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負けたままでいいの?…『バッテリー』を凌駕する青春小説の傑作! #3 ランナー

長距離走者として将来を嘱望された高校1年生の碧李(あおい)は、家庭の事情から陸上部を退部しようとする。だがそれは、一度レースで負けただけで、走ることが恐怖となってしまった自分への言い訳にすぎなかった。逃げたままでは前に進めない。碧李は再びスタートラインを目指そうとする……。

累計1000万部超えの『バッテリー』シリーズなどで知られる、あさのあつこさん。『ランナー』は、舞台を高校陸上部に移し、走る喜びを描いた青春小説シリーズです。

*  *  *

「加納(かのう)くん?」
 
「あ、はい」
 
「練習のことなんだけど」

「ええ」
 
「二年生になって、新たな気持ちで部活をするってのだめ?」
 
「かなり無理がありますね、先輩」
 
「そうかな」
 
数秒の沈黙の後、杏子(きょうこ)は小さく息を吐き、もう一度、加納くんと呼んだ。くっきりと線の濃い、確かな声だった。
 
「退部届ね、ミッキーが正式に受理してないのってさ、冬だったからだよ」
 
「え?」
 
「加納くんが退部届出したの秋の大会が終わってからじゃない。だいたい、運動部にとって冬は基礎トレの時期だよね。本格的な試合は新学期になってから、ね?」
 
「わかりますよ」
 
「次にあたしが言うこともわかってるよね、たぶん」
 
「ええ……たぶん」
 
「冬眠だよ。ミッキーは加納くんに冬眠してろって言いたかったみたい。暫く眠って、暖かくなったら這い出してこいって」
 
そういえば、もう春だ。朝夕は冷え込み、今日のように暖房が必要な日もまだ続いていたけれど、直に盛りの春が来る。季節が一巡りして帰ってきた。
 
杏子の声が低速になる。どこか、ぼんやりとした響きに変わる。
 
「這い出してくる気ないんだ」
 
「ないです」
 
そっかと杏子は呟いたけれど、納得して電話を切る気配はなかった。碧李(あおい)も受話器を置かない。視界の隅に妹の後姿を捉えたまま、杏子との繋がりを保っている。この声はいい。低くて艶めいて美しいじゃないか。岩清水のように、乾いた粘膜に心地よく沁みてくる。
 
「怒らないでよ」
 
唐突に杏子が言った。唇を形よく尖らせているだろう。
 
「いや、まっ、怒ってもいいよ。怒るようなこと言うから」
 
「なんですか」
 
「このまま部を辞めちゃったら、加納くん、マジで負けちゃったまんまじゃない」
 
息を呑み込む気配が伝わる。これから他人を傷つけるかもしれないことを、悪意でなく、本気で言わなければならない杏子の緊張が言葉よりずっと鮮明に伝わってくる。
 
「加納はレースで負けたから自棄になって部まで辞めたって、そう言われてたの、知ってるよね」
 
「知ってます」
 
「言われっぱなしでいいわけ」
 
「かまいません」
 
冷静を装ったつもりだったけれど、身体のどこかで火が燃えた。チリッ、チリッ、チリッ。小さな火種が点り、身を炙る。悲鳴をあげるほどではないが、耐えるのが辛い。
 
あのレース、県営の陸上競技場で行われた一万メートルのレース。秋空はこれ以上ないと思われるぐらい晴れ渡っていた。底なしに青い色が頭上に広がる。西からの風が時折、緩やかに吹くだけでほとんど無風快晴の状態だった。日差しが照りつける分、長距離レースにはやや暑い。スタートラインにつくずっと前から、背中に不快な汗をかいていた。天候のせいではない。青すぎる空のせいでも、澄んだ陽光のせいでもない。強いて言えば、トラックだろうか。見物席に囲まれた競走路を見たとき、ここではなくもっと別の場所、環とならず、どこまでも行方の知れぬまま延びていく路を走ってみたい。そう思った。思ったこと自体、目前に迫ったレースに集中できていなかった証なのだろう。トラック競技は何度も経験していたし、それなりの結果も残してきた。だから言い訳だ。試合前に、おのれに言い訳をしている選手が勝てるわけがない。負けて当然なのだ。今ならそう納得もできるけれど当日は惨めだった。走っても、走っても、何周走っても剥離していくものはなく、むしろべたりと纏いつき絡みつく。身体が重く、呼吸が乱れた。足が前に出ない。シューズの底に鉛の板でも張りついているんじゃないかと本気で疑い、走るのが辛いと心底、感じた。感じた自分に戸惑えば、その戸惑いも疑念も全て纏いつき絡みつき、重石(おもし)になる。
 
鳶が鳴いていた。猛禽に相応しくない甲高い声だ。ゴールに倒れ込み、ほんの一瞬だが何もわからなくなっていた。箕月(みつき)が後ろから抱きかかえ、何か言ったが聞き取れない。何もわからない。何も聞き取れない。惨敗という言葉だけがあまりに生々しく突き刺さってきた。
 
負けたんだ……おれ。
 
身体を投げ出し、声に出さず呟き、見上げた空には鳶がまだ、緩やかな円を描いていた。

一週間後に退部届を出した。誰にも相談しなかったけれど、その日の放課後、久遠(くどう)にだけは退部を告げた。ハードルの選手で出会ったときから妙に気が合った。
 
「おまえ、馬鹿じゃねえの」
 
小柄で碧李より十センチは背の低い久遠は、顎を上げ挑むように碧李を見上げた。
 
「今、辞めたりしたら、どれだけ悪く言われるよ。加納碧李は一度負けたぐらいで走るのをやめたって、情けないやつだって、馬鹿にされるのわかってんだろう」
 
「うん」
 
「おれでも、そう思う」
 
「うん」
 
首を傾げ、本来の童顔に戻り、久遠はなあミドと、碧李の愛称を口にした。
 
「何が本当の理由だ?」
 
「うん?」
 
「うんじゃねえよ。ざけんなよ、馬鹿。一度や二度の負けで、おまえがやめるわけねえだろう。何か他に理由、あるんだろう」
 
「いや……悪ぃ、おれ帰るわ」
 
「おい、ミド」
 
言いたいことは山ほどあるけれど上手く言葉が見つからない。久遠に、背を向ける。
 
「馬鹿やろう。最低だぞ」
 
背中に声がぶつかってくる。それから当分の間、遠く近く、久遠は苛立ちのこもった視線を投げつけてきた。そのうち何となく話はするようになったけれど、どこかよそよそしく、以前の屈託ない付き合いとは微妙に違っていた。碧李のことをミドと呼ぶことも軽口を叩くこともなくなったのだ。軽蔑されているとわかっていた。久遠だけではないだろう。面と向かって罵倒する者も、非難する者もいなかったけれど、放課後のグラウンドを横切るとき、陸上部の練習場あたりから漣のように伝わるものがある。軽蔑、嘲笑、あるいは憐憫(れんびん)も少し。入部時から、監督に目をかけられていた碧李のことを快く思わない雰囲気は上級生を中心にあった。当たり前のことだろう。それでも嫉妬や不満が表面化しなかったのは、数字に表れる碧李の記録と控えめな性格のせいだった。トラックを走るより図書室で分厚い本を読んでいる方が似合っていると、よく久遠にからかわれたけれど、実年齢より幾分上に見られる物静かで地味な物腰は、上級生の反感をかなり和らげる効果があった。それでも鬱憤は内在していたらしく、唐突な退部はかっこうのはけ口となったようだ。
 
「情けねえよな」「マジ、かっこわるぅ」「調子こいちゃって」背後にそんな言葉を聞いたことが何度もある。言葉というものは、けっこう痛いものだとそのころ知った。久遠のように正面から馬鹿やろうとぶつかってくるものなら、まだましだった。罵倒であろうと怒りであろうと、発した者が眼前に立っているのなら受け止めることはできる。応えたのは、背後から相手不明のまま投げつけられる言葉の礫だ。侮蔑と悪意をたっぷりと含んで背中に当たる礫は、小さなわりに痛い。感情の痛点をきりきりと刺激する。
 
案外、弱いなあ、おれって。
 
もう少し強靭だと信じていたのにと自分への落胆も重なって、かなり疲労した時期ではあった。そういう諸々のことを覚悟して提出した退部届を箕月は受理していなかった。
 
休部か……
 
黙り込んだ碧李の鼓膜に、杏子の光沢のある声が触れる。
 
「あのね、ミッキーは、別に加納くんのこと軽くみて退部届をまんまにしてるわけじゃないよ……たぶん。たぶんね、加納くんに戻ってきてほしくて、でも無理強いできなくて、どうしていいかわかんなくて困ってるんだと思う。そこだけは誤解しないで」
 
心の内を見透かされたような気がした。この人は、おれのちゃちな自負や卑屈をちゃんと見抜いている。頬が熱くなった。羞恥の感情に血が蠢く。
 
「あたし、なんか、へんなこと言っちゃったよね」
 
「いえ……」
 
「ねえ」
 
「はい」
 
「もう少し惜しんでよ、自分のこと……あたしね……」
 
語尾を曖昧にぼかして、杏子がため息を漏らす。
 
「ごめん、何か自分で何を言いたいのかわかんなくなっちゃった。ともかく、しつこいかもしれないけど来学期からの練習予定表だけは届けるね。それだけ。さようなら」
 
さようなら。ありきたりの別れの挨拶を残して、通話が終わった。耳の奥に終了を告げる機械音が流れ込んでくる。大きく息を吐き出していた。
 
「お兄ちゃん」
 
杏樹(あんじゅ)が傍に寄ってくる。
 
「お腹すいた」
 
反射的に壁の時計に目をやる。もう午後七時に近かった。
 
「悪いけど、今夜も遅くなるから」
 
母の千賀子(ちかこ)が今朝、玄関のドアノブに手をかけて告げた。母はいつもそうだった。仕事に出かけるぎりぎりになって、その日の予定を告げる。息子の方をまともに見ず、ベージュのパンプスの先に睨むような視線を落としたまま告げる。いいよと碧李は答える。
 
「杏樹のこと、お願い」
 
下向きの視線のまま千賀子はそう言い、喉にひっかかるような咳をした。

◇  ◇  ◇

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