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お兄ちゃん、走って…『バッテリー』を凌駕する青春小説の傑作! #5 ランナー

長距離走者として将来を嘱望された高校1年生の碧李(あおい)は、家庭の事情から陸上部を退部しようとする。だがそれは、一度レースで負けただけで、走ることが恐怖となってしまった自分への言い訳にすぎなかった。逃げたままでは前に進めない。碧李は再びスタートラインを目指そうとする……。

累計1000万部超えの『バッテリー』シリーズなどで知られる、あさのあつこさん。『ランナー』は、舞台を高校陸上部に移し、走る喜びを描いた青春小説シリーズです。

*  *  *

「母さん」
 
「なに?」
 
「いや……」

口をつぐんでしまった。続ける言葉を見失ったのだ。元から持っていなかったのかもしれない。現実を問い詰める言葉を、ほぐしていく方法を、端的な表現を、まだ何一つ、身につけていない。思い過ごしなのだと誤魔化して、興味もないテレビ番組に視線を向けた自分を後悔するのは、数日後、あの試合の前日だった。
 
練習を早めにきりあげ、帰路に就いた。前祝にバーガーショップで一杯やらないかという久遠(くどう)たちの誘いを断って、自転車に飛び乗った。その日、杏樹(あんじゅ)は発熱して保育園を休んでいた。千賀子(ちかこ)も休みをとって看病しているはずだ。
 
急ぐ必要はない。別に、自分が帰ったからといってすることも、できることも何もないのだ。久遠たちと馬鹿話をしながらバーガーでも食えば、試合前の良くも悪くも張り詰めた神経がほぐれたかもしれない。馬鹿話をして神経を緩め、風呂に入り、ゆっくりと眠る。それがいい。明日走る、という一点に全てを集中させる。その緊張のために今日を弛緩(しかん)する。スタートラインに立つ瞬間、最高の自分でいるために緊と緩のリズムを刻む。闘いはもう始まっているのだ。それくらいはわかっている。なのに、心が急く。緩むどころではなく、妙にざわつき休まらない。赤信号の交差点を突っ切ろうとしてクラクションを鳴らされたりもした。
 
マンションの駐輪場に自転車を突っ込み、階段を駆け上がる。二基設置されているエレベーターを使わず四階まで階段を昇るのはいつものことだ。とっくに習慣化しているはずの動作が滑らかにいかない。何度も足を滑らせ転びそうになった。部屋の前に立ったとき、信じられないほど息が乱れていた。ドアのノブに手をかける。鍵がかかっていた。自分用のカードキーを取り出し、ロックを解除する。
 
しのびやかな泣き声がした。
 
キッチンの隅に蹲り、千賀子が泣いていた。碧李(あおい)を見上げた顔は、涙で光るほど濡れている。
 
「あおい……助けて」
 
両眼が充血している。鬼に喰われる、助けて。母の眼が叫んでいる。そして、啜り泣きが、杏樹の声が聞こえた。
 
「杏樹!」
 
しゃがみ込んだ千賀子の背を飛び越す。
 
「杏樹……」
 
南向きの六畳間で杏樹は泣いていた。布団の上に上半身裸の姿で座り、しゃくりあげている。近寄ろうとした足の裏が生温かいものを踏んだ。異臭がする。吐瀉物だった。それは、杏樹の布団の縁にも枕の上にも散っていた。
 
「お兄ちゃん」
 
杏樹が顔を上げ、手を差し伸べてくる。鼻血が顎を伝い裸の胸まで流れていた。
 
「お兄ちゃん」
 
死んでしまうと思った。今、伸ばされている小さな手を掴み、身体を抱かなければ、妹はこのまま消えてしまう。杏樹を抱き込み、腕に力を込める。すえた吐瀉物の臭いがする。碧李の腕の中で、小さな身体が震えている。
 
「だいじょうぶだから。兄ちゃんがいるから、もうだいじょうぶだから」
 
杏樹が必死でしがみついてくる。その必死さが杏樹の味わった恐怖と痛みを碧李に突きつけてきた。
 
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
 
背中にも腹にも打擲(ちょうちゃく)の痕がついている。生々しい痕だった。
 
「わからない……どうして、こんな……止まらなくて……」
 
背後では、千賀子の啜り泣きが続いている。碧李は杏樹を抱き締めたまま立ち尽くしていた。窓の外には夕闇が迫っていた。枯れかけた木の葉が一枚、過っていく。居間のテレビが明日の晴天を予報していた。
 
試合の前日、晩秋の宵だった。


冷蔵庫を開ける。シチューの鍋とラップに包まれたマカロニサラダが入っていた。杏樹が背伸びして覗き込む。
 
「アイスクリームある?」
 
「アイスクリーム? それは冷凍庫の方だけど……ないな。杏樹、アイスが欲しいのか」
 
「うん、欲しい。イチゴのアイスが欲しい」
 
「じゃ、コンビニまでいくか」
 
「うん」
 
財布をジーンズのポケットにつっ込み、杏樹に上着を着せる。ふと窓に目をやれば、杏樹の描いた団子から幾本もの雫が、外の闇を映して黒い流れとなりながら、窓ガラスを伝っていた。
 
「お兄ちゃん」
 
階段を降りながら、杏樹が手を握ってくる。
 
「ママ、お帰りおそい?」
 
「ああ」
 
「どのくらいおそい?」
 
「杏樹が寝ちゃったころだよ」
 
「ふーん」
 
夜十一時を過ぎなければ、千賀子は帰ってこない。杏樹だけでなく碧李ともなるべく顔を合わせたくないと思っているようだ。千賀子も怖れている。何かの拍子に、杏樹と二人っきりになることを、自分の剥き出しの醜悪と向き合わなければならなくなることを、恐れ戦いている。
 
愛していたはずなのに、愛していたはずなのに……なんで、わたしは……。

杏樹の手を握り返す。強くなりたかった。自分より他の者をちゃんと守りきれる力が欲しい。

「起きてちゃだめ?」
 
杏樹が見上げてくる。
 
「ママが帰ってくるまで、起きてちゃだめ?」
 
足が止まった。二階の踊り場だった。薄茶色の床が常夜灯の明かりに淡く光っている。息を呑んでいた。
 
「だめだ……そんなおそい時間まで……」
 
「だって、杏樹ね、ママにお願いがあるもん」
 
「お願い?」
 
「お誕生日のプレゼント……ママ、プレゼントくれるかなあ」
 
「そりゃあくれるさ。あっ手紙、手紙を書いとくといい。もう字が書けるだろう」
 
杏樹がかぶりを振る。兄を促すように歩き出す。
 
「ママにお話するの。お手紙じゃだめ」
 
「なんで?」
 
「あのね……えっと高いの。お金がいっぱいいるの」
 
「おまえ……何のプレゼントがいるんだ?」
 
「自転車」
 
「自転車、どんな?」
 
「どんなのでもいいよ。ぷいぷいって走れるやつ」
 
「ぷいぷいか」
 
「うん、ぷいぷい走るの。杏樹ね、ママにお願いする」
 
答えられなかった。高価なプレゼントだから直接、話をするという杏樹にどう答えられるのか。ここでも言葉を見失う。
 
外に出る。真冬並みの寒気が入り込んだとニュースキャスターが告げていたけれど、確かに寒い。しかし、三月の夜気はどこか微かに甘い匂いを漂わせて鼻腔をくすぐる。
 
一台の自転車がかなりのスピードで走り込んできた。つんのめるようにして止まる。耳障りな急ブレーキの音がした。タイヤが滑ったのか、派手な音をたてて横倒しになる。
 
「先輩」
 
顔を歪めもたもたと立ち上がったのは、前藤杏子(まえふじきょうこ)だった。
 
「あ……加納(かのう)くん」
 
「どうしたんです。誰かに追われてるんですか?」
 
自転車を起こしてやる。杏子はぷっと唇を尖らせた。
 
「誰に追われたりするわけ?」
 
「警察とか」
 
「警察に追っかけられて、逃げきれる自信はないけどね」
 
「いや、今の運転ならなんとかなりますよ。すごいコーナリングでした」
 
「どうも」
 
杏子は屈み込み、眼鏡を拾い上げた。
 
「よかった。壊れてなかった」
 
「先輩、眼鏡をかけるんだ」
 
「そうよ。学校ではコンタクトだけどね。びっくりした?」
 
「いや……でも似合います」
 
「ありがとう」
 
杏子は碧李の後ろにいる杏樹に笑いかけた。
 
「妹さん?」
 
「はい、妹です」
 
「始めまして。前藤杏子といいます。よろしく」
 
大人にするような挨拶の後、杏子はぺこりと頭をさげた。杏樹がにっと笑う。杏子も同じように笑った。碧李が一度も見たことのない子どもっぽい笑顔だ。真顔に戻り、杏子は自転車の前カゴから一枚の紙を取り出した。
 
「練習のメニューと日程。一応、渡しとく」
 
「わざわざ届けに来てくれたんですか?」
 
「ううん。言い残したことがあって……一番大事なことなのに、伝えるの忘れてたから」
 
眼鏡の奥で、杏子の双眸(そうぼう)がきつくなる。
 
きれいな人だな。そう感じた。
 
「ミッキーからの伝言」
 
「監督の?」
 
「そう。どんなかたちでもいいから、走り続けろって。そうしないと、今に破裂しちゃうぞって」
 
「破裂? どういうことですか」
 
「わかんないの?」
 
「わかりません」
 
杏子の肩が上下に動く。
 
「あたしもミッキーに、どういう意味ですかって訊いたの。そしたら、加納に訊けって言われた。あいつなら、ちゃんとわかってるだろうって。ともかく走れ、走り続けろ。そう伝えといてくれって」
 
走り続けろ。
 
身体の奥底から、熱いうねりが這い上がる。指の先が微かに震えた。思わず強く握り込む。抑え込んでいたものが封を破って、湧き出てくるようだ。
 
だめです、監督。おれ本当にいっぱいいっぱいで……でも、それでも、おれは……。
 
「杏樹もいっしょに走るの」
 
杏樹がふいに腕を掴んできた。
 
「いっしょに走るの」
 
「え?」
 
「自転車に乗って、お兄ちゃんといっしょに走る。えっと、あの……それで、がんばれとか早く走れとか言うの」
 
ああと杏子が軽く手を打った。
 
「コーチだ。お兄ちゃんのコーチをするんだね」
 
「うん。コーチ。杏樹、お兄ちゃんの走ってるの好き」
 
「あたしも好き」
 
そう言ったあと、杏子はぱたぱたと手を振った。瞬く間に、頬が紅潮していく。
 
「あっ変な意味じゃないよ。走っているところが、好きってことだから……」
 
「はい。わかっています」
 
杏子の想い人は他にいるのだろう。それが誰かもぼんやりとだが、わかっている。
 
「お兄ちゃん、走って」
 
杏樹の指に力が入る。兄を後ろから支えるかのように、小さな指に力が籠る。支えられているのだと、碧李は胸の内に呟いた。こんなにも小さなものに確かに支えられていた。そのことに、気づきもしなかった。気づこうともしなかった。
 
風が吹く。冷たく甘い春の風だ。息を吸い込む。目の前に白い道が浮かんだ。どこまでも果てなく続く道は、白く煌きながら、ただ走り続けろと碧李に命じていた。

◇  ◇  ◇

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