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どうしても生きてる|七分二十四秒めへ 1|朝井リョウ

 谷沢依里子(やざわよりこ)はハサミを差し出しながら、木之下佳恵(きのしたよしえ)のことを思い出していた。

「えっ、あ、ありがとうございます」

 隣のデスクの永野明日美(ながのあすみ)は、戸惑いながらもそのハサミを受け取った。自分が探していたものがどうしてバレているのか、不思議に思っているのだろう。

「左利き用のって、備品にないんだよね」

 依里子は、指先に残るハサミの刃の冷たさを擦り取りながら呟く。椅子に腰を落ち着けたばかりの明日美は、数秒前まで、誰でも使うことのできる備品が収められているキャビネットをしばらく覗き込んでいた。ボールペンやクリップはまるで増水した川のようになみなみと溜まっているのに、あの鈍い色のキャビネットには依里子たちの欲しいものだけがない。

「助かります」

 明日美はそう言うと、細い指を持ち手に通し、封書をじょきじょきと切り始めた。なかなかの勢いに、中身まで一緒に切ってしまっているのではないかと不安になるが、見ればきちんと上部ギリギリの辺りをまっすぐ切り落としている。

 一緒に働き始めてまだ数日しか経っていないけれど、ファイルをきれいに折ったり、細かな糊のり付けが美しいことから、要領がよく器用な子だということがわかる。着任初日に渡した引き継ぎ資料も、その夜のうちによく読み込んだのだろう、次の日から何を教えてもその業務が全体の流れのどの部分に当たるのかなんとなく理解しているようで、頼もしい。

 午前中の業務はまず、大量に届く郵便物を各部署に配ることから始まる。中には宛先に社名しか書かれていないものもあり、そのときは開封し、内容からどの部署の誰宛のものなのか判断する。この作業をしていると、脳がやっと、一日が始まったことを認識してくれる。ドラマに出てくる社会人のように、朝からヒールを鳴らして何件も取引先を回るなんてこと、自分には到底できる気がしない。

 だからこうなったんだろうな。

 依里子は、止まりかけていた両手を大袈裟に動かし始める。考えても仕方のないことなのだから考えないでおこう、自分自身にそう何度も誓ったことほど、不意に、ふっと全身を丸ごと覆い隠すように降ってくる。

 依里子がこの会社に勤め始めた四年前、派遣社員は三人いた。二人とも依里子より年上で、優しかった。業務の内容的には前の会社のほうが楽だったが、当たりのきつい先輩がいないというだけで、こちらのほうが段違いに居心地が良かった。

 二年ほどで、二人いた先輩のうちの一人の雇用が止まった。三人で担当していた業務を、残された二人、木之下佳恵と依里子で担当するようになった。はじめはなかなか大変だったけれど、慣れてくればどうにか二人でもこなせるようになった。半年前、佳恵の契約が更新されないことが決まった。

 その後、新しい人が補充されるのかと思ったけれど、されなかった。二人分の仕事を必死に一人でこなしながら、正社員である男の上司からは、引き継ぎ書を更新しておいて、と言われていた。依里子は、やっと、派遣の事務をもう一人増やしてもらえるのだと思った。

 依里子は一度、肩を回す。宛先不明の封書の処理を終え、次の作業に入る。グループ会社に出向した人への封書は、自分で転送の手続きをする。異動で別の支社へ転勤になった人への封書は、会社の転送システムを利用する。

 佳恵に替わり、新たなパートナーとなる人のために、依里子は引き継ぎ書を丁寧に更新していった。かつて佳恵と二人で仕事を回していたころのように、お互い助け合いながら、たまに愚痴を言い合いながら、業務を遂行することが理想だった。

 まさか、新しい人が補充されるまで頑張って一人でどうにか繫いだ半年間が、この業務に対する人員は一人で十分だと判断される材料になるとは思わなかった。そして、新しい人が補充されることが決まった途端、自分の雇用が切られるとも、思っていなかった。

 先週着任した永野明日美は、佳恵より二十六歳、依里子より十八歳若い。私立の大学を出て就職に失敗し、いま二十四歳だという。

「げっ」

 突然、明日美が声を上げた。どうしたの、と尋ねると、「あ、いや」とはじめは歯切れが悪かったが、観念したようにこう続ける。

「またバカなユーチューバーがニュースになってて」

 パソコンでネットニュースを見ながら作業していたことが後ろめたかったのかもしれないが、依里子と一緒に働くのは今日が最後ということで開き直ったのだろう、「私、コスメ買うときとか結構ユーチューバー参考にしてるんで、なんかこういう一部のバカのせいでユーチューバー丸ごとクズみたいになるの、嫌なんですよね」明日美は、手を動かしたままぺらぺらと喋り続けた。

「炎上するユーチューバーって、たいてい男の集団なんですよ。ファミレスで全品頼んでみたとかジャンケンで負けたやつが吐くまで嫌いなもの食べてみたとか、やってもなんの意味もないことやって、それで炎上とかなってんですからほんと救いようないですよね」

 依里子は隣に座る女性の横顔を見る。その向こう側に、彼女が落ちた企業から内定を得た男子学生の姿が浮かび上がる。

「私が観てるビューティ系、コスメとかメイクの動画出してる人たちのことビューティ系っていうんですけど、ビューティ系のユーチューバーは女の人がひとりでやってることが多くて、基本的に役に立つことばっかり配信してるんですよ。料理とかメイクとか、私たち女が生きていくうえで必要な技を教えてくれるっていうか」

 私たち女、という言葉に、依里子は少し驚いた。こんなにも年の離れた人間が使う〝私たち〟に、自分が含まれているのは、初めてのことだった。

「男のユーチューバーが別にやらなくていいことばかりやってるのって、男ってだけで生きていける世の中だからですよね」

 じょきん、と音を立てて、ハサミの刃が重なる。「こんなに世の中がジェンダージェンダーってなってるのに、男のユーチューバーって公開彼女オーディションとかやるんですよ、審査基準とかも本当サイテーで」明日美はそう言うと、ハサミから手を離し、別のニュースにアクセスするためマウスをクリックした。

 ニュースもトレンドワードも、アクセスするたび入れ替わる。

 女性が女性として生きること。この時代に非正規雇用者として働くこと。結婚しない人生、子どもを持たない人生。平均年収の低下、社会保障制度の崩壊、介護問題、十年後になくなる職業、健康に長生きするための食事の摂り方、貧困格差ジェンダー、毎日毎日、様々なトピックスが分刻みで入れ替わるニュースサイトのトップページ。

 明日美はそれに、かじりついている。すべてを見逃さないように、生き抜くために大切なものをたったの一つも摑み逃さないように。

「それ、あげるよ」

 依里子がそう言うと、明日美は「え?」と顔を上げた。

 明日美の細い指に支えられているハサミを見つめながら、依里子は、木之下佳恵のことを思い出していた。

「売ってないんだよねえ」

 声がしたほうを振り返ると、そこには佳恵が立っていた。

「左利き用のハサミって、コンビニじゃあ売ってないんだよお」

 佳恵は顎の下の肉をふわふわと揺らしながら、笑っている。「だからあげるよ、さっき貸したやつ。うちにまだあるし」

 そのころ、この会社に派遣されて二日目、その街の新参者だった依里子は、初めて入ったコンビニにさえ遠慮気味だった。

「こんなところでも弾かれるの、地味にキツイよねえ」

 明るくそう言う佳恵の手には、ミネラルウォーターが握られていた。会社の中にあるウォーターサーバーは、正社員しか使えない。

 佳恵はいつか、どこに行ってもあだ名が〝お母さん〟になってしまうと言っていた。

 柔らかい猫っ毛をひとつにまとめていて、いつでもあったかそうなブランケットを使用していた。背は依里子よりもずっと小さく、百五十センチもなかったかもしれない。太り気味だから間食やめなきゃ、と言いながら、毎日、昼休憩に入る十二時を心待ちにしていた。化粧は薄く、服の色もモノトーンのことが多かった。携帯の待ち受けは、愛してやまない飼い猫の写真だった。

 佳恵は依里子より八歳年上で、つまり依里子より八年間長く、この世界をひとりで生きていた。派遣社員という、いつ雇用が打ち切られるかわからない世界を、正社員の人たちが弁当を食べたりコーヒーを飲んだりしているリフレッシュルームを使えない世界を、容姿や体形の次に指輪のついていない左手の薬指を目視され、どこか合点がいった表情を浮かべられる世界を、依里子より八年も長く、笑顔で生きていた。

「昼休みのあとって眠くなるよねえ」

 隣を歩く佳恵は、昨日、ランチをごちそうしてくれた。会社から少し離れた定食屋まで歩きながら、「初日くらい、ごちそうしないとねえ」「近すぎるところに行くと色んな人が来るから、ちょっと歩くよお」と笑った。

 店に入ったら入ったで、狭い店内に響き渡るような声で「私も入ったばかりのとき、井出(いで)さんにこうしてごちそうしてもらったからねえ」「どんどん脂っこいものが食べられなくなってきちゃってねえ」と話し続けていた。

 そんな様子を見て、依里子はてっきり、次の日からもこうして一緒にランチをするような気がしていた。その予想はきれいに外れた。

 佳恵はチャイムが鳴った途端、携帯電話を握りしめ、オフィスを出ていく。いつもおっとりしているのに、そのときだけやけに動きが俊敏に見えた。

 依里子はふと、静かになった右隣を見る。せっせと歩いていたはずの、佳恵の姿がない。

「木之下さん?」

 後ろを振り返ると、そこには、ミネラルウォーターが入ったトートバッグを手に、足を止めている佳恵の姿があった。

「え、あ、ごめんごめん~」

 佳恵は、車道を挟んで向かい側で行われていたお店の工事を見ていたようだった。ちょうど、店名を一文字ずつ壁に貼り付けているところらしく、ラーメンまんぷ、まで、作業が進んでいた。

 こちらに向かってくるころころと丸い体を見ながら、依里子は、ラーメンなんてもうどれくらい食べていないだろう、と思った。同時に、脂っこいものどころか、アジの開き定食さえ完食できていなかった昨日の佳恵の姿を思い出した。

「どっか、地方のチェーン店なんですかね」

 東京進出、と書かれた看板を見ながら、依里子がそう話しかける。だけど佳恵は返事もせず、まだ店のことを気にしていた。頭にタオルを巻いた若い男たちが、ラーメンまんぷく、に続く最後の一文字を運んでおり、佳恵はその光景をずっと見ていた。

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