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いじめと自覚

初めまして。
今回はシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)の『老い』にから考えるいじめと自覚について話していきたいと思います。

今回英語版で読んだので100%理解できたかはわかりませんが印象に残っている部分から話していきたいと思います。

NHKから100分de名著として出版されているので、興味がある方は読んでみてください。

私はこの本が好きです!
フランスの哲学家は2割しかわからないように書くのですが彼女は少し違うのかなと感じました。

彼女は自分が歳をとっていっていることを自覚していませんでしたが、生徒におばさんと言われたことにより、鏡に映し出される自分がおばさんのように見えるようになり、自分が歳をとったということを自覚しました。

これは私の実体験に似ている部分がありました。
私は中学生時代にいじめられていたみたいです。というのも、中学生時代は全く気づきませんでした。クラス会、部活の集まりにも呼ばれたことはなかったです。お昼休憩も本を読んでいたので、人と話すことがなかったです。クラスのこともクラスの人と話すより先生に聞いたほうが早いので、先生に聞いていました。

しかし、その時は自分がハブられていること、そして無視されていることに気づきませんでした。
高校生に上がり、仲良くなった友人に中学時代のこと話すと、「大変だったね」などと言われました。
その時に私は、世間一般的に自分は「いじめられていた」ことを自覚しました。

その瞬間、何も気にしていなかった中学時代がひどく苦痛に感じ、かわいそうな自分が自分の中に生まれました。

自覚した瞬間にいじめられっ子の自分が完成しました。

よく知らぬが仏と言いますが、自覚しないが仏だったのかも知れません。

いじめられている認識は人それぞれと言いますが、いじめられているという基準がなんとなく認識されているのも事実です。

いじめられている人が自覚しない限り、いじめている人は一生自覚しないかもしれません。

みなさんは自覚しないが仏ですか、それとも自覚させたほうが良いとおもいますか?

※高校時代の友人とは今も仲良しです。



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