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ZERO〈上〉 #5

──アイツなのか?

峰岸が注目した三人のうちの一人だった。諜報容疑性を持つとすれば、自称“台湾人”のこの男がまず一番怪しい。

「でも、隣がプレイに行っちゃったら、オレたちは外に出られないよな?」

隣の男についての行動形態を確認しようとして遠まわしに尋ねた。

この店にその筋のマニアたちが集まるのは、ボンデージファッションの女の子を見るためでも、いかがわしいショーを見学するためだけでもないことを事前に調べ上げていた。ホステスとの直接交渉さえ成立すれば、外に連れ出してSMプレイが堪能できる。それが、この店の隠された“売り”だった。料金は一時間二万円。場所は、ラブホテルか、店が所有する近くのマンションの一室のどちらかを客が選ぶ。ただし、いわゆる本番はない。それだけで、客たちは本当に性欲を処理できるのだろうか。峰岸はふとそんなことが気になった。

「内緒よ」

さやかが声を潜めた。

「あのオジサン、最近、お金、ないんだって。愛ちゃん、そう言ってたわ」

「それでもご熱心に?」

「そう、そうなのよ。もう、しつこくてストーカー寸前だって。金もないのに。あ、この話、本当にこれよ」

さやかは人差し指を唇に立てた。

金がない──峰岸の頭の中で激しく鐘がなった。金のためなら何でもやるやからはどこにでもいる。だが、金で動く奴ほど信用が薄いということを峰岸は長い外事警察官の経験の中で嫌というほど味わってきた。騙し合いが常識であるこの世界。金を打つ(渡す)よりも、女を抱かせるよりも、人間どうしの心の交わり──獲得作業ではそれが何より求められるとあいつらでは教育している。だがそれも“正解”ではない。人間は、心のひだまで見せつけ合うことは決してない。誰もが必ず秘密を隠し続け、襞に埋め込まれたもう一つの自分をさらけ出そうとはしないものだ。

「ほらね、あそこ」

峰岸はさやかの視線を追って何気なく首を回した。

“台湾人”と自称する、その男の毛深く、太くて短い指が、ホステスの太腿の奥と膝の間を行ったり来たりしている。峰岸が目をつけた残り二人の男も、完全に諜報容疑者の枠から排除できるような雰囲気ではなかった。いずれも色彩のないスーツに地味な紺色のネクタイ。だが目だけは気になる輝きをたたえている。

黒いカーテンが開いた。朱色のセーターを着込んだ伊庭聡一巡査部長が脂ぎった男に伴われて店内に進入。一番手前のソファに案内された。さらに五分後。再び、カーテンがめくられた。ベージュのカーディガンを羽織った、緒方光紀おがたみつのり巡査部長が首を出した。店内にはまったく視線を流すことなく、脂ぎった男が指差すソファ──伊庭の対面──に腰を落ち着けた。体制は整った。

すでに籠に入った小鳥が、確かにこの中に一羽いるはずだ。いったい、どいつだ?

峰岸は、さやかに顔を固定したまま、巧みな眼球の動きで周囲に視線を送った。誰が席を立つのか。そして、誰が〈ユウカ1〉に近づくのか。不審な三人のうちで誰が、〈オレが、これから“仲介者”として、お前から防衛庁の情報をいただく〉と囁くのだろうか。

海上自衛隊員にちらっと目をやると、涙目をしたママが彼の耳元にセレナ色の口紅が塗りたくられた唇を近づけていた。卑猥な言葉でもかけているのだろうか。自衛隊員は戸惑った顔をしてママを見つめていた。

峰岸はすでに〈仲介マルハン〉を確信しつつあった。峰岸が注目していた三人のうち、“台湾人”だけが、〈ユウカ1〉に向けて何度か視線を送っている。そのためには、顔をわざわざ九十度向けなければならないのに──。

──やはり、この“台湾人”か。

峰岸は、瞬間的な動きで、客に偽変して店内で配置についている二人の部下たちにハンドサインを送った。そのサインは〈ステージに近いソファに座る男を警戒せよ〉という指示を意味した。

部下たちから素早いハンドサインで〈了解〉という合図が返ってきた時、またあの脂ぎった男がカーテンの奥から姿を現した。その後ろから、に焼けた顔の中央にバナナをのせたような男が姿を見せた。目と目の間が異常に離れたその面相は、福笑いのコマのようにも見えた。

「ここしか、あいていませんでして……」

“大鼻の男”は手を振って脂ぎった男を帰した。峰岸たちが座るソファから二つ手前の席へ案内された大鼻の男は座るなりタバコを取り出して、煙をゆっくりと天井に向かって吐き出した。

峰岸は軽い緊張を覚えた。また、新たな“候補”が入って来たからだ。これで疑いのある者は四名。大使館員のすべての顔写真を頭に叩き込んでいる峰岸は、少なくともこの中に中国大使館員が存在しないことだけは確認した。

店内が急に暗くなった。二回目のショーが始まるわよ、とさやかが囁いた。

突然、“台湾人”が席を立った。峰岸は全身を緊張させた。だが、店の右隅にあるトイレへと駆け込むのを見て、気持ちを落ち着かせた。用をたしてからゆっくりと接線を持とうという腹か──。

ヘロイン中毒者が喜びそうなカタルシスへといざなうようなメロディが流れ始めた。入って来たばかりの大鼻の男も、かされるように立ち上がってトイレに向かった。膀胱ぼうこうが満杯では性欲が高まらないのはどの男も同じというわけだ。

大鼻の男と入れ替わるように“台湾人”がソファに戻って来た直後、後藤の左手がそっと伸ばされて、ソファの上に置かれた。そして袖口に装着された鉛筆の芯ほどのCCDカメラが任務を開始した。その先にはちょうど〈ユウカ1〉が座る空間があった。

さやかにまっすぐ視線を向けていた峰岸は、さらに饒舌じょうぜつになった。そして同時に“被疑者”の一挙一動を捕捉し続けた。

峰岸はこの瞬間に震えた。心臓が激しく波打ち、その拍動音がはっきりと聞こえる。検挙寸前の一瞬は、射精感よりも強烈な快感を与えてくれる。実際、峰岸は下半身に鳥肌が這い上がってくるのを感じた。

さあ、来い。目の前で披露してくれ。フラッシュコンタクトのドラマチックな瞬間を──。四人のうちの誰かが、〈ユウカ1〉に近づき、そして、〈オレが引き継ぐ〉と一瞬のうちに囁く瞬間が、今、目の前に迫っている。

隣に座る後藤は、何度も手のひらを、おしぼりに擦りつけては滲んでくる汗を拭っていた。

トイレから大鼻の男が戻って来たのを見届けたママは、ステージ横に立つホステスに向かい、指でマルを作って微笑ほほえんだ。

首輪をはめられたロングヘアの女が、四つん這いのままステージに引き連れられて来た。首輪から伸びる赤いロープの先は、陰部だけを薄い下着で隠したハイレグの黒いボンデージ姿のもう一人の女の手に握られている。

その時、不可思議な光景が峰岸の目に入った。“台湾人”が、うつむいたままテーブルをじっと見つめているのだ。

──妙な動きだ。

“台湾人”の雰囲気に微かな特異動向がうかがえる。テレビカメラがターンするように、峰岸は視線をぐるりと一周させた。

“台湾人”の顔は醜く歪んでいた。

峰岸は、はっ、として思わず視線を外した。

限界にまで見開かれた目の中で、“台湾人”の視線が自分に注がれている──。

峰岸の頭の中で警告音が激しく鳴り響いた。

◇  ◇  ◇

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