人間関係がガラリと変わる! 禅に伝わる「愛語」のパワー
禅僧、庭園デザイナー、多摩美術大学教授などの肩書を持ち、『ニューズウィーク』日本版の「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた枡野俊明さん。『禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本』は、姿勢、呼吸、言葉、朝の時間、感謝など、枡野さんの勧めるちょっとした心がけが詰まった一冊です。実践すればきっと「いいこと」が起こり出す、そんな本書の一部をご紹介します。
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「愛語」で語りかけよう
私は日頃から、大学で大勢の若い人たちと接していますが、しばしば首を捻りたくなる場面、耳を疑いたくなる場面に遭遇します。学生同士がざっくばらんに会話を交わしていると思って見ると、話している相手がはるかに年長の教員だったり、職員さんだったりするのです。若者流にいえば「タメ口」をきいているのですね。
日本語は、世界でも類い希なる美しい言葉。せっかくその国に生まれながら、言葉づかいがぞんざいな人を見ると、もはや無念を通り越して、悔しさ、虚しさ、いや、正直にいえば、おおいなる怒りさえ覚えます。
もちろん、彼ら若い世代だけの問題ではありません。なぜか最近、“友だち親子”や、学校での教師と生徒の仲よし関係が、よいことかのように話されます。大人全般が年少者に媚びているという現実がある。これこそが、根本的な原因なのでしょう。
美しい言葉は、それそのものが、美しくなるための大きな武器です。身近にありながら、それをまともに使えないなんて、文字どおり、宝の持ち腐れ。いち早くそんな状態から抜け出してほしい、と私はせつに願っています。
といっても、会話本や敬語マニュアルを必死で読むことを奨めるつもりはありません。杓子定規なお仕着せの言葉づかいをいくら覚え込んでも、言葉は生きないし、美しくもないからです。
禅は「愛語」で語りかけよ、と説いています。愛語について、道元禅師はこう書き残しています。
「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天の力あることを、学すべきなり」(『正法眼蔵』)
慈しみの心から発する愛を持った言葉は、天地宇宙をひっくり返すほどの力がある、というのです。
「ひと呼吸」置いて言葉を発する
愛語のもっともいい例は、母が幼子に向ける言葉だと思います。自分自身の利や得などまったく思うことなく、欲からも遠く離れ、ひたすらに我が子を思う気持ちから出る言葉。拙くても、素っ気なくとも、それこそが愛語と呼ぶにふさわしいものだ、と私は思っています。
いいたいことを、思いついたまま語るのではなく、その言葉を相手がどう受けとるのかということに、まず、思いをめぐらせる。いったん自分が相手の立場になってみる。そして、その言葉を投げかけられたら、自分ならどう受けとめるだろうか、と考えてみてはどうでしょう。なんでもないと思った言葉が、意外な棘を持っていたり、皮肉めいていたり、上滑りしていたり……といったことはよくあることです。
「あっ、そんな意味でいったんじゃなくて……」
いってしまってから、あわてて言葉をとりつくろったことが誰にでもあるはず。しかし、一度口に出した言葉は決して元には戻らないのです。“あのひと言”で上司との間がギクシャクしてしまった、友人関係にヒビが入った、大切な人に嫌な思いをさせてしまった……。そんなことがいつ起こっても不思議はありません。
また、なにかにつけて気にかけてくれる友人の助言やアドバイスが、ときには煩わしく聞こえることもあるでしょう。
「もう、うるさいなぁ。ちょっとうざくない!?」
思わず、そんな言葉が口から出そうになることもありそうですね。しかし、そんなときはひと呼吸置くのです。それだけで、出てくる言葉がまったく違った言葉になると思います。友人のお節介な言葉に対しても、「これも自分のことを心から思ってくれているからなんだ」と思え、「いつもありがとう」といえるかもしれない。立派な愛語で相手の気持ちを受けとめることができるのです。
言葉は諸刃の剣です。相手を幸せにしたり、いたわったり、癒やしたりする力を持っている反面、傷つけたり、苦しめたり、悩ませたりすることもある。自分のなかに愛語かどうかを見分けるフィルターを持ちましょう。
最初はフィルターの目が粗く、心ない言葉がスルリと通り抜けてしまうことがあるかもしれません。それはそれでいい。それでも、つねにフィルターを意識していたら、だんだん目が詰まってきて、フィルターの精度は上がります。そしていつか、
「彼女はいつもやさしいものいいをする」
「彼女の言葉ってなぜかとてもあったかい」
そんなふうにいわれる人になっていますよ……きっと!