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美しすぎる世界…橘玲さんが描く驚愕の金融情報小説! #2 永遠の旅行者

元弁護士・真鍋に、見知らぬ老人麻生から手紙が届く。「二十億の資産を息子ではなく孫に相続させたい。ただし一円も納税せずに」。重態の麻生は余命わずか、息子悠介は百五十億の負債で失踪中、十六歳の孫まゆは朽ちた家に引きこもり、不審人物が跋扈する。そのとき、かつてシベリア抑留者だった麻生に殺人疑惑が浮上した……。

今、巷で話題沸騰の『バカと無知』やベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『永遠の旅行者』は、そんな橘さんによる驚愕の金融情報小説。姉妹作品『マネーロンダリング』『タックスヘイヴン』とあわせて、お楽しみください!

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ビッグアイランドのビーチは西海岸を走るハイウェイ沿いに点在している。北側のコハラ・コーストには美しい白砂のビーチが、キラウエア火山に近い南のプナルウにはミドリウミガメが産卵に訪れる神秘的な黒い砂のビーチがある。

カハルウ湾に沿ってアリイ・ドライブを南に下ると、バニヤンズ、ラアロア、カハルウの三つのビーチパークが順に並んでいる。バニヤンズはビッグアイランドで有数のサーフポイントで、珊瑚礁に囲まれたカハルウビーチは家族連れで賑わう人気のリゾートだ。湾の中ほどにあるラアロアビーチは「魔法のビーチ」として知られており、溶岩の合い間にできた白砂の浜辺が潮の満ち引きの影響で現われたり消えたりする。
 
濃紺のジャガー・コンヴァーティブルは、別荘の門からコテージへとつづく小道に停めてあった。
 
後部座席にブギーボードとビーチタオルを放り込む。サングラスをかけ、イグニッションキーを回し、フードを全開にする。ラジオでは、季節外れの嵐が近づいていると言っていた。空を見上げるが、コバルトブルーのキャンバスには雲ひとつない。アクセルを軽く踏むと、四五〇psのエンジンが獣のように低く唸った。
 
早朝の道路にほとんど車の姿はない。すこし寒いくらいの風を感じ、十五分ほどのドライブでラアロアビーチのパーキングに着いた。ビーチマット、ビーチタオル、ブギーボードを抱え、バッグと着替えは車のトランクに放り込んでおく。
 
アリイ・ドライブ沿いのビーチエリアはリゾート開発が進み、ホテルやコンドミニアムが建ち並んでいる。午前十時を回ると宿泊客が活動をはじめ、ビーチは人で溢れる。混雑を嫌うロコたちは朝早くやってきて、午前中には引き上げてしまう。ほんとうはノース・コハラの誰もいないビーチが好きなのだが、今日はそこまで足を延ばす余裕がない。
 
駐車場を抜け、防砂林を越えて砂浜に出ると、一瞬で空気が変わる。打ち寄せる波の音。肌を焼く太陽。潮風の匂い。人が海に魅せられるのは、それが異世界への入口だからだ。
 
ビーチにはすでに数組の先客がおり、溶岩に挟まれた狭い砂浜に思い思いビーチマットを広げていた。六十代と思しき白人男性が波打ち際を黙々と走っている。カウボーイハットをかぶったまま海に浸かっている男がいる。三日月形の湾はあくまでも透明で、色とりどりの珊瑚礁が海岸からでもくっきりと見えた。
 
標高四二〇〇メートルのマウナ・ケアを越えて日が昇り、真っ青な空に綿菓子のような雲が浮かんでいる。Tシャツを脱ぎ、ブギーボードを抱えて海に出る。水は思いのほか冷たい。湾の北側のサーフスポットに、波を待つサーファーたちが浮かんでいる。
 
ブギーボードに腹這いになり、パドリングで沖に出る。このあたりはゆるやかに湾曲した海岸線の内側にあたるが、意外と力強い波が来る。遊泳には適さないので、五分もすればあたりには誰もいなくなってしまう。
 
ボードの上に仰向けになり、目を閉じる。両手を思い切り伸ばしてバランスをとり、身体を波にゆだねる。
 
肌の焼ける感触。天空を舞う風の音。力強い波のうねり――。それ以外はなにもない。なにも聞こえない。なにも見えない。
 
岸がかろうじて見えるあたりで反転し、波を待って全力で水を切る。気管支に海水が入り、むせて息ができなくなるが、かまわず泳ぎつづける。波に乗った瞬間、意識は飛び、肉体は溶け、海と融合する。地球の鼓動が伝わってくる。
 
ふたたび沖へと泳ぎ、ジェットコースターのような波を待つ。飽きるまでそれを繰り返し、ようやく浅瀬に辿り着くと、その場に座り込んで荒い息を吐いた。
 
気がつくと、いつのまにか日はずいぶん高くなっている。風の匂いが甘い。ひと筋の真っ白な雲が南へと流れていく。
 
波打ち際に横たわり、波が全身を洗うのに任せる。ファラライ山の頂が絹のヴェールで覆われたように煙っている。まぶしいほどの緑の稜線を、雲の影がゆっくりと横切っていく。
 
美しすぎる世界。
 
だからこそ、人は不吉な嵐の予感に怯えるのだ。
 
浜辺の簡易シャワーで海水を洗い流し、駐車場に向かう途中で「キョウイチ!」と声をかけられた。ライフガードの監視所にベスが座っている。白いTシャツが汗で濡れて、豊かな胸の曲線がまぶしい。ビキニの水着から伸びた素足は見事な小麦色に焼け、髪を無造作に後ろで束ね、派手な金色のサングラスをかけている。
 
「Hi! What's up?」ベスが言った。いつもの挨拶だが、日本語にするのは難しい。「おはよ。なんか面白いことあった?」という感じだろうか。
 
「これから仕事でホノルルに行くんだよ」そうこたえると、ベスは悪魔の呪いでも聞いたかのように胸で十字を切った。

エリザベス・クリスチャンセンは地元のサーファーで、仲間と交替でビーチのライフガードをしている。親は西海岸のヒッピーくずれで、ハワイに憧れてこの島に移り住んできたものの、まともな職を見つけられず、ベスが十八歳のときに離婚してメインランドに帰ってしまった。その醜態にうんざりし、ベスは親を捨てて島に残ることにした。それからは、サーフィンの合い間にアルバイトをして食いつないでいる。
 
ベスの父親は、その名のとおり北欧系の白人だが、母親は黒人とネイティヴ・アメリカンの混血で、母親から譲り受けた黒い髪と褐色の肌から、ハワイアンとはなんの血のつながりもない西海岸生まれなのに、誰もがベスをロコと呼んだ。
 
ベスと知り合ったのは三年前のことだ。はじめて訪れたこの島が気に入って一ヶ月ばかり暮らした。ベスはコーヒー農園でアルバイトをしており、そこにコーヒー豆を買いにいった翌日、サーフボードを抱えた彼女にビーチで偶然出会ったのだ。ベスは当時、ハイスクールを卒業したばかりで、サーフィンの腕を磨いてノースショアの大会に出ることを夢見ていた。
 
その半年後にビッグアイランドを訪れたときはコーヒー農園は収穫期を終え、ベスはワイコロアリゾートのファストフード店でウェイトレスをしていた。
 
地元のサーファーたちは、小遣い稼ぎに観光客にサーフィンを教えている。ホテルでは初心者向けのサーフィン教室を開いており、パドリングとライディングの基本を覚えれば、一回のレッスンでとりあえずボードに立てるようにはなる。
 
気に入ったコテージを見つけ、この島に住んでみようと決めてから、サーフィンをやってみたいと考えていた。だが、騒々しいアメリカ人観光客に交じってサーフィン教室に参加するのは気が進まないし、かといってビーチにいるサーファーに声をかける度胸もない。そんなとき、ベスのことを思い出した。コーヒー農園で新しいアルバイト先を聞き、訪ねていって、「突然で悪いんだけど、波に乗る方法を教えてもらえないだろうか」と頼んだのだ。
 
初日のレッスンはひどいものだった。ベスはパドリングで波をかわす方法だけ教えると、いきなり沖に連れていって、五フィートの波に放り出した。二〇フィートを超える大波を相手にする地元のサーファーにとっては子どもの遊びのようなものだろうが、初心者に乗りこなせるわけもなく、その日はしこたま海水を飲んだだけで終わった。あとで聞くと、高級住宅地に住み、ジャガーのオープンカーを乗り回す日本人を気に食わない金持ちだと思ったらしい。
 
「最初は、絶対ナンパだと思ったの」ベスは言った。「だって、一〇万ドルもする車に乗ってるサーファーなんて聞いたことないもの」
 
別荘も車もすべてが借り物だと知ったとき、ベスは口をぽかんと開け、それから腹を抱えて笑い出した。
 
「大金持ちだと思ったら、家も、車も、サーフボードすらないの? じゃあ、キョウイチが持ってるものってなに?」
 
「洋服が五、六着と、下着がすこし。スニーカーとビーチサンダル。あと、ノートパソコンが一台と本が一冊」
 
「それって、あたしより貧乏じゃない!」
 
ベスは、風変わりな外国人に冷たくしすぎたと反省したらしい。翌日からほぼ毎日いっしょに海に出て、三週間後には一〇フィート級の波でもなんとか立てるようになった。もっとも、サーフィン熱はそのときだけで冷めてしまったのだけれど。
 
「ねえ、独立記念日のパーティ来る?」ベスが訊いた。「今年こそジャンがブタを焼くんだって」
 
ジャンは、ベスが働いていたコーヒー農園のオーナーだ。彼も米本土からの移住組で、有機農法で極上のハワイ・コナを栽培している。その彼がはじめてカルア・ピーに挑戦するということで盛り上がっているらしい。
 
カルア・ピーは野豚をティーリーフでくるみ、蒸し焼きにしたもので、ハワイでは儀式に欠かせない聖なる料理だ。観光客向けのルアウ(ポリネシアンショー)では必ず出てくるが、手間も時間もかかるので地元の人はあまり食べる機会がない。
 
「ジャンが、キョウイチにもぜひ来てほしいって」
 
「行きたいんだけど、それまでここにはいられないよ」
 
今回の入国は二月末だから、五月の終わりまでには国外に出なくてはならない。
 
「なんで? ずっとこの島で暮らせばいいじゃない」
 
ベスはまだいちども外国に行ったことがない。ほとんどのアメリカ人は、自分の国から一歩も出ることなく一生を終える。滞在日数を限られた人間がいることをうまく想像できないのだ。
 
「こんどはどこに行くの?」
 
「まだ決めてないけど、東南アジアのどこか海の見える場所かな」
 
「ふーん」ベスはサングラスを外してこちらを見た。父親譲りの澄んだ青い目をしている。
 
強い日差しに目を細めて、ベスは言った。
 
「でっかい波の立つビーチを見つけたら、あたしに教えて」

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