想いは募るばかり…世界的作家が描く究極のエロティシズム #5 ホテル・アイリス
染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹のしわの間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は、醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となったとき、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる……。昨年、ブッカー国際賞にノミネートされたことでも話題となった、日本が誇る小説家、小川洋子さん。『ホテル・アイリス』は、17歳の美少女と初老の男の「SM愛」を描いた、衝撃の問題作です。その冒頭を特別にご紹介しましょう。
* * *
ええ、とっても親切にしてもらったわ。お菓子とお茶をたっぷりご馳走してもらったの。シュークリームやフルーツケーキやシャーベットよ。見たこともない外国製のお菓子ばかり。上品で優しいおばあさんだった。中央広場の裏側にある豪華なマンションに住んでるの。五つも部屋があるのに、一人暮らしなんですって。何度も何度もお礼を言われたわ。あんなに人から感謝されたのは初めて。ちょっと手を貸して、病院へ連れて行ってあげただけなのに。きっと淋しかったのね。古いアルバムを出してきたり、画集を見せてくれたり、レコードをかけたり、いろいろ気をつかってくれた。「もう、帰ります」って何度も言ったんだけど、そのたびに引き止められて、それでこんなに遅くなっちゃったの。ごめんなさいね、ママ……。
思っていたよりずっとすらすら、でたらめが出てきた。後ろめたさはなかった。最初についた嘘がどんどん広がってゆくのを、むしろおもしろがっていた。見たこともないお菓子やマンションの話をしながら、心の中では翻訳家のことを考えていた。皺になったネクタイや、彼の足元を飛んでいた紋白蝶のことを思い浮かべていた。
「ああ、そうかい」
母はたいして興味を示さなかった。
「で、手土産の一つもないのかい。気のきかないばあさんだね」
ただ、そう付け加えるのを忘れなかった。母が何か疑いを持ったのではないかと、あわててわたしは言った。
「たくさんご馳走になったから、お腹が一杯なの。だから晩ご飯はいらないわ」
少しでも早く一人になりたかった。フロントに閉じこもり、今日起こったことを心の中でよみがえらせたかった。そうしないと、自分の見た風景が全部幻になってしまいそうな気がした。
やがて、毎日午前十一時にやって来る郵便配達人を待つのが日課になった。翻訳家はお金持の老婆にふさわしい名前を考えついた。もし母に何か聞かれたら、例のおばあさんと文通しているのだと答えるつもりだった。しかし運よく母は、いつも十一時にはフロントから遠い場所にいた。
配達人は愛想のいい若者で、カウンターまで郵便を運んでくれた。天気についてか、ホテルの景気についてか、二言三言話し掛けてきた。わたしはただ相づちを打つだけだった。
配達人の自転車が通りから見えなくなっても、わたしはカウンターに置かれた郵便の束に手をのばさなかった。翻訳家からの手紙を簡単に発見してしまうのがもったいなかったからだ。あるいは、手紙が来ていないことを、すぐ知るのが怖かった。
前にもこんなふうに、何かを待っていたことがあった気がする。そう、父の帰りだ。毎晩毎晩、父が酔いつぶれずに帰ってきてくれますようにと祈っていた。ベッドの中で、どんなささいな物音にも耳を澄ましていた。待つことだけがわたしの夜の仕事だった。でもたいてい、待ちくたびれて眠ってしまった。夜明け前、父と母が喧嘩する声で目が覚め、自分の祈りが報われなかったことを知らされた。
あの日、父は帰ってこなかった。次の日の夕方になってもまだ行方知れずだった。わたしは父の姿が通りの向こうにあらわれるのを早く見つけようと、ロビーを出たり入ったりして母に叱られた。
結局夜遅く、父は死体になって帰ってきた。顔が腫れ上がり、血の塊で汚れ、違う人のようだった。あれ以来わたしは、なにものも待つ必要がなくなった。
手紙にはたいしたことが書いてあるわけではなかった。季節の変化、仕事の進み具合、マリーの様子、二人で岬を散歩した日の回想、わたしの健康への気遣い、そんな事柄が堅苦しいほど礼儀正しい言葉で書き付けてあるだけだった。
けれどわたしには、翻訳家の筆跡を見つけ、カウンターの陰に隠れてこっそり手紙を読む時間が、一日のうちで一番大事だった。注意深く封を切り、三回か四回繰り返して読み、男がつけたとおりの折り目で便箋をたたんだ。
わたしは男の顔を思い出せなかった。老いの影以外、彼の顔を特徴づけているものは何もなかった。覚えているのは、伏し目がちの視線、ちょっとした指の仕草、息遣い、声の響きだった。それならどんな微妙なニュアンスでも正確によみがえらせることができるのに、全部をつなぎ合わせようとすると途端に、輪郭がぼやけてしまった。
母がダンスのレッスンに出掛け、客の到着までには間がある午後、わたしはもう一度ポケットから手紙を取り出し、『マリ様』と書かれた最後の一行まで乱れない、ブルーブラックのインクの連なりを眺める。
そうしていると、文字の一つ一つに見つめられているような気分になる。髪に触れようとした男の指の感触に似ている。自分が彼に求められているのを感じる。待合室で起こったあの一瞬を繰り返し味わうため、わたしは手紙を読み続ける。
「さあ、もっとお食べ。おばさんが取ってあげよう」
掃除の手伝いに来るおばさんは、母の古い友だちだった。ご主人に早く先立たれ、洋裁とアイリスのアルバイトで生活していた。働き者だがよく食べるのが欠点だ、と陰で母はこぼしていた。お昼ご飯はうちで提供する契約になっていたからだ。
「若い人はどんどん食べなくちゃね。それが一番の基本ですよ」
そう言ってボウルに残ったポテトサラダをわたしに勧め、ついでに自分の皿にもよそった。
食べている間中、母とおばさんはお喋りした。ワインを二杯ずつ飲んだ。ほとんどが他人の噂話だった。フロントの電話が鳴ったり、勝手口に配達のトラックが着いたりすると、出て行くのはわたしの役目だった。
「マリちゃん、ボーイフレンドできた?」
時々おばさんは話し掛けてきたが、わたしは適当に受け流すことにしていた。
「ホテルに閉じこもってばかりじゃ、気晴らしもできないでしょ? もうちょっと、お洒落した方がいいと思うわ。いくらかわいい子でも、何にもせずにただ坐ってるだけじゃ、男の目にとまらないわよ。今度ね、おばさんがドレス作ってあげる。胸と背中が大きくくれて、腰にぴったりくっつくセクシーなやつ。どう?」
おばさんはワインを喉に流し込み、含み笑いをした。けれど一度だって彼女は、わたしのために何かを縫ってくれたことはない。
わたしは彼女に盗み癖があるのを知っている。金銭的価値などない、つまらないものばかり盗むのだ。しかし、ホテルの備品と母の持ち物には絶対に手を出さない。母に知られないよう、緻密に計算された品物だけを、こっそり持って帰る。
最初に気づいたのは、わたしのコンパスだった。数学の時間に学校で使っていたもので、引き出しに放り込んだきりずっと使っていなかったが、ある時ふとなくなっているのに気づいた。なくても困らないので、探しもしなかった。
次は台所のバターナイフ、洗面台の錆びたカミソリ、薬箱の清浄綿、わたしのビーズの小物入れ。このあたりからおかしいと思いはじめた。だんだん品物の選択が、わたしの身の回りに絞られてくるようになった。ハンカチ、ボタン、ストッキング、ペチコート……。だが、髪に関わるもの、櫛やピンや椿油は盗まなかった。母がわたしの髪を結うのにどれだけこだわっているか、承知しているからだろう。
ある日、無造作に置かれたおばさんのカバンから、ビーズの小物入れがのぞいているのを見つけた。子供の頃、夜店で買ったおもちゃだった。それに彼女は口紅やらレシートやら小銭やらを詰め込んでいた。
母には言わなかった。ますます事態がややこしくなりそうだった。むしろ母が小物入れに気づくのではないかと、その方が心配になり、カバンの口をそっと閉めた。だから今でも、わたしのそばからささやかな物たちが一つずつ姿を消している。
「まだまだマリは子供よ」
そう言って母は煙草に火を点けた。
「ところでね、この前商売女と騒ぎを起こした客のことだけど……」
おばさんが母の残した魚のフライに手をのばしながら言った。思わずわたしは、フォークをポテトサラダに突っ込んだきり、動けなくなった。
「コートの仕立て直しを頼みに来たおばあさんから聞いた話によると、似たような騒ぎを前にも一度起こしてるらしいよ」
「だろうね。ああいう男は懲りないんだよ。どうせ、とんでもなくいやらしいことを、女にやらせようとしたんじゃないの」
「例えば?」
「そんなこと私が知るわけないじゃない」
二人は声を上げて笑い、グラスに残った最後のワインを飲み干した。わたしはうつむいて、フォークを刺したり抜いたりした。
「評判の変人らしいね。何で食べてるんだかよく分からないし、いつも暑苦しい格好で出歩いて、あいさつ一つしないんだって」
「そういう偏屈に多いんだね、変態っていうのは」
「おばあさんが一度、スーパーで買い物してる時に見かけたそうなんだけど、買ったパンに黴が生えてたって、文句をつけてたの。その態度が偉ぶってて、しつこくて、ちょっと普通じゃないの。もう、生きるか死ぬかみたいな怖い顔で、にぎりこぶしが震えるくらい必死で抗議したもんだから、若い店員が泣いちゃったんだよ。たかがパン一個じゃないか、ねえ」
「嫌われる客っていうのは、どの店に行っても嫌われるの」
「おまけに島に住んでるんだよ」
「本物の変人だね」
「なんでも、奥さんを殺して、ここへ逃げてきたっていう噂もあるらしいよ。だからわざわざ、あんな小さな島に隠れ住んでるんだって」
「へえ、殺人? うちで人殺しなんかやられたんじゃ、たまらないねえ」
「ほんとだ」
母は食べ散らかしたテーブルの上に煙を吐き出し、おばさんは油のついた指をなめた。
わたしはポテトサラダをかき回した。翻訳家が殺人者かもしれないという疑いより、二人が彼についてあれこれ口にしていることの方が許せなかった。わたしは無理やりサラダを口に押し込み、飲み込もうとした。じゃがいもが胸につかえ、息苦しかった。
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