背後に気配を感じて振り向くと…恐怖が渦巻く戦慄のホラーミステリ! #4 寄生リピート
中学二年生の白石颯太は、スナックを営む母と二人暮らし。嫌な目にあった時、いつも右手が疼いていた。ある晩、なじみの客を家に連れ込む母を目撃して、強烈な嫉妬を覚える。数日後、その客が溺死体で見つかった。さらに、死んだと聞かされていた父の生存が発覚するが、実父は颯太を化け物でも見るように拒絶して……。いま注目の新鋭ホラー作家、清水カルマさんの二作目となる『寄生リピート』。恐怖の幕が開ける冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
「ママ、お勘定」
「おっ、今夜はもう退散かい?」
園部が立ち上がると、悠紀子よりも早く大久保が反応した。自分の失態から話題を逸らそうと必死なのだ。
「園部さん、もう帰っちゃうの?」
悠紀子が名残惜しそうに、酔いに潤んだ瞳を向けてくる。
「まあね。明日、早いんでね」
園部は壁に背中を押しつけるようにして大久保の後ろを擦り抜けた。大久保は相撲取り並みの巨体だ。カウンター席しかない狭い店なので、後ろを通り抜けるだけで一苦労だった。
「俺は昼からだ。なんなら休みにしたっていい。自営業は気楽なもんだよ」
歌でも歌うみたいに大久保が言った。ピアスのプレゼントを馬鹿にされた仕返しのつもりらしい。
大久保は近所の商店街で布団屋を経営しているが、布団などそうそう売れるものではない。おまけに徒歩二十分ぐらいのところに寝具も取り扱う大型スーパーができたために、よけいに客が減り、最近では開店休業の毎日だ。
もっとも、親がアパートをいくつか持っていて、家賃収入だけで充分に暮らしていけるらしい。ろくに働かずに食って飲んで寝て、と繰り返しているからこんなに体重が増えてしまったのだろう。
商店街が近いために、大久保の他にも悠紀子の店の客には商店会の人間が多い。というより、商店会のたまり場になっていると言ってもいいぐらいだ。そんな中で、ぶらりと飛び込みで店に入ってきた園部は異端だった。
おまけに悠紀子との関係を薄々感づいているらしく、園部のことを快く思っていない者も多い。深夜に客たちの酔いがピークに達すると、ときどき露骨に園部に絡んでくるやつもいるぐらいだ。
尻ポケットから財布を取り出し、金を悠紀子に渡しながら横目でうかがうと、もともとそんなに酒に強くない大久保は首まで真っ赤になり、だらしなく表情を緩めている。
園部が帰れば、店にはママである悠紀子と大久保だけになる。美人ママを独占できることがうれしくて仕方ないのだろう。
もっとも、大久保みたいに間の抜けた男が悠紀子と深い関係になることはあり得ない。「もう帰っちゃうの?」とさっきカウンターの中で言った悠紀子の残念そうな顔を見れば、そのことは明らかだ。この女は俺に夢中なのだ。
ふん。醜く太った豚のくせに、悠紀子に好意を寄せるなんて生意気なんだよ。園部は誇らしい思いに、つい顔がにやついてしまうのを感じた。
「あぶないッ」
悠紀子が小さく悲鳴を上げた。出口に向かおうとして足が滑り、園部はとっさに壁に手をついていた。
「どうした? 酔っちまったか?」
大久保が面白そうに言う。園部は無視した。床が濡れている。さっき大久保が店に入ってきたときに、濡れた犬のように辺りに雨水を撒き散らしたのだ。
園部が店に来たときはまだ豪雨というほどではなかったが、夕方に見たニュースの天気予報によると、その時点で台風は近畿地方に上陸していて、そのまま日本列島を縦断しそうだということだった。
天然パーマの気象予報士が、東京を通過するのは夜半過ぎだと言っていたから、ちょうど今ごろは、外は相当強い雨が降っているのだろう。
店内には有線の音楽がかかっていたからわからなかったが、戸口まで来ると扉の向こうで風が荒々しく唸っているのが聞こえた。
「うちに泊まっていけばいいのに」
カウンターをくぐって出てきた悠紀子が、大久保には聞こえないように耳元で囁いた。悠紀子の部屋は、このマンションの七階にある。最近では飲みに来た夜はたいてい閉店までいて、悠紀子の部屋に泊まるというパターンだ。
本当だったら、今夜もそうするつもりだった。台風は夜のうちに東京を通過し、朝になれば台風一過の快晴になっていることだろう。まさかこんな悪天候の日に他の客が来るとは思ってもいなかったので、早々に店じまいさせて階上の部屋にしけ込めばいいと思っていた。それなのに……。
おまえなんか、家でトドのような女房相手に焼酎でも飲んでればいいんだ。園部は恨みがましい目で、カウンターに向かってバーボンのオン・ザ・ロックを舐めている大久保の背中を見つめた。
すでに別の店でさんざん飲んできたのだろう、大久保はもう泥酔状態だ。それでも園部の視線を感じないわけはない。悠紀子と園部の関係を知りながら、わざと邪魔してよろこんでいるのだ。
腹立ちの思いを込めて睨みつけていると、その視界を遮るように身体を移動させて、悠紀子が園部の手の中に素早く一万円札を握らせた。さっき園部がカウンター越しに渡した金額よりもずっと多い。
悠紀子は淫靡な笑みを浮かべてウインクをしてみせた。大久保に気づかれないうちに、早くしまえという合図だ。
園部は素知らぬ顔をして、金をポケットにねじ込んだ。
「なんだったら、先に部屋に行っといてくれてもいいのよ」
また小声で囁く。大久保が聞き耳を立てているが、会話の内容までは聞き取れないだろう。数週間前に合い鍵をもらっていた。しなだれかかるようにして、園部の分厚い胸にそっと手を置く悠紀子の濃厚な色香に後ろ髪を引かれる。
「やっぱり今日はやめとくよ。本当に明日は朝が早いんだ。だから今夜はぐっすり眠っておきたくてさ」
それは嘘ではない。だが、それだけが理由ではなかった。園部の心には引っかかっていることがあった。
「そう。じゃあ、また電話してね。外はすごい風だから気をつけて」
悠紀子が媚びを含んだ笑みを浮かべた。いい女だ。歳は三十七歳と、園部より七つも上だが、美人は実際の年齢よりもずっと若く見えるものだ。この女だったら、一緒に連れて歩いても恥ずかしくはない。
園部は悠紀子の手をそっと握った。悠紀子もすかさず握り返してくる。
最近、悠紀子は暗に将来のことを匂わすようになっていた。もっとも、そこまで深入りするつもりはない。相手は子持ちだ。もともと単なる火遊びのつもりだったのだ。
それにあの子供が問題だ。中学二年になるという颯太の存在が、どうにも鬱陶しかった。そういう年頃なのか、妙に思い詰めた雰囲気があり、園部を心の底から嫌っているのをひしひしと感じる。
まだ親離れができていないのだろうが、憎しみのこもった目で見られるのはやはりいい気はしない。
だが、この女にはまだ当分は楽しませてもらうつもりだ。シングルマザーだし、店は特に繁盛しているふうでもないのに、なぜだかかなりの貯金があるようなので、残らず巻き上げてやろうと思っていた。
「じゃ、おやすみ」
悠紀子から傘を受け取ると、園部は扉を肩で押して外に出た。階段を駆け上がり、素早く傘を差したが、いきなり強烈な雨がそれを叩いた。
雨だけではなく風も強い。横殴りに降りつける雨の前では、傘など差していてもほとんど意味はなかった。
「ちくしょう。やっぱり泊まっていったほうがよかったかもしれないな」
格好をつけて出てきた手前、今さら戻るわけにもいかない。あきらめた園部は傘を畳み、吹きつける雨風を正面から受けながら歩き始めた。
園部のアパートは、ここからそんなに遠くはない。神田川沿いの遊歩道を歩いていけば、十分弱で着く距離だ。
九月の半ばとはいえ、まだ真夏のような熱気がつづいていた。濡れて帰っても、すぐにシャワーを浴びれば問題ない。酔い覚ましにちょうどいいぐらいだ。
園部は傘を杖代わりにして歩いた。辺りが白く煙るほどの強い雨に打たれていると、徐々に気分が高揚してくる。そうしているあいだにも雨はさらに激しさを増してくるようだ。
遊歩道を歩く園部の足元も、まるで川のように水が流れている。進行方向の左手側を並走するフェンスの向こう側が神田川だ。だが今、水位はほとんど遊歩道の高さまで近づいている。
普段は底のほうにほんの数十センチほどしか水が流れていない神田川が、今夜は手を伸ばせば触れられそうなほど水嵩を増し、泥水が荒々しい音を響かせていた。
見上げると新宿高層ビル群は完全に雨雲に覆われ、蜃気楼みたいに薄ぼんやりとした明かりが滲んでいるだけだ。世界の終わりが迫っているかのようで、年甲斐もなく少年のように心をくすぐられてしまう。
風速何メートルなのかはわからないが、ときおり身体が浮き上がりそうになる。シャワーのような雨に打たれて、アルコールの酔いは醒めていったが、それとはまた違った陶酔感が園部の内から湧き上がってきていた。
「こいつは気持ちいいや」
立ち止まった園部は真っ黒な空を見上げ、両腕をひろげて、雨と風を全身に受けとめつづけた。
そのとき、背後に人の気配を感じた。驚いて振り返ると、すぐ後ろに黒いレインコートを着た小柄な男が立っていた。
フードを目深に被っているし、雨の飛沫に霞み、その顔ははっきりとは見えない。だが、じっとこちらを見つめているようだ。
◇ ◇ ◇