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ZERO〈上〉 #2

第一章

二〇〇四年一月 東京・新宿

峰岸智之みねぎしともゆきは、キャスター・ワンのソフトボックスをくしゃくしゃにすると、安価なラワン材だけで作られた机の上に叩きつけた。本能的に黒いコートのポケットを探ったが気分を滅入らせる軽さが手に伝わってきただけだった。峰岸は毒づきながら、小型のヘッドセットを頭から外すと携帯電話を握った。

「タバコだ」

重い扉が閉まる音の後で、ドタドタという靴音が近づいて来た。寒さをこらえるために股の間に両手を突っ込んでいた後藤俊平ごとうしゅんぺい巡査長は、そろっとダウンジャケットのポケットに手を突っ込むと、買いだめしてあったキャビン・マイルドを机の上に滑らせた。

「吸いすぎて吐き気がする」

そう言いながらも、峰岸は一本を摘み上げ、百円ライターの炎を両手で囲んだ。何重にも喉にへばりついたニコチンが不快感をさらに増した。

「拠点Eで確認されてから、ちょうど三時間です」

後藤は両手に何度も熱い息を吹きかけている。だがその声は相変わらず震えていた。

「落ち着け」

峰岸はそう言って、タバコを唇の端で噛んだ。

「やはり、〈アドレス〉要員を配備すべきだったのでは──」

アドレスとは、自宅や会社など、日常の行動起点から追尾を開始する視察手法である。

「慎重な〈チェック作業〉、それが今回は重要だ」

オレのこだわりだ、と付け加えることを峰岸はやめた。その代わりに、火山灰に埋もれたようなアルミ製灰皿を乱暴に押しやり、小型受像機を目の前に置いた。チェック作業とは、推定した通過点や目的地に固定した視察拠点だけで行なう行動確認作業のことだ。

峰岸は眉間に皺を寄せ、不味まずそうにタバコの煙を吸い込みながら後藤を睨んだ。そしてまたディスプレイに目を戻した。歩道に溢れかえる風俗店の客引きの女性たちのマイクロミニのスカートが風に舞っている。薄布うすきれを巻いたようなスカートの下からすらっと伸びる太腿ふとももの鳥肌さえ見えるようだった。東京・新宿歌舞伎町のメインストリートの一つは、午後九時ともなると、とろけるような女の肌とミニスカートの奥をイメージした男たちで占拠されていた。

視察対象を画像に捕捉ほそくできる時間は恐らく数秒だろう。しかも撮像環境に至ってはまったく不運だった。前日の実査じっさ(事前の現場調査)によれば、新宿通りで車を降り、この区役所通りに歩いて来るまでには百メートル以上の距離がある。そして何しろこの人混みである。レンズに上手くおさまったとしても、膨大な画像処理作業が予想された。今回ばかりは、採証作業には完璧さが要求される。東京地検の検事たちを納得させるための確実な現場報告書の積み重ねが必要だった。

無線機からの雑音──。

2から1イチ、配備完了」「3サンから1、配備完了」「4ヨンから1、配備完了」「5から1、配備完了」「6ロクから1、配備完了」

囁くような凍えた声が連続した。

「1から各局、指定の場所で待機せよ。どうぞ──」

歌舞伎町の北の端を東西に走る職安通り。実在の宅配業者のロゴマークが入ったトラックの荷台の中で峰岸は小さくリップマイクに叫んだ。

「2、指定の場所で待機する。了解」「3、了解」「4、了解」「5、了解」「6、了解」

傍らで、後藤は足踏みを繰り返した。それは単に寒さからではなかった。爆発しそうな興奮を鎮めるためだった。

峰岸の総指揮のもと、現場に展開している視察体制は、計二十五名で構成されていた。コールサイン〈1〉が「採証班」である峰岸以下五名、〈2〉は峰岸班を支援する外事2課アジア第2担当部門第3係より投入された四名の「直近・防衛班」、〈3〉は常に全体の後方に位置し、視察対象者に別の追尾者が存在していないかをチェックするために同課アジア第1担当部門第1係四名の「ウシロ班」、〈4〉と〈5〉は様々な職業に偽変して道路上に展開する渋谷警察署指定作業班で構成された「流動警戒班」計八名、そして〈6〉というコールサインを持つチームは追尾車二台の中で待機する新宿署指定作業班から支援を仰いだ「車輛しゃりょう班」四名──すべてが所定の配置を終えていた。大規模な視察作業では、担当が違っていても大動員がかかり視察班に編成される──それが外事を含む公安警察の面妖めんような点である。

全視察員の耳にはUW101無線機メガの透明タイプの受令用イヤホンが目立たないようにはめられている。首から肩に通して袖口から伸ばしたコードにつながれた小型マイクがおさめられているのは班長に限られていた。

静かな時間だ──峰岸はそう思った。無線は何も言わない。時折、聞こえるクラクションでさえ、静けさを引き立てる小道具に思えた。

ベニヤ板の“壁”の一部に、ちょうど一人分ほどに開けられた板を元に戻すと、後藤は小荷物の間を擦り抜けるようにして鉄の扉の前に立った。巨大なレバーに体を預けるようにして荷台の扉を開けた瞬間、氷のような冷気が首筋をぐるっと一周した。肩を震わせてアスファルトに飛び降りると、再び、あの作業に戻った。空っぽの段ボール箱を荷台から降ろしたり、積み込んだりを繰り返す作業である。宅配業者のトラックとそっくりに偽装した前線指揮所は、違法駐車をしている車の行列の中に巧みに溶け込んでいた。

◇  ◇  ◇

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