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歪んだゴールの白線…『バッテリー』を凌駕する青春小説の傑作! #1 ランナー

長距離走者として将来を嘱望された高校1年生の碧李(あおい)は、家庭の事情から陸上部を退部しようとする。だがそれは、一度レースで負けただけで、走ることが恐怖となってしまった自分への言い訳にすぎなかった。逃げたままでは前に進めない。碧李は再びスタートラインを目指そうとする……。

累計1000万部超えの『バッテリー』シリーズなどで知られる、あさのあつこさん。『ランナー』は、舞台を高校陸上部に移し、走る喜びを描いた青春小説シリーズです。

*  *  *

白い道へと


呼吸が喉の中途にひっかかる。心臓が足掻く。汗がふき出し、濃紺の競技用ランニングシャツをぐしょりと濡らす。

これは何だ。と、碧李(あおい)は口に流れ込む汗を無理やり呑み込んだ。物を嚥下(えんか)する筋肉運動が、さらに息を押さえつけ鼓動を速める。
 
これは何だ。おれは、どうなってるんだ。何で……。
 
思考できない。今の自分が掴めない。傍らを過ぎていく選手の足音と体温だけが、やけにはっきりと皮膚に伝わる。競技中、誰かの背中を追うなんて、ほとんど初めてのことだ。いや、追うどころではない。ついていくことさえできない。学校別に色分けされたランニングの背中が次々と遠ざかる。一つ、また一つ、汗が染みてぼやける視界から消えていく。
 
頭上で鳶が鳴いた。試合前から陸上競技場の上空を緩やかに舞っていたやつだ。
 
――お兄ちゃん。
 
杏樹(あんじゅ)の泣き声がする。鳶の甲高い声と重なり、耳の奥底にこだまする。とてもリアルだ。
 
ゴールの白線が遥か遠くでぐしゃりと歪んだ。


杏樹の人差し指が、窓の上に斜めの線を引いた。加湿器から間断なく吐き出される蒸気のせいで、ガラスはうっすらと曇るほどに濡れているのだ。
 
自分の引いた斜線の上に大きく〇を描いてから、杏樹は振り向いた。口元をほころばせ、笑顔を作る。お兄ちゃんと碧李を呼んだ。
 
三日前、食事中にぽろりと抜けた前歯のあとが歪で小さな穴になっている。杏樹は五歳だ。平均よりかなり早く乳歯は抜け落ち、永久歯はまだ歯肉の中で動こうとしない。
 
「お兄ちゃん、これ、何に見える?」
 
碧李は読んでいた本から視線を上げ、ゆっくりと首を傾げた。
 
「うーん、何だろうな」
 
考えるふりをする。杏樹の笑顔が広がる。
 
「帽子をかぶった人かな?」
 
「ちがうよ」
 
「じゃあ……土星」
 
「ドセイ? ちがう」
 
「じゃあ……何だろうな」
 
「降参する?」
 
碧李が頷くと、杏樹は笑い声をあげた。それが合図のように窓ガラスがかたかたと鳴る。風が出てきたのだ。
 
「あのね、お団子」
 
「団子?」
 
「うん。えっと、あのね、胡麻のついたのとか、甘いのとか並んでるの。三つ並んでるの」
 
「ああ、串団子か。けど、一つしかないだろう」
 
「二つ、食べたの。お兄ちゃんと杏樹と一つずつ」
 
歯の欠けた口から舌が覗き唇を舐める。
 
「パパがね、食べるの。これ、パパのお団子」
 
どきりとした。マンションの一室には碧李と杏樹しかいない。わかっているのに、視線を巡らしてしまう。六畳二間とダイニングキッチン。それだけの空間が全てだった。電灯がついているのは、碧李たちのいる部屋だけで、古地図にも似た文様の壁紙が蛍光灯の明かりに白く浮いて見える。母はまだ、帰宅していない。二人だけだ。息をついてみる。兄の様子に頓着なく、杏樹は楽しい思い出を語るときの弾む口調でしゃべり続ける。このあたりの方言で『口がもとる』と言われる滑らかなしゃべり方を、杏樹は五歳ですでに獲得していた。
 
「パパとね、お団子、食べたでしょ。一つずつ食べたよね。ハトさんがいて、いっぱいいて、いっぱい飛んできたの」
 
三月の初めだった。前に住んでいた市の神社でのことだ。花見にはだいぶ早いなと呟きながら、父親の謙吾(けんご)が桜の枝を見上げたのだ。
 
覚えている。市は古い城下町で、後に希代の名君と称えられる七代目藩主が茶の湯をこよなく愛した風雅の人でもあったため、茶菓子の伝統が今に残り、老舗から新興店まで数多の和菓子屋が街のあちこちに点在していた。
 
謙吾はそんな店の中の、さして高級でもなく俗すぎもしない一軒で、三色の串団子と桜餅を買ったのだ。杏樹は、団子の方しか覚えていないけれど、本物の桜の葉に包まれた餅菓子も三人で食べたはずだ。
 
三月の初めだった。冬の名残が風景のそこここにひっかかっている季節だ。空は鈍色(にびいろ)の雲に覆われ、風は冷たく、桜の蕾はほころびの兆しさえ見せないまま枝とともに揺れていた。
 
「頼むから」
 
だいぶ早いなと呟いたそのあとに、桜の枝を見上げるふりをして、謙吾は続けた。
 
頼むから。
 
それは呟きであったけれど独り言ではなかった。背後にいた碧李に、確かに向けられたものだった。三月の初め。もう一年も前だ。
 
「杏樹は胡麻のついたので、お兄ちゃんはお海苔のついたので、パパが白くて甘いのを食べて」
 
「杏樹」
 
ちょっと声に力を込めて、妹のしゃべりを遮る。
 
「もう、やめろ」
 
杏樹の顔から表情が消えた。僅かに口をすぼめ目を見開く。母の生まれ故郷に近いこの街に越してきてからなのか、その前からなのか、気がつくと杏樹は時折、こんな風に何も読み取れない表情を作るようになっていた。たいてい父親の話をしたときで、それを碧李に咎められたときだ。見る度に、碧李は胸のどこかがぱたりと塞いだようで、息苦しさを覚える。できれば、妹にそんな顔をさせたくない。しかし、父親の話は禁句なのだ。特に母のいるところでは、触れてはいけない。『口がもとる』杏樹は、滑らかな舌のままに禁忌を犯してしまう。

電話が鳴った。受話器を耳に当てると女子高校生にしては低音の、その分思考力と艶を感じる声が碧李の姓を呼んだ。
 
「もしもし、加納(かのう)くん?」
 
「はい、そうです」
 
加納は、母方の姓だ。最初、サイズの合わない上着のようにぎこちなかった加納碧李という名に、このごろやっと違和を感じなくなった。
 
「前藤(まえふじ)だけど」
 
「ええ……わかってます」
 
「名前、言う前にわかった?」
 
「わかりましたよ」
 
「へえ、なんで?」
 
「声で」
 
「光栄だな。じゃあ用件もわかる?」
 
「まあ、だいたい……箕月(みつき)監督あたりの指示ですか」
 
「当たり。カンがいいね、加納くん」
 
東部第一高校陸上部のマネジャーである前藤杏子(きょうこ)は、受話器の向こうで密やかに笑ったようだ。それから、はっきりと強く息を吸い込んだ。
 
「練習に参加してほしいんだけど」
 
「それは無理です。監督もわかっていると思います」
 
「わかって納得してるなら、マネジャーにこんな電話、かけさせないよ。そうでしょ?」
 
「まあ、確かに」
 
「参加してよ」
 
杏子は、唇を尖らせたのだろう。見えないけれどわかる。性急に少し居丈高にものを言うとき、杏子の唇は形よく尖るのだ。間近で一度だけ見たことがある。さして肉厚でもなくリップクリームを薄く塗っただけの唇は、しかし艶めいて淫靡(いんび)にさえ見えた。たぶん、日没間近の赤みを帯びた光のせいだったのだろう。


高校入学とほぼ同時に陸上部に入部してから間もなくのこと、校庭の桜が完全な葉桜になった時季だった。謙吾が家を出、中学の同級生だったという女性の元へと去ってから、初めての夏が巡り来ようとしていた。
 
グラウンドを一人、走っていた。自主練習なんて大仰(おおぎょう)なものではなく、部活を終えた後、もう少し走りたいと思い、その気分に従っただけだ。夕焼けがすごかった。校庭も校舎も下校する生徒たちも、べたりと絵の具を塗りたくったかのように斑(まだら)のない朱色に染まっていた。影だけが黒い。自分の足先から伸びた影は、走るにつれ位置を変えるけれど、沈み込むような黒色だけは変化しない。履き慣れたシューズが土を蹴る。乾いた土ぼこりが夕日に煌きたつ。呼吸と身体のリズムが重なり、確かな地の感触が足の裏から伝わってくる。おれは、もしかしたら、と思うのはこんな日だ。
 
おれは、もしかしたらどこまでも走れるんじゃないか。どこかに果てがあるのなら、その果てまでも越えていけるんじゃないか。ふっと思う。
 
下校を促す放送がグラウンドに流れた。もう走り終えなければならない。やはり、果ては捉えられない。あまりに遠くて捉えられない。
 
碧李は、部室近くにある水道の前で足を止め、ストレッチを入念に繰り返したあと、栓を全開にしてほとばしる水で顔を洗った。いつもなら、同学年の部員が数人、雑談を楽しみながら待っていてくれたりもするのだが、その日はどういうわけか誰もが忙しげに帰ってしまった。たぶん、数日後にせまった“校内学力診断”テストという、実施目的をそのまま長い名目にした試験のせいだろう。東部第一は、この地方では屈指の進学校でもあった。
 
走った後はいつも火照る。皮膚も心も身体の奥も薄く微熱を持っていつもより過敏になるのだ。鎮めるために、丁寧に水で洗う。それは、自分を走るという唯一つの行為から、現(うつつ)の諸々に引き戻すための儀式でもあった。走っている間は忘れている。父のことも母のことも妹のことも未来のことも過去のことも、何一つ関係ない。だから、忘却できるのだ。走り終え、水で火照りを鎮めるころ、それらは忠実な犬のように碧李の元に還ってくる。
 
顔を洗い終わり、タオルを首に掛けていないことに気がついた。軽く頭を振る。髪の先から水滴が散った。練習着の裾で拭こうと、顔を上げたとき目の前に真っ白なタオルが差し出された。

◇  ◇  ◇

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