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「天使を助けてもらいたい」…橘玲さんが描く驚愕の金融情報小説! #5 永遠の旅行者

元弁護士・真鍋に、見知らぬ老人麻生から手紙が届く。「二十億の資産を息子ではなく孫に相続させたい。ただし一円も納税せずに」。重態の麻生は余命わずか、息子悠介は百五十億の負債で失踪中、十六歳の孫まゆは朽ちた家に引きこもり、不審人物が跋扈する。そのとき、かつてシベリア抑留者だった麻生に殺人疑惑が浮上した……。

今、巷で話題沸騰の『バカと無知』やベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『永遠の旅行者』は、そんな橘さんによる驚愕の金融情報小説。姉妹作品『マネーロンダリング』『タックスヘイヴン』とあわせて、お楽しみください!

*  *  *

堀山は、ハワイの金融機関への入金にトラベラーズ・チェック(TC)を利用していた。

日本国の金融機関は、二〇〇万円を超える海外送金の際に運転免許証などによる本人確認と、所轄税務署への送金調書の提出を義務づけられている。一人一〇〇万円を超える現金および現金等価物を国外に持ち出す場合は出国時に税関での届出が必要とされており、TCの場合も、ほとんどの金融機関は購入金額が一〇〇万円を超えると本人確認を要求する。逆に言えば、両替金額が一〇〇万円以下ならば仮名でTCを購入することができる。コンプライアンス(法令順守)にうるさい銀行は口座保有者にしかTCをつくらせないが、たいていの金融機関は、現金を持っていけば誰にでもTCと交換してくれる。堀山は暇ができると近くの銀行を回り、一〇〇万円を超えない範囲で、適当な名前で一〇〇〇ドル券のTCを購入していた。
 
アメリカの金融機関のなかには、ドル建てのTCを口座に直接入金してくれるところがある。なかには郵送での入金を受け付けるところもあり、これならわざわざ海外に出かける必要もなく、送金記録も残らない。アメリカでは一万ドルを超える海外送金が税務当局に報告されるが、TCは小切手と同じで海外送金扱いにならないというメリットもある。
 
恭一からその話を聞いてから、堀山はTCを購入するたびにアメリカに郵送していたが、今回は、ハワイ旅行のついでにまとまった金額をカバンに入れてきたらしい。持ち込んだTCは愛人名義の口座に入金し、そこからオフショアの銀行に送金している。
 
もっともいくら小細工を弄しても、日本とアメリカは租税条約を締結しており、日本の税務当局がIRS(内国歳入庁)に調査を依頼したり、裁判所の令状を取って口座内容を開示させれば送金先は明らかになってしまう。だが、そもそもIRSは自分たちが税金を徴収できない税務調査になんの興味もなく、租税条約による国境を跨いだ連携も実際にはほとんど機能していない。
 
堀山は三〇〇万ドル、日本円で三億円あまりの裏金を海外に持ち出していた。ワイキキのレストランの権利もその金で購入したが、大半はオフショアの銀行の日本円口座に放り込んであるという。金利はまったくつかないから、税務当局の目を逃れるためだけに海外に貸金庫を借りているようなものだ。
 
「先生、ほんまに困ってますんや」酔いが回ってくるにつれて、堀山の話は愚痴っぽくなった。「このままやとジリ貧ですわ」
 
最近はいつも同じ話を聞かされる。死ぬまでなに不自由なく暮らせるほどの金を持っているのに、それでもまだ不安なのだ。
 
堀山の悩みは、自業自得というほかなかった。海外に裏金を溜めているうちに、肝心の商売が傾いてきたのだ。
 
堀山は現在、十軒あまりの風俗店を経営しているが、競争は厳しく業績はかならずしもかんばしくない。生き残るためには店を新しくし、若い女の子を入れ、料金をディスカウントしてサービスを向上させる必要がある。
 
だが、堀山の手元には肝心の投資資金がなかった。堀山の会社は所轄の税務署に徹底的にマークされており、大規模な改装をすれば資金の出所を厳しく問われることは目に見えている。帳簿上、堀山の店はほとんど利益を出していないことになっているのだ。
 
「ちゃんと税金を払って、税引き後の利益を堂々と使えばいいんじゃないの」
 
「そんなこといまさらできまへん。なんで急に売上が五倍になったと訊かれて、どうやって説明しますねん」
 
要するに堀山は、溜まっていく裏金を自由に使うこともできず、びくびくしながら海外に運ぶしかない情けない状況に陥っているのだ。
 
「税務署だって商売なんだから、話し合いで解決できるんじゃないの。国税出身の税理士にあいだに入ってもらって、正直に事情を説明して、いくらか払ったらどう?」
 
「それは甘いですわ、先生」堀山は目の色を変えた。「あいつらをなめたらあきまへん。こっちがいちど弱みを見せたら、ケツの毛まで抜かれて破滅ですわ」
 
「そんなもんかなあ」ベトナム風お好み焼きに手を伸ばしながら、恭一は生返事をした。
 
それから堀山の繰り言が延々とつづいた。一斉摘発を逃れるため、風俗営業では店ごとに別法人とし、形式的な代表者を立てておくのがふつうだ。こうすれば、どれかの店が摘発されてもそれが他の店に波及したり、オーナーに捜査の手が伸びるのを防ぐことができる。だがこの方法は両刃の剣でもある。法人の数だけ税務申告が必要になり、すべての店が税務調査の対象になるからだ。その結果、堀山はほぼ一年じゅう、税務署との対応に追われるようになった。
 
「税務調査は三年に一回いうんが原則やのに、あいつら、わしんとこだけは毎年やってきますんや。しつこうてかなわんわ」

納税者が税務申告で自主的に支払った税額と、税務調査の結果、修正申告させた税額との差額を「増差」という。税務調査官の出世はこの増差をどれだけ獲得したかで決まるが、ベテランの調査官でも、まともに営業している法人から大きな増差を取るのは難しい。最近では納税者の権利意識が高まり、税務調査に不満があるとすぐに国税不服審判所に異議を申し立てたり、裁判に訴えるようになった。そうなると、脛に疵を持つ身でお上に訴えることもできず、なおかつ多額の脱税をしているに違いない堀山のような人間は、各税務署の奪い合いになる。確実に成績が上がるうえに、もしかしたら大物が釣り上がるかもしれないからだ。
 
「ウチの税理士は、税務署にお土産渡せ言うばかりで、ぜんぜん役に立たへん」
 
堀山はなんどとなくそう愚痴った。税務調査で調査官に増差を提供することを「お土産」といい、その額は税理士・会計士と調査官の阿吽の呼吸で決まる。堀山のほうも弱みがあるから、税務調査が入ればそれなりのお土産を持たせなければならない。
 
「税金対策に走り回る時間があったら、払うものは払って、余った時間を商売に注ぎ込んだほうがいいと思うけどなあ。脱税しながら事業を大きくすることはできないよ」
 
「そうでっか」堀山は不満そうな顔で、グラスに残ったビールを飲み干した。
 
「裏金を表金に換える方法があったら、わしの悩みはすべて解決するんやけどなあ」堀山が大きな溜め息をついた。「わしもそろそろ風俗の世界から足を洗おうと思うてますんや。これからは、世のため人のために生きていこうと思ってますんや」
 
高い理想のわりには、海外にこっそり持ち出した裏金を、税金も払わず、自由に使える表金にして国内に戻そうというのだから、ずいぶん虫のいい話だ。
 
「なんかええ方法ないやろか」堀山は諦めきれないように一人でぶつぶつ言っている。恭一はそれを無視して、フォーのスープを啜った。この店は化学調味料を使わないので、嫌な後味が残らない。
 
「そうや、忘れとった」突然、堀山が言った。「半年ほど前のことですけど、なんや知らんヘンなジイさんが事務所にやってきて、先生の連絡先、教えてくれ言われましたんや」
 
恭一は箸を止めて堀山を見た。
 
「わしと先生のつき合い、知っとる人間なんてほとんどおりませんやろ。なんか気持ち悪いなあ思って、おたくさんどなたですか、先生になんの用ですか、訊いたんです。そしたらそのジイさん、なんて言ったと思います?」
 
堀山はここで、思わせぶりに間を取った。
 
「私はもうすぐ死にます。そう言わはったんですわ。たしかに顔は青白うて、ガリガリに痩せとったから、まんざらウソでもないようで」
 
「その人、なにか言ってた?」
 
「それもまたヘンなんですわ。どんな用事かわからへんかったら、先生の連絡先、口が裂けても教えられしません。わしはそう突っぱねたんです。そしたらジイさん、天使を助けてもらいたい、言うたんですわ」
 
「天使?」
 
「妙でっしゃろ。それで、天使ってどなたはんですか、訊いたんです。そしたら、お前には関係ない、みたいな怖い顔で睨まれて」堀山が上目遣いで恭一を見る。「先生はハワイにおるからどうせ会われへん、言うたら諦めて帰っていかはりましたけど、あちこちで先生のこと訊きまくっとるみたいやったんです。なんか言うてきませんでした?」
 
「いや、なにも」心当たりはあったが、すげなくこたえた。
 
「そうでっか」堀山は意外にあっさりと引き下がった。「天使って誰やろなあ」と言いながらも、美味そうにお好み焼きの残りをつついている。
 
「申し訳ありまへんが、わし、アラモアナでこれ待たしてますよって、そろそろ行かなあきまへん」
 
最後に頼んだフォーをスープまで飲み干し、堀山はまた小指を立てた。アラモアナはハワイ最大のショッピングセンターで、高級デパートやホテル、ブランドショップが集まっている。バーゲンシーズンになると、日本からツアーでやってきた若い女性たちが、日本ではまだ値引きされていないブランド物を買い漁っていく。
 
「こんど、ウチの店にも寄ってください。ミナミから板前呼びましたんや。正真正銘、関西の味でっせ」
 
さすがの堀山も、高くて不味いという悪評を気にはしているらしい。もっとも、実際に雇ったのは板前ではなく、大阪弁をしゃべる男をそれらしく坊主頭にしただけなのだが。
 
ウェイターに精算の合図をし、タクシーを頼んだ。
 
「安いでんなあ」勘定書きを見て、堀山は大袈裟に言った。「これだけ飲んで食べてたったの八〇ドルでっか」
 
堀山は五〇ドル札二枚を勘定書きの上に無造作に置くと、ウェイターに関西訛りの英語で「キープ・ユア・チェンジ」と伝えた。ウェイターは二〇ドルの夢のようなチップに、両手で拝むようにして堀山に感謝している。タクシーを待つあいだ、店のオーナーが出てきて堀山に挨拶した。言葉が通じなくても、堀山のような男はどこでもすぐに人気者になる。陽気で、健啖家で、金払いがいいからだ。
 
「先生、もうひとつよろしいでっか」堀山が言った。
 
「いつまでこんな暮らし、されてますんや。わし、先生みたいにごっつう才能あるお方が、仕事もせんとふらふらしとられるの、もったいないと思いますんや」
 
堀山の脂ぎった顔には、不思議な愛嬌があった。
 
「もしまた事務所開かれるときは、まっ先に連絡もらえまっか。なんでもさせてもらいますよって」
 
「ありがとう」恭一は言った。「でも、もう弁護士じゃないんだから、お願いだから先生はやめてよ」

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