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あの子が、悪いのよ…『バッテリー』を凌駕する青春小説の傑作! #4 ランナー

長距離走者として将来を嘱望された高校1年生の碧李(あおい)は、家庭の事情から陸上部を退部しようとする。だがそれは、一度レースで負けただけで、走ることが恐怖となってしまった自分への言い訳にすぎなかった。逃げたままでは前に進めない。碧李は再びスタートラインを目指そうとする……。

累計1000万部超えの『バッテリー』シリーズなどで知られる、あさのあつこさん。『ランナー』は、舞台を高校陸上部に移し、走る喜びを描いた青春小説シリーズです。

*  *  *

正式に離婚が成立してすぐ、千賀子(ちかこ)はこの街への引っ越しを決めた。以前、薬剤師として働いていた総合病院への復帰を果たし、豪華ではないけれど親子三人には充分な中古マンションに居を定め、白い小型車を購入した。髪を切り、薄く化粧をするようにもなった。妻であったときより溌剌と美しくなったようにも見える。事実、近くに住む佐和子(さわこ)叔母は「お姉ちゃん、三歳は若返ったのと違う」と瞠目(どうもく)し、「離婚って、ある意味、自由ってことだもんね。悪くないかも」と半ば本気の顔になった。続けて、老舗の乾物問屋に嫁ぎ、商売を切り盛りし、子を三人もうけ育てている最中の自分の身を、自由な時間などまるで持てないと嘆く。そのとき、母の顔に浮かんだ薄い笑いを碧李(あおい)は見た。すぐに目を逸らしたけれど、見てしまった。それは仮面のように硬く、白っぽく、強張っていた。無理をしているのだと察せられた。

無理をして虚勢をはる。千賀子には昔からそういう癖がある。自分の弱さや惨めさ、不幸を決して晒さない。肉親であってもそうだ。肉親なら近しい者ならなお、頑なに隠し通そうとする。人並み以上に美しく賢く生まれてきた、おまえは優れ者なのだと幼少時から言われ続けてきたことが幸せだったのか不幸だったのか、碧李はもちろん、千賀子自身にも判断などできないし、簡単に断定できるものでもないのだろうけれど、それが強固な縛りとなり、千賀子に嘆くこともやつれることも悲しむことも許さなかったのは事実だ。
 
夫に愛人ができ、別れを告げられた女より、寡黙で偏屈な夫から解放され、溌剌と生きる術を手に入れた者を千賀子は演じざるをえなかった。それはそれで潔くもあり、母の強靭さに感嘆の思いもあった。「頼むから」と無責任な一言だけ残して去った父より、遥かに強く潔い。しかし、危険だ。それはどこか歪んで、他人だけでなく自分自身をも欺く愚かさに容易く繋がりはしないだろうか。叔母に見咎められないように首を捻り、硬く白い笑みを浮かべた母を見たとき、碧李は視線を窓の外に移しながら、背骨に沿って這い上がる冷たい怖れを確かに感じてしまった。
 
人はどこまで自分を欺けるものなのだろう。欺きとおせるものなのだろうか。
 
「けど、お姉ちゃんも人が好いっていうかさ……杏樹(あんじゅ)ちゃんまで引き取るんだもの。正直、びっくりしちゃった」
 
三人目を生んでから目立って肥えてきた叔母が、卓上の菓子に手を伸ばす。千賀子の声が熱を持った。
 
「当たり前でしょ。杏樹はわたしの子よ」
 
「そりゃそうだけど……」
 
「つまらないこと、子どもの前で言わないでよ」
 
叔母が丸い肩をすくめる。ソファの上で昼寝をしている杏樹の寝顔にちらりと視線を投げる。
 
「お姉ちゃんは偉いよ。わたしなら、血の繋がっていない子を引き取るなんて、できないと思うもの。まして、お義兄さんの方の」
 
「佐和子!」
 
姉の語気の荒さに、妹は黙り込む。気まずい沈黙の後、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、叔母はせわしい日常の待つ家にそそくさと帰っていった。


杏樹は、謙吾(けんご)の弟の娘だった。生まれて八ヵ月後に事故で両親を失い、謙吾と千賀子の元に引き取られた。あの夜、杏樹の両親がスピードの出しすぎと脇見運転による大型トラックの玉突き事故に巻き込まれ、ほぼ即死に近い状態で亡くなった夜は、昼前から雨がふっていた。赤ちゃんを預かるから、三年目の結婚記念日を二人で祝っていらっしゃいよと促したのは、千賀子だった。
 
「夕方までなら、杏樹ちゃんの面倒みててあげるから」
 
「でも、お義姉さんに悪いし」
 
「いってきなさいったら。わたし、女の子のママになりたかったの。杏樹ちゃんは手がかからないし、預かってあげるって」
 
「でも……」
 
「いいって。映画でも観て、美味しいもの食べて、楽しんでらっしゃい。他人の厚意は素直に受けた方がいいのよ」
 
千賀子にそこまで言われて、気弱な義弟夫婦は、二人揃ってこくりと頷いた。杏樹は発育も順調で、離乳食も進んでいた。それほど手もかからないし、何よりあいくるしい顔立ちと、かたことの乳児語が千賀子の気に入っていたのだ。小学校も高学年になってめっきり口数の減った碧李からは、とっくに失せたあいらしさだった。
 
千賀子の厚意は暗転し、弟夫婦は灰青色の乗用車の中で押しつぶされた。杏樹一人、生きて残された。
 
千賀子は義弟夫婦の事故死について、罪悪感に近いほどの責任を感じていた。母の口から漏れる自責の呻きを、碧李は幾度となく聞いた。そして杏樹を引き取り、長女として籍に入れてからの接し方は、杏樹と血の繋がった謙吾があきれるほどの溺愛ぶりとなる。

もうすぐ中学生になる碧李にすれば、やや過剰気味だった千賀子の愛情が枝分かれし分散したようで正直ほっと息がつけた。杏樹がもたらしてくれたささやかな解放感をありがたいとも思った。それに、白い柔らかな腕を自分に向かって伸ばしてくる幼子の仕草に、胸の奥がくすぐったくなる情動を覚えたことも新鮮だった。赤ん坊など可愛いとも好きだとも深く感じたことは一度もないのに、情が動く。
 
柔らかく温かく無防備な存在が愛しいような、触れれば壊れそうで怖いような、不思議な感情を呼び覚ます。自分の中に未知の感情がある。とても新鮮だった。
 
杏樹は愛されるために生まれてきた。あまりに早く親を奪ってしまった代償に神は、幼い少女に愛される力を授けたのかもしれない。花が陽光を受け花弁を開くように、肥えた土が雨水をたっぷりと吸い込むように他者から愛を授かる力だ。
 
そこに最初の翳りを落としたのは、謙吾だった。「頼むから」の一言を残し、他所へと去った。そして……。


「杏樹のこと、お願い」
 
今朝、マンションのドアの前で俯いたまま千賀子は言った。軽く咳き込み、深く一つ、息をつく。
 
「朝ごはん食べさせて、保育園に連れて行ってやって」
 
「うん」
 
「お迎えにも行ってやって」
 
「うん」
 
「夕食、冷蔵庫の中にサラダとシチューがあるから温めて」
 
「そうする」
 
「お風呂も入れて、寝る前に絵本、読んでやってくれる」
 
「わかった」
 
「わたしが……わたしが帰ったころには、ちゃんと眠らせて」
 
言葉が詰まる。ノブを掴んだ指先が震えていた。
 
「わたしのせいじゃない」
 
詰まった言葉が掠れた音になって零れ落ちる。
 
「わたしが悪いんじゃない。あの子が……あの子が、悪いのよ」
 
碧李は黙っていた。充分に大人の男ならこんなとき、どんな慰めを口にできるのだろう。
 
そうだよ、母さんのせいじゃない。母さんは何も悪くはないんだから。何一つ、間違ってないんだから。
 
全て紛いとわかっていても、そう口にできるのだろうか。碧李にはできなかった。だから黙したまま立っている。立ったまま母の指先を見つめている。
 
「似ているのよ……目つきとか横顔とか、だから……」
 
「母さん」
 
母を呼び、僅かに唇を噛み締める。
 
「おかしいよ、そんなの」
 
「おかしい?」
 
「おれだって、父さんに似てるとこあるだろう。杏樹は女の子だし、本当は姪っ子なんだし」
 
「似てないわよ!」
 
千賀子は叫び、碧李の顔を見上げた。視線が強張っている。
 
「あんたは、あんな男とは違うでしょ。似てないわよ、ちっとも」
 
「でも親父だろう」
 
母を追い詰める気はなかった。しかし、どうしていいかわからなかった。わかっていることは、杏樹には何の罪もないということだけだ。そんなこと、千賀子にだってわかっている。誰よりよくわかっている。
 
母さん、母さんもやっぱ、弱かったんだよな。
 
千賀子が栗色に染めたミディアムショートの髪を手櫛で整える。顎を上げ、曖昧な優しげにさえ見える笑顔を息子に向けた。
 
「行ってくる」
 
「うん」
 
ドアが閉まる。パンプスの足音が遠ざかる。目を閉じて壁にもたれかかる。瞼の裏に青い空が浮かんだ。鳶が舞う空だ。思うように動かない身体、流れる汗、歪んだゴールライン。このうえなく美しい晩秋の色が惨敗の記憶に組み込まれていく。順位のことではなく、記録のことではなく、走ることが辛くて早く終わってくれと望んだことが、完膚無きまでの敗北の印だ。
 
イチゴ柄のパジャマを着た杏樹が目をこすりながら、寄ってきた。抱き上げてみる。この身体についた赤い打撲の痕を初めて目にしたのは、試合の数週間前、秋は日増しに深くなるけれど、真昼の光はまだ夏の名残を微かに留めている季節だった。
 
杏樹の背中と脇腹の部分に鬱血を見つけた。滑らかで柔らかい皮膚の上に、べとりと張りついた烙印のようだ。思わず息を呑み込んでいた。
 
「これ……どうした?」
 
杏樹は考えるように首を捻り、わかんないと答えた。
 
「わかんないって、何したら、こんな所にこんな傷ができるんだ」
 
「わかんないもん」
 
「痛くないのか」
 
「うん」
 
その日はそれで終わった。もしかしたらという思いがなかったわけではないけれど、まさかと否む気持ちの方が勝っていた。
 
まさか、そんなこと考えられない。
 
杏樹の夜泣きと夜尿が始まったのはそれから間もなくのことだった。保育園からも、園で落ち着きのない挙動が目立つようになり、時に感情の抑制ができなくて些細なことで泣き出すと、報告があった。
 
「環境の変化についていけなくて、精神的に落ち着かないみたいなの。子どもにはよくあることだって、園長先生に言われたわ」
 
千賀子はそう言ったけれど、碧李は頷かなかった。杏樹は利発な子だ。この街に越してきたわけも、謙吾が自分たちの生活圏から消えた理由も理解できてはいないだろうが、これからは謙吾を除いた三人で暮していくのだということは充分に察し、受け入れてもいたはずだ。今更、精神の不安定などと……頷けない。それに、多くはないけれど鬱血の痕は場所をかえ、杏樹の身体のそこここに現れている。中には薄らいだ傷の上に新たにつけられたものもある。二重押しのスタンプにも似て、赤の濃淡がぶれて広がる。

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