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「虹の女神」はどこに?…世界的作家が描く究極のエロティシズム #2 ホテル・アイリス

染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹のしわの間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は、醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となったとき、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる……。昨年、ブッカー国際賞にノミネートされたことでも話題となった、日本が誇る小説家、小川洋子さん。『ホテル・アイリス』は、17歳の美少女と初老の男の「SM愛」を描いた、衝撃の問題作です。その冒頭を特別にご紹介しましょう。

*  *  *

祖父の死んだ日もホテルは休まなかった。シーズンオフで客などほとんどなかったのに、なぜかその日に限ってママさんコーラスの団体旅行が入っていた。

神父さんが唱える祈りの言葉の合間に、『エーデルワイス』や『谷間のともしび』や『ローレライ』が聞こえた。神父さんはそんなもの最初から耳に入らないというふうに、目を伏せたまま儀式をすすめた。祖父の飲み友だちだった洋品店の女主人が嗚咽を漏らすと、まるでハーモニーをつけるようにソプラノが響いた。バスルームでも食堂でもベランダでも、誰かが何かを歌っていた。彼女たちの歌声が死体の上に降り注いできた。虹の女神は結局最後まで、祖父のために、七色の衣をなびかせてはくれなかった。

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次に男を見かけたのは、事件から二週間ほどたったあとだった。日曜の午後で、わたしは母から言い付かった買い物をするため町を歩いていた。

よく晴れて汗ばむくらいに暑かった。浜辺では気の早い若者たちが水着姿で日光浴をしていた。潮が引き、城壁まで続く岩の連なりがすっかり姿をあらわしていた。遊覧船乗場やレストランのテラスには、観光客の姿が目立ちはじめていた。海はまだ冷たそうだったが、濡れた城壁に反射する光の具合と、町のざわめきのトーンで、夏が近いのが分かった。

この町は夏の間三カ月だけ息を吹き返し、あとは化石のようにじっとうずくまっている。夏は穏やかな海が町を包み、東西に長く伸びる砂浜が金色に光る。引き潮の時にしか姿を見せない崩れかけた城壁と、岬の付根に広がる緑の丘が、海岸線に魅惑的な表情を与えている。あらゆる通りが休暇を楽しむ人々であふれ返る。パラソルが開き、シャワーが飛び散り、シャンパンの栓が抜かれ、花火が上がる。レストラン、バー、ホテル、遊覧船、土産物屋、ヨットハーバー、そしてここアイリスさえもが、それぞれのやり方で自分を華やかに装う。もっともアイリスの場合、テラスに日除けを下ろし、ロビーの電球を明るくし、壁の料金表をハイシーズン用に掛け替えるくらいのものだったが。

眠りの季節は突然やって来る。風の向きが変わり、波の模様が変わる。人々は皆、わたしの知らないどこか遠くの場所へ帰ってゆく。昨日までキラキラ輝いていた道端のアイスクリームの包装紙が、一晩のうちにぐったりアスファルトに張りついている。

横顔を見てすぐに気づいた。雑貨屋で歯磨き粉を買っている時だった。あの晩は顔をじっくり観察したわけではなかったが、雑貨屋の薄ぼんやりした蛍光灯の下にたたずむ身体の輪郭と、手の表情に見覚えがあった。男は洗濯石鹸を選んでいた。

長い間迷っていた。全部の種類を手に取り、ラベルを眺め、値段を確かめる。一度籠に入れたのに、何が気になるのか説明欄を読み直して元に戻したりした。一心に洗濯石鹸だけを見つめていた。ようやく彼が選んだのは、一番安い品だった。

どうして男の後をつけようなどと思い立ったのか、自分でも説明がつかなかった。アイリスでのことに興味があったからではない。

ただ、彼の発した一言が、耳に残っていたのだ。あの命令の響きが、わたしを彼に引き寄せた。

雑貨屋の次に、男は薬局へ入った。処方箋らしい紙を手渡し、薬の袋を二つ受け取った。袋を上着のポケットに入れ、今度は二軒先の文房具屋へ向かった。わたしは歩道の街灯にもたれ、そっと中をうかがった。万年筆の修理を頼んでいるようで、店主と長い間やり取りしていた。万年筆をばらばらに分解し、一つ一つ部品を指差して熱心に何かを訴えていた。明らかに店主は困惑している様子だったが、男はお構いなく喋り続けた。声が聞きたいと思ったが、わたしのところまでは届いてはこない。ようやく店主がしぶしぶうなずくのが見えた。

それから海岸通りを東へ向かった。暑いのに男はきちんと背広を着てネクタイを締め、背筋を伸ばし、前だけを見て早足で歩いた。洗濯石鹸の入ったビニール袋を左手に提げていた。上着のポケットが薬でふくらんでいた。時々男の石鹸がすれ違う人にぶつかったが、誰も彼を振り返らなかった。彼を見ているのはわたしだけだった。そう感じることで、わたしはますますこの奇妙なゲームに没頭していった。

広場の花時計の前で、わたしと同い歳くらいの男の子がアコーディオンを弾いていた。古びた楽器のせいなのか、彼の技術のせいなのか、はかなげで淋しそうな曲に聞こえた。

男は立ち止まり、しばらく耳を傾けていた。みんなちらっと視線を送るだけで、すぐに通り過ぎていった。わたしは少し離れたところに立った。拍手するわけでも、リクエストするわけでもなかった。男はアコーディオンの音色の中にたたずみ、少年は楽器を奏で続けた。その後ろで花時計の針が動いていた。

男はコインを一個、アコーディオンケースの中に投げ入れた。チャリン、とささやくような音がした。少年はお辞儀をしたが、男は表情を変えずに黙って背を向け、再び歩きはじめた。少年の顔が中庭にある噴水の彫像に、どこか似ているような気がした。

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どこまでついて行くつもりなんだろう。言い付けられた買い物はまだ歯磨き粉しかすんでいなかった。わたしは心配になってきた。客が到着する時間に何をぐずぐずしていたのだと、母は怒るだろう。なのにわたしは、男の背中から視線を外すきっかけがつかめなかった。

男は遊覧船乗場の待合室に入っていった。今度は遊覧船かとわたしは思った。中は子供連れやカップルでにぎわっていた。船は沖合にある小さなF島を一周し、そこの桟橋に一度停まってから、三十分ほどで戻ってくる。次の便が出るまで、まだ二十五分あった。

「なぜ私の後をつけてくるんです? お嬢さん」

突然、声が聞こえた。最初、自分が話し掛けられているとは分からなかった。周りが騒がしかったし、あまりにも思いがけないことだったからだ。しばらくたってようやく、「黙れ、売女」と叫んだ同じ声が、自分に向けられているのだと気づいた。

「私に何か、ご用でも?」

あわててわたしは首を横に振った。

けれど男の方がもっとおどおどしていた。落ち着きなくまばたきし、一つ言葉を口にするたびに唇をなめた。あの夜アイリスで、あれほどまでに美しい命令を発したのと同じ男だとは思えなかった。

「ホテルのお嬢さんですね」

男は言った。

「ええ、そうです」

わたしはうつむいた。

「フロントに坐ってらした。雑貨屋にいる時からずっと気づいてました」

小学生のグループがどやどやと入ってきて、待合室は混雑してきた。人の波に押され、わたしたちは窓辺に並んで立つような形になった。

男がわたしをどう扱うつもりなのか、不安だった。最初男を見掛けた時、口をきくとは思いもしていなかった。今すぐここから立ち去るにしても、どんな言葉を残したらいいのか、それとも無言の方がいいのか、見当がつかなかった。

「まだ何か、私に文句がありますか」

「文句だなんて、そんな……」

「あのことは謝ります。迷惑を掛けました」

ホテル・アイリスで女に口汚くののしられていた男には似付かわしくない、礼儀正しい言葉づかいだった。それが余計わたしを緊張させた。

「母の言ったことは、気にしないで下さい。十分すぎるくらい、お金も払ってもらいました」

「ひどい夜だった」

「雨が激しくて……」

「そう。どうしてあんなふうになったのか、自分でも分からない」

わたしたちはたどたどしい会話をした。

男が出ていったあと、踊り場で丸まったままのブラジャーを捨てたことを思い出した。紫色で、カップのところがレースとフリルで派手に飾り付けられていた。わたしはそれを動物の死骸のようにつまみ上げ、キッチンのゴミ箱へ捨てた。

子供たちははしゃいで走り回っていた。太陽にまだかげりは見られず、窓の向こうに広がる海はキラキラと光っていた。その上に人間の耳の形に似たF島が浮かんでいた。島の最後の先端を回りきり、船がこちらに向かって進んでくるのが見えた。桟橋の杭に一羽ずつ、カモメが止まっていた。

近くで見ると、男は思っていたより小柄だった。背はわたしとあまり変わらず、肩から胸のラインは貧弱と言ってもいいくらいだった。あの日乱れていた髪はきちんと撫で付けられていたが、後頭部はほとんど地肌がのぞいていた。

会話が途切れると二人とも海を見やった。それ以外することが思い浮かばなかった。男がまぶしさに目を細めると、身体のどこかが痛みだしたような苦しげな表情になった。

「遊覧船に、乗るんですか?」

沈黙が息苦しくなって、わたしは先に口を開いた。

「ええ」

男は答えた。

「地元の人はあんなものに乗らないわ。わたしも子供の頃に一度乗ったきり」

「F島に住んでいますので」

「あそこに人なんか住んでいるんですか」

「はい、わずかながら。だから家に帰るには、遊覧船に乗らなくてはなりません」

島にはダイビングショップの支店と、鉄鋼会社の保養所があるきりで、人が住んでいるとは知らなかった。

男はネクタイの先を丸めたりねじったりしながら喋った。そこだけネクタイが皺になっていた。遊覧船の姿がみるみる大きくなってきた。待ち切れない子供たちが乗場に並びだした。

「カメラや釣り竿やシュノーケルを抱えた人たちに混じって、私一人、こうして雑貨屋の袋を提げて乗り込むんです」

「なぜあんな、不便なところに?」

「気楽でいいんです、その方が。どうせ家に籠もってやる仕事ですから」

「何のお仕事ですか?」

「ロシア語の、翻訳家です」

「翻、訳、家……」

わたしはもう一度その言葉を繰り返した。

「変ですか?」

「いいえ。今まで、そういう職業の人に会ったことがなかったから、何だか新鮮な響きがしたんです」

「一日中机に坐って、辞書をめくって言葉を探す。ただそれだけの仕事です。あなたは、高校生?」

「いいえ。半年通っただけでやめました」

「今、おいくつですか」

「十七です」

「十七……」

今度は男が、わたしの答えを特別な数字のように繰り返した。

「でもよく考えたら、遊覧船に乗ってお家へ帰るなんて、素敵だわ」

「昔誰かが別荘代わりに建てた、小さな家です。船着場のある海岸の向こう側、耳の形で言えば、ちょうどこのあたり……」

男は首を傾け、自分の耳の付根あたりを指差した。わたしは彼が指し示した場所を見つめた。二人の身体が一瞬だけふっと近づき合った。すぐに二人ともそれを感じ取った。わたしは視線を外し、男は耳を遠ざけた。

やはり耳の形も老いてゆくのだということを、わたしは初めて知った。それは張りのない、くすんだ肉片だった。

◇  ◇  ◇

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ホテル・アイリス

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