バカの「見える化」
IoTのいいところは、いろいろなセンサーで今まで気にも留めなかった物事を見えるようになった点だ。データになり文字になり、見えるようになる。
ご存知SNSでバカの「見える化」も順調に悲しくも進んでいる。最初はこんな極論言うなんてまだ高校生ぐらいなんだろうなーアカウントじゃ年齢わかんないからねーぐらいだったと思う。でもだんだんと明らかにこいつオッサンのくせにクソみたいな言葉を吐き出してやがるッッ!コイツァくせー!ゲロ以下の(以下略)となっていき、色々な人がTwitterは健康に悪いと言って、俺みたいにnoteにうつったりしている。
でもみんなやめられない。凄いんすよSNSは。面白い人に出会えるのも確かだしね。
つい先日「日本人に〇〇差別はなかった」という極論への反論を目にした。それについて思うのは、反論したってこの極論者は納得も反省もしないということだ。そもそも差別は無くならない。俺も含めて誰だってするし、無自覚だ。意識的にヘイトする奴は差別がただの手段でしかなく目的はつまらない「アイデンティティの承認」だと思う。
自分のバカが見えた
日を重ね文章を書くごとに自分はなんてバカなんだと気づく。例えばさっきある本の感想を読んでこいつ何にも考えてないなと思ってたら自分の4月の文章だった。かなしい。
たぶんいまここの駐車場の見える範囲の人間の半分以上はTwitterのアカウントを持っているはず。ほとんどみんなだ。その人の無意識で無責任な言葉が可視化されるんだもん。知性がさらされている。バカの自覚は避けたいのが本音。でも無理だー。いまの俺はどう頑張っても宇野常寛さんに肩を並べられないー。なぜなら俺はー(以下略)
なんでそうまでしてタイムラインを見るんだろう
いまのところ俺は「承認欲求」て言葉にすべて収束されると思っている。ポジションで語りポジションがアイデンティティだ。だから【日本人は韓国人よりエライ→日本人のボクは生きてていい】みたいな理論がその人には成り立つしプロフィールに日本国旗付けていたりする。そしていくら論破されてもポジションを変えない。アイデンティティだからだ。例えばね。
※承認ってのは自己実現とイコールだろうか?仮にほぼイコールとして以下の文章を書く
仕事で自己実現 →失敗
資産で自己実現 →失敗
家庭で自己実現 →失敗
友達で自己実現 →友達いない
風俗で自己実現 →むなしい
途中新興宗教に拾われたり。拾われなかったらアカウントを作って「この国を愛する日本人です」とつぶやいてみたり猫の画像を使ったりする。
みたいな人がいるんだと思う。俺はひとり知っている。じゃあさ、SNSで自己実現はもうやめなよ。そもそも自己実現できると信じることの方が幻想だ。無理。受け入れろ。何年かかってもいいけど受け入れろ。つらいけど受け入れろ。そして自分から「持ってる」と見える奴に嫉妬すんな。バカを認めろ。
そんなことする暇があったら奥さんに全力で尽くせ。荷物持って皿洗って布団敷いて話を聴け。お前が自分の話しかしないとお前以外の全員が知ってるぞ。
あ!具体的に嫌いな人をイメージすると口調が強くなってしまった!笑
そのままでいい
アイデンティティの承認ってのは詰まるところ「そのままでいい」と言ってもらいたいんじゃないだろうか。俺は奥さんにそう言ってもらって救われた。だから俺も奥さんにそのままでいいと言っている。でも自分の醜さが、自分が、嫌なんだろう。それは紛れもなく世界の真実。現代の自分のバカの「見える化」だ。
3000年も前に老子がすでに言っている。あるがままに。
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