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本は熱いうちに読め。

先日、久しぶりに本屋さんで新品の本を買った。このところはもっぱらECサイトか古本屋で買うばかりになっていたため、それはとても新鮮な体験だった。

友人と訪れたその大型書店。ビル一棟が丸々本屋だ。別の友人と落ち合う約束をしていたが、その時刻まで余裕があったため、本でも買って、併設されているカフェで読みながら時間を潰そうという計画である。

ブラブラとあてもなく歩いているようでも、自然と体は興味のあるジャンルの棚へと引っ張られる。その日の気分は社会学だったようで、理系のメガネ男が二人、閑散とした通路に佇んで難しい顔をしながらブツブツと話をする運びとなった。

一言に社会学と言っても多様な視点があるものである。資本主義がどうのといった世界全体がその範疇になるようなものから、ある特定の地域における人々の暮らしぶりにフォーカスしたものまで、様々だ。

背表紙に並ぶ文字を眺めていると、ふと、まるで自分の人間としてのキャパシティーが試されているように感じた。「お前はどこまで考えて生きていくことができるんだ?」

そんなキーワードの羅列から食指が動くものを見つけると、そのたびにどちらからともなくぽつりぽつりと言葉をつなぐ。さて、そろそろどれを買うか決めようかと言う頃には、すでに私の心は決まっていた。

それはコミュニティーの果たす役割について書かれた本だった。社会人として見知らぬ土地で一人暮らしを始めた私は、コロナ禍という社会情勢もあいまって、一人で過ごす時間が多くなっていた。それ自体は嫌なことではないのだが、なにか、どこか、このままではいけないのではないかという漠然とした不安があった。

この本のタイトルはその不安を顕在化させ、そこから逃れる筋道を示してくれているように感じた。迷わず手に取り、友人が選ぶのを待ってからレジへと向かった。

カフェの座席は8割ほど埋まっていたが、読書をするには十分な静けさがあった。

買った本を、その瞬間に読む。決して安いものではなかったが、その分、それを購入したという満足感と、ずっしりと重いハードカバーの質感と、まっさらな紙とそこに落とされたインクのコントラストが、古本を買ったときには得られないある種の高揚感をもたらしていた。

今さっき、「これだ!」と思って手にとっただけに、書かれたことがスルスルと頭に入ってくる。「そうそう、これを知りたかったんだ。」という納得感と、その先にもまだまだページが続いているという興奮が一行一行読み進めるごとに脳内に噴出される。

ほんの十数分前までは知りもしなかったものに、こんなにも心を動かされている。こんな経験は他にはあまり無いことである。大抵の場合、興味あることがらに関しては、実際にそれに触れる前にある程度の前情報を得てしまっているものだ。

電子書籍なども一般的になりつつある今日、読書のあり方も一つでは無い。もともと興味のあったキーワードを打ち込んで、出てきた古本をネットで買い、数日後に読むということと、さっきまで思いつきもしなかったキーワードに吸い寄せられて買った新しい本をその瞬間に開くこととの間には、大きな差があるように感じた。そこには、書店まで足を運び、値引きされていない金額を支払うだけの意味を見いだせるように感じた。


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