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あの人から届いた手紙…世界的作家が描く究極のエロティシズム #3 ホテル・アイリス

染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹のしわの間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は、醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となったとき、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる……。昨年、ブッカー国際賞にノミネートされたことでも話題となった、日本が誇る小説家、小川洋子さん。『ホテル・アイリス』は、17歳の美少女と初老の男の「SM愛」を描いた、衝撃の問題作です。その冒頭を特別にご紹介しましょう。

*  *  *

遊覧船が汽笛を鳴らしながら戻ってきた。桟橋のカモメがいっせいに飛び立った。乗り口の鎖が外され、待合室にアナウンスが流れた。

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「そろそろ行かなくては」

翻訳家はつぶやいた。

「さようなら」

わたしは言った。

「さようなら」

彼もそう言った。別れのあいさつというより、二人の間の一番大事な一言を、互いに差し出し合ったような気がした。

行列に飲み込まれ、桟橋を歩く男が窓から見えた。いくら小柄でも、観光客に混じった背広姿はすぐに見分けがついた。途中で彼が振り返った。名前も知らない無関係な男に、こんなことをするのは滑稽だと思いながら、わたしは手を振った。彼もそれに応えようとしたが、決まり悪そうに、上げかけた手をポケットに突っ込んだ。

船は汽笛を鳴らし、また桟橋を離れていった。

わたしは母から罰を受けた。アイリスに帰ると、もう五時を過ぎていた。そのうえあわてていたせいで、クリーニングに出した母のワンピースを、取ってくるのを忘れたのだ。

「どうしてくれるんだい。今晩あれを着てダンスの発表会に行くつもりだったんだよ」

母は言った。客がフロントのベルを押しているのが聞こえた。

「ダンス用のドレスはあれ一着しかないんだ。お前だって知ってるだろう。あれがなくちゃ踊れないんだ。五時半に始まるっていうのに、間に合わないじゃないか。お前が帰ってくるのを、母さんはずっと待ってたんだよ。もう、どうしようもないよ。全部、お前のせいだからね」

「ごめんなさい、ママ。町で偶然、具合の悪くなったおばあさんを見つけたの。顔が土気色で、身体がぶるぶる痙攣して、ひどく悪そうだった。だから病院まで付き添って介抱してあげてたの。とても見捨ててなんか、おけなかったわ。だから遅くなったの」

帰り道に考えた嘘を、わたしは並べ立てた。母の怒りをつのらせるように、ベルは鳴り続けた。

「さっさとお行き」

母は怒鳴った。

発表会と言っても、このあたりの商売人の奥さん、魚の加工工場の従業員、隠居した老人が十人くらい集まって、下手なダンスをするだけだ。たいしたことじゃない。もしわたしが言い付けどおり、ドレスを持って帰っていたら、今日は面倒だから行かないと言ったかもしれない。

わたしは母の踊る姿を見たことがない。ターンするたびに震えるふくらはぎ、シューズからはみ出すほどむくんだ甲、見知らぬ男の腕が巻き付く腰、汗ではがれる化粧……。そんなものを思い浮かべるだけで、うんざりする。

子供の頃から母はわたしの容姿を他人に自慢し続けてきた。彼女が好む客の第一はもちろん金払いのいいことだったが、二番目はお世辞でも娘の美しさを口にしてくれる客だった。

こんな透き通った肌は見たことないでしょ? 中が透けて見えそうで怖いくらいですよ。長い睫毛と黒目がちの大きな目は赤ん坊の頃から変わりません。抱いて歩いてると、五分おきに「まあ、かわいい」ってのぞき込まれました。なんて名だったか、彫刻家の先生に頼まれてモデルになったこともあるんですよ。コンクールで金賞を取ったんです。

母はわたしを自慢するための言葉を、数限りなく持っている。でもその半分は作り話だ。自称彫刻家は暴行魔で、わたしはもう少しでいたずらされるところだった。

いくら母が賞賛したからといって、それだけ愛情が深いというわけではない。むしろ彼女がわたしについてあれこれ口にすればするほど、反対に自分がどんどん醜くなってゆくようで、いたたまれない気持になる。わたしは自分をきれいだなどと思ったことは、一瞬たりともない。

今でも毎朝、母はわたしの髪を結う。鏡台の前に坐らせ、束ねた髪を左手で引っ張り、身動きできなくする。頭の皮がゴリゴリ音をたてるほどにブラシを動かす。少しでも頭を揺らすと、左手にもっと力を込める。ただ髪の毛を支配されているだけで、わたしはすべての自由を失ってしまう。

椿油のビンに櫛を浸し、それでシニヨンにまとめてゆく。一本の乱れも許さない。椿油は嫌な匂いがする。時には安物のバレッタやピンが飾られることもある。

「さあ、できた」

満足げな母の声を聞くたび、わたしはどうしようもなく痛めつけられた気分に陥る。

その夜は、晩ご飯を食べさせてもらえなかった。子供の頃から、お仕置きは決まってこれだった。空腹の夜はいつもより闇がくっきりと深く見える。わたしはその闇に、男の背中と耳の形を何度も映し出してみた。

お仕置きの次の朝、ことさら丁寧に母は髪を結う。椿油もたっぷりと使う。そしてわたしの美しさをたたえる。

祖父の父親が下宿屋を改装してホテルにしたのが、アイリスのはじまりだった。百年も昔の話だ。このあたりではレストランでもホテルでも、海岸通りに面し、なおかつ海に浮かぶ城壁に近ければ近いほど高級ということになっている。アイリスはその両方の条件から外れていた。城壁までは歩いて三十分以上かかるし、海の見える部屋は二つしかない。残りの部屋からは魚の加工工場が見えるだけだ。

祖父が死んだあと、母の言い付けどおりわたしは学校を途中でやめ、ホテルの仕事を手伝っていた。

わたしはまずキッチンに入り、朝食の準備をする。果物を洗い、ハムとチーズを切り、氷の上にパックのヨーグルトを並べる。その日最初の客が降りてくる気配がしたら、コーヒー豆を挽き、パンを温める。

チェックアウトの時間が近づくと、フロントで会計をする。わたしは黙々と仕事をする。あれこれ話し掛けてくる客もあるが、短い言葉と微笑みを返すだけで、余計なことは喋らない。初対面の人と口をきくのは苦痛だし、計算を間違えてレジのお金が合わなくなると、母に叱られるからだ。

昼前に手伝いのおばさんがやって来て、母と一緒に客室の掃除をはじめる。その間にわたしはキッチンと食堂を片付ける。予約客やリネンのリース会社や観光組合からの電話を受ける。少しでも髪の乱れを見つけると、母はすぐに櫛でとき直す。そしてまた、新しい客を迎える。

わたしは一日の多くの時間をフロントで過ごす。そこは坐ったまますべての物に手が届くくらい狭い。呼出し用のベル、旧式のレジスター、宿帳、ボールペン、電話、観光パンフレット。数えきれない人々の手がのせられたカウンターは、傷だらけで黒ずんでいる。

カウンターの内側に身体を沈めてぼんやりしていると、向かいの加工工場から生魚の臭気が漂ってくる。すり身を蒸す湯気が、窓のすき間からもれ出しているのが見える。トラックの荷台からこぼれ落ちる魚を目当てに、始終、野良猫が集まっている。

予定の客が全部チェックインし、それぞれの部屋に落ち着き、眠りの準備をはじめる時間、わたしの感覚は最も研ぎ澄まされる。フロントの丸椅子に坐っていれば、ホテル中の音や気配や匂いを感じ取ることができる。

フロントに閉じこもっているだけで、アイリスで夜を過ごす人々の情景が生々しく浮かんでくる。その一枚一枚をどうにかして払い除け、静かな場所を見つけだし、そこに横たわってわたしも眠りに落ちてゆく。

金曜の朝、翻訳家から手紙が届いた。きれいな文字の手紙だった。わたしはそれをフロントの隅で、こっそりと読んだ。

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不躾にも、このようなお手紙を差し上げることを、お許し下さい。

日曜の午後、遊覧船の待合室で、あなたとあんなふうにお話しすることになろうとは、思いもしませんでした。

この歳になれば、たいていのことは予想できてしまいます。不必要にうろたえたり、悲しんだりしなくてもすむよう、心の準備を怠りません。あなたにはとうてい理解できないでしょうが、それが明日死ぬと言われてもおかしくない歳になってしまった人間の、習性のようなものなのです。

しかし、あの日曜日は違っていました。時間の歯車がほんの少しずつずれ合って、私を思いもしない場所へ導きました。

ホテル・アイリスで私が引き起こした下劣な事件を考えれば、当然あなたから軽蔑されてしかるべきです。本当は私もそのことをきちんとお詫びしたかったのです。ところが、あなたがあまりにも無防備な視線を向けてくれたことで、私はすっかり狼狽してしまい、肝心なことを何一つ口にできませんでした。改めまして、手紙で深くお詫び申し上げます。

長く私は一人暮らしを続けております。毎日島に閉じこもって翻訳ばかりしているため、ほとんど友人はおりません。また、あなたのような若くて美しい娘を持ったこともありません。

あのように、手を振って誰かに見送ってもらうなど、もう何十年も味わっていない経験でした。幾度となく桟橋から船に乗りましたが、いつも私は一人でした。桟橋から振り返る必要など、一度もなかったのです。

あなたは古くからの知り合いにするように、手を振って下さいました。あなたにとってはささいな仕草が、私にとっては意味深いものでした。

そのことに、お礼が申し上げたかったのです。有難うございました。

毎週日曜、私は買い物のために町へ出ます。午後二時頃、中央広場の花時計の前におります。再びお目に掛かれるという幸運は、巡ってまいりますでしょうか。お約束を無理強いするつもりはございません。ただ、老人の願望をつぶやいただけのことです。どうぞ、お気になさいませんように。

日々、暑さが厳しくなってまいります。ホテルのお仕事も、ますますお忙しくなるものとお察し申し上げます。くれぐれも御自愛下さい。

マリ様

追伸 失礼ながら、お名前を調べさせていただきました。偶然にも、私が今翻訳しております小説のヒロインの名が、マリーです。

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ホテル・アイリス

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