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ボーリングピン

あなたは今まで何本のボーリングピンを倒してきただろうか。

彼らは、人間によって力いっぱいに投げられた、自身の体積の何倍もあるような硬い玉によって打ち倒されることを目的として作られている。

それ以外の存在理由は皆無だ。

現に、ボーリング場以外の場所で彼らを目にしたことは無いし、何か日常の中で使うために一つ欲しいなどと思ったことも無い。そもそも、買おうとして簡単に手に入るものなのかということすら把握していない。

あくまでも、打ち倒されるということが彼らの存在意義であり、そういったものとしてだけ、我々は彼らを認識している。

ともすると身近な存在にも感じるボーリングピンだが、彼らとの関わり方はほとんど他に例を見ないほど非常に特殊なのである。

しかし、それもボーリングの歴史を考えると納得がいく。Wikipediaによれば、ボーリングは紀元前5000年頃のエジプトでもすでに行われていた宗教的儀式が発端とされているらしい。

ピンは災いや悪魔を表しており、それを打ち倒すことによって厄除けを願っていたそうだ。

普段意識的に行っている宗教的行為といえば、神社やお寺にお参りに行くことくらいであろう私を含む現代日本人にとって、ボーリングピンとの関係性が特殊にならざるを得ないのは無理もないわけだ。

対戦相手を必ずしも必要とせず、ただ何本倒せるかを追求していくスポーツというのは、考えてみれば、確かに儀式的にも見える。

さらに言えば、ストレス発散のためにボーリングに行くということがある。会社終わりに一人で行ったボーリング場で厄災とも言える憎い上司の顔を思い出しながら放り投げたボールでピンを打倒したのならば、それは、古代エジプトで人々が行っていた厄除けとほとんど同じことをしていると言えるのかもしれない。

誰がためにピンは倒れる。

打ち倒されることによって、人々の厄災との関わり方を下支えし、事態を(ボールのように)丸く収めてきたのが、ボーリングピンなのかもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!