし、今の私は、一体何をしたいのか?

「性格診断と進路選択~仕事がうまくいくとはどういうことか~」というポッドキャストを聞き、私たちが何か「得意」か「好き」と思っていることは、幼少期から家庭や社会環境の中で触れてきたことから影響を受け、色々な転換点で異なる選択をしているだけだが、私たちは自分の中に無限の可能性を持っていることに気づかされた。 自分が「得意」だと思うことに方向性を見出すのではなく、具体的な経験と自信の感覚に従うことが大切だと思うようになった。

この話は、私を深い記憶へとつなげてくれた。小学校から高校まで、「芸術的な表現が得意だから、創作したい」という気持ちは全くなかった。 むしろ逆で、ずっと自己肯定感が低く、自分の作品が嫌で雑に扱っていたこともあったくらいだった。 しかし、創作を続けさせてくれたのモチベーションは、キャラへの愛情と、頭の中にあるイメージに命を吹き込むことだった。なぜ、それを忘れたのだとうか......

過去の楽しい思い出にしがみついている私は、経験と感情の重要性を疎かにしていた。しかし、 料理、執筆、ビデオ撮影したい気持ちは、当時描きしたかった気持ちと同様に、今の社会環境から必然的に影響を受けている。 それはどれも同じ大切なはずだ。

だから、私は自分の行動に対する批判をやめ、自身に貼ったレッテルをはがすことにした。

やっと、少し自由に近づける気がした。

Sunshine

2022.12.11.

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