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ラーメン

あなたはラーメンのスープを最後まで飲むだろうか?

塩分、油分過多。従って不健康であると言わざるを得ないという面に目をつぶり、舌上の快楽を求めてその滴を堪能しているだろうか?

少し意地悪な書き方をしてしまった。

私自身は不健康さを理由にスープを飲み干さない人間であるため、このような表現になってしまった。

しかしながら、自分でお金を払い、自己責任で飲み干している以上、他人がとやかく言う余地は本来無いと考えている。

この文章もそのことを批判するために書いているわけではない。

私がここで批判したいことは、スープを飲み干さないことに対して”もったいない”であるとか、”食べ物に対して失礼だ”といった批判が展開されることである。

上記したような意見は、その前提として、人間は自然界の命を奪うことによって生かされている。それを好き嫌いや、ちょっとした健康志向の気まぐれでないがしろにしてはいけない。という考え方を含んでいるのだと思う。

しかし、その前提は正しいのだろうか?

ラーメンのスープに浮かんでいる油を想像してほしい。

つやつやと光ってある種の人々の食欲を駆り立てるこの油だが、その原料は一体何なのだろうか?

至上の味を追求し、食材のすべてをこだわり抜いたような高級ラーメンではそれなりに品質の良い油を使っていることもあるだろう。

ただし、それ以外ではどうか?

例えば、インスタントラーメンで最もよく使われているのはパーム油という種類の油である。

これはアブラヤシという木の果実から採れる。

このアブラヤシという植物は、そのプランテーションが国際的な問題と認識されている植物だ。

すなわち、もともとその土地に生えていた植物を全て排除し、そこにアブラヤシだけの広大な畑を作って生産されているのが、パーム油なのである。

ここで、先に上げた”もったいない”という批判に改めて目を向けたい。

せっかくの”自然の恵み”がもったいないと思うからこそインスタントラーメンのスープを飲み干しているわけであるが、そのスープに浮かぶパーム油はプランテーションの落し子である。

さらに言えば、その消費はさらなるパーム油の需要を生み出し、今あるプランテーションの定着、あるいは拡大につながる。

つまり、”自然の恵み”だと思っていたものは、その実、本物の自然の恵みをそこなった上に成り立つ、ある種工業生産的とも呼べるほど非常に人工的な営みの下、生み出されたものなのである。

インスタントラーメンは極端な一例かもしれない。

しかしながら、私達が日々食べている食材は、どこまでが本来的な意味で”自然の恵み”と言える代物なのだろうか?

狩猟採集民族の時代は、野山を駆ける野生動物を狩り、自生する野草や木の実を採って生活していた。

この時代は文字通り自然の恵みを享受していたのだろう。

しかし、農耕を始め、家畜を飼い始めた人間は、もはやそれと同じ意味で自然に生かされているわけではなくなった。

今日もこうして生かされているという事実の裏には、自然的、人工的どちらも含めた営みがあるということは間違いないだろう。

だから、生きているという事実をありがたいと思い、その幸運を享受しようとする姿勢はきっといつの時代も素晴らしい。

しかしながら、こと食べ物において、その生産過程に思いを馳せることなく、ただ、「食べ物である=自然の恵みだ=もったいないので食べ尽くさねばならない」という方程式に簡単に身を任せることに対しては、熟考の余地がある。

何を食べているのか。何を食べさせられているのか。それを考えたうえで、その「食べ物」をありがたがるかどうかを決めるべきではないだろうか?

最後までお読みいただき、ありがとうございました!