鍵の掛かった男 #5
十四日の九時半にホテルを出ていた残りの二人は夫婦だった。
「萬さんとおっしゃって、ご主人は北浜の証券会社に、奥様は堂島にある広告代理店にお勤めになっています。お齢は四十代半ばです」
北浜は中之島線に乗ればふた駅だし、堂島は橋を渡ったところだ。仕事が忙しくて遠くの自宅に帰る間もなかったのかと思ったら、そうではない。年明け早々から自宅の大幅なリフォームを始めたので、工事中の十日間を通勤に便利なこのホテルで過ごしたのだという。芦屋市内在住なので、話を聞くためこちらから出向くことになっても楽だ。
「それ以前にもこちらに泊まったことがあるんですか?」
「二度あります。奥様が大変なホテル好きでいらして、ご主人を誘ってあちこちにお泊まりになるんだそうです。当ホテルをお気に入りいただいて、リフォーム中の仮の住まいにしてくださいました」
「そういうことなら、梨田さんとはあまり接触していませんね」
「ええ。それでもロビーでご歓談なさったりしていましたよ」
丹羽が、例の笑みを見せながら言う。
「銀星ホテルは、都会の真ん中にあってお客様に安らぎと寛ぎをご提供するため、お部屋の防音効果を高めるなどプライバシーには最大限の配慮をしていますが、コンパクトなところが親密さを醸成するのでしょうか、お客様同士ふと言葉を交わして打ち解ける雰囲気を持っているようです。梨田さんと萬さんご夫妻も、おしゃべりを楽しんでいるようにお見受けしました」
「親密さを醸成してお客同士がふと言葉を交わす雰囲気、ですか」きたばかりの私にはまだ実感がないが「梨田さんがここを離れなかったのは、そんな環境が好もしかったせいかもしれませんね」
丹羽は「はいっ」と深く頷いた。
萬夫妻が九時半までにホテルを出ていたのは、もちろん出勤のためだ。
「えーと、結局レストランで事情聴取を受けたのは何人ですか?」
「お客様が三人、従業員が十人です。その中には、客室係や清掃係など午前中だけきてもらっているパートタイマー、アルバイトを含みます」
三人の宿泊客の中に影浦浪子も入っていたわけだ。
「部屋数はいくつですか?」
「二つのスイートを入れて二十室ございます」
二階と三階に八室ずつ、四階にはツイン二室とスイート二室だという。
「十三日に埋まっていたのは」泊まったのは九人で、そのうちふた組が夫婦だから「七部屋ですかね」
「はい。稼働率が悪いようですが、お客様が減るシーズンで三連休明けでしたし、その日は四室のキャンセルが出たんです。中国から親族六人でいらっしゃるはずだったお客様が、あちらを出発する飛行機にトラブルがあって、どうしてもこられなくなってしまったからです」
不可抗力によるキャンセルでやってこなかった中国人グループについては顧慮しなくていいだろう。
「足止めされたお客さんの中には、予定が狂って怒る人もいたのでは?」
「いいえ。皆さん、常連のお客様だったもので、梨田さんをご存じだったんです。怒ったり迷惑がったりなさるどころか、警察の調べにとても協力的でした」
ホテルにとって、客からクレームを受けなかったという点では運がよかった。
「梨田さんの死について、そこで特に重要な証言をなさったのは?」
三人は顔を見合わせてから、鷹史、美菜絵、丹羽の順に答える。
「さぁ、どうでしょう。誰かが特別な証言をした、ということはなかったようですが」
「お客様がみんな梨田さんを知っていることに、警察の方が驚いていらっしゃいました。『梨田さんはこのホテルで有名人だったんですね』と」
「前夜、梨田さんと一緒に夕食をとったお客様がいらして、刑事さんからたくさん質問を受けていたご様子です」
その客に刑事が関心を示すのは当然だろう。自殺の前触れがなかったか、としつこく訊いたはずだ。
「夕食をとった方というのは、どういう人なんですか?」
「日根野谷さんとおっしゃって、呉服店のご主人です」丹羽が言った。「実は、その方も今、ここにお泊まりになっていますので、もう少ししたらお話ができるかと存じます」
「……何時ぐらいに戻るのかな」
小学生と母親ではあるまいし、宿泊客がみんな帰ってくる予定の時間をホテルの人間に告げて出掛けるはずもない、と思いながら呟いたら、丹羽は「外出はなさっていません」と言う。
「日頃、三時半から四時半までお部屋で午睡をとっていらっしゃいます。お目覚めになった時分に、お声をかけてみます」
ホテルで昼寝とは優雅極まりない。
「問題の日に泊まっていらした方のうち、二人にお会いできるんですね。そううまくいくとは思っていませんでした」
と言ったら、美菜絵がさらに幸運を上乗せしてくれる。
「もう一人、お会いできます。今夜チェックインするんです」
一月十三日の宿泊客は九人。梨田稔とタイ人夫妻とすでに話した影浦を引くと残りは五人。そのうちに三人に会えたら、残るは二人。芦屋市在住の萬夫妻だけだ。
「今夜いらっしゃるのは、どういう方ですか?」
「私の高校時代からの友人で、時々うちに泊まってくれるんです。梨田さんとラウンジでおしゃべりしたり、レストランで一緒にお食事をしたりしていました」
ここで机上の電話が鳴り、鷹史が「失礼します」と立って受話器を取った。短いやりとりで通話は終わったが、処理しなくてはならない事案が発生したらしく、美菜絵と短い相談をしてからこちらに向き直って、申し訳なさそうな顔をする。
「急用が入ってしまいました。三十分ほどかかりそうなので、その間に梨田さんがお使いになっていた部屋をご覧いただけますか。──丹羽さん、お願いします」
いつどんな用事が飛び込んでくるかもしれないホテルに、こちらが頼んで話を聞きにきているのだから恐縮してもらう必要はない。
「ご案内いたします」
丹羽が恭しく言った。
◇ ◇ ◇