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運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門 #3

◆ 何度生まれ変わっても帰依する ────◆

ここで少し「帰依」について、詳しく触れておきます。

まず、仏教徒であるか否かの違いは何でしょうか? もちろん、お墓参りやお寺に初詣をするか否かではありません。「三宝さんぽう」に帰依するか否かにかかっています。

では、三宝とは何でしょうか。三宝とは「仏法僧ぶっぽうそう」をいいます。仏法僧の関係はチベットでは「医師」「薬」「看護師」にたとえられます。患者が我々凡夫です。「仏」は我々凡夫それぞれの嗜好や性質、前世からの業を知って、その人に最もふさわしい「法」を説きます。それは優秀な医師が患者の症状を見て適切な処方箋を出すのと等しく、そして説かれた法が「薬」です。

薬を服用すれば病気は治りますが、服用しなければ治りません。法を自分で実践できれば、悟りを得ることができますが、実践しなければどんなに仏のそばにいようとも悟りを得ることができないのと同じです。そして「僧」は「看護師」です。仏である立派な医師には気軽に訊くことはできませんが、我々に近しい看護師には何でも気軽に尋ねることができるからです。

生前、ロサン・ガンワン師は、「帰依とは、貴方は全てご存じです、貴方に全てをお任せ致しますということだ」とおっしゃっていました。

この三宝への帰依を、ダライ・ラマ法王は「懺悔の前のこの帰依を所依の力という(後略)」(ダライ・ラマ註釈P84 下9~8)としています。

菩提道場ぼだいどうじょう*6に至るまで諸仏に帰依致します。法と菩薩の集まりにも同様に帰依致します。

(『入菩薩行論』第二章 26段)

ここでの帰依のポイントは対象が三宝であることはもちろん、時間の特徴として、菩提道場(悟りを得る場所)に至るまで、という点が重要です。キリスト教式の結婚式で新郎新婦に「死が二人を分かつまで愛を誓いますか?」と神父が訊きますが、仏教の帰依は死ぬまでではなく、菩提道場に至るまでです。

また、ロサン・トゥンドゥプ師は、次のように述べています。

「この時から始めて無上の菩提道場、即ち菩提樹の下で法身ほっしんを実現するまで、それまでの間、諸仏に帰依し、大乗の法宝、菩薩の集まりである聖者にも同様に帰依致します。」

(『入菩薩行論新釈“ロサン・ラマの口伝”』P47)

ここにある「法身ほっしんを実現する」とは仏果を得る、即ち仏陀になることです。私は最初、自分が死ぬまでなら理解できるけれど、悟りに至るまでというのがどういうことなのか理解できませんでした。来世のことなどわからないではないか、と思ったからです。

しかし、日本でも高野山などでお授けされている「菩薩十善戒ぼさつじゅうぜんかい*7」では、「弟子某甲でしむこう 尽未来際じんみらいざい 帰依仏きえぶつ 帰依法きえほう 帰依僧きえそう」と唱えます。弟子某甲とは弟子である私という意味で、尽未来際とは未来永劫を意味します。要するに未来永劫、私は仏法僧の三宝に帰依致しますということです。

これは死後のことはわからないというような中途半端なことではなく、徹底して帰依することを示しています。現に日本ではこの三帰依のあと、さらに三竟さんきょうを唱えます。三竟では「弟子某甲 尽未来際 帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟」と唱えますが、これは三宝への帰依が徹底していることの確認をするものです。

仏教はモチベーションの宗教です。帰依も単に自分の救いを求めて帰依するのではなく、菩提心に裏打ちされた帰依、衆生救済の菩薩道の過程としての帰依であるならば、その功徳は計り知れないとダライ・ラマ法王はおっしゃっています。ならば、今生だけでなく、何度生まれ変わっても仏果に至るまで三宝に帰依するという強いモチベーションで帰依せよ、ということになります。

*6─菩提道場……悟りを得る場所のこと。例えば、仏伝でいうなら、釈尊がお悟りを開かれたブッダガヤの菩提樹の下をいう。

*7─「菩薩十善戒」……高野山などで信徒が僧侶から授かる十箇条の戒め。

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