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【ネタバレ厳禁!】あなたは、騙されずに読み切ることができるか?!

8月23日に発売され、早くもテレビなどで話題!
どんでん返しの名手が仕掛ける常識がひっくり返るエンタメミステリ短編集『逆転正義』。
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保護

コンビニの前で佇む制服姿の彼女。彼女を一人にはできない!
早川満雄は、ある雨の日、仕事帰りに寄ったコンビニで
傘がないのか軒先にいつまでも立ち続ける彼女に出会った。
満雄はたまらず声をかけるが──。

1

彼女と出会ったのは、雨の降る中、仕事帰りにコンビニに寄った夏のある夜だった。

セーラー服姿の彼女はポニーテールにしており、傘がないのか、コンビニの軒先にぽつんと突っ立っていた。虚無の眼差しで降りしきる雨の銀幕を眺めている。

早川満雄は彼女を横目で見た後、雨粒が滴る傘を傘立てに差してコンビニに入店した。週刊漫画雑誌を立ち読みする。給料日前だから財布に余裕がなく、気になっている連載漫画の続きだけを読んだ。

カップ焼きそばとから揚げ弁当、ウーロン茶、栄養ドリンクを購入し、店を出る。

店内には十五分ほど滞在したが、彼女は相変わらず軒先にたたずんでいた。よく見ると、雨に濡れたセーラー服が透け、下着の色が浮き出ていた。

本能的に彼女の肢体に目が吸い寄せられる。

盗み見がバレないよう、スマートフォンを取り出してメールの確認でもしているように装った。そんな自分に呆れた。

最近は仕事が忙しくて溜まっているな──。

さっさと帰って元気が残っていたら、一人で解消するか。

まばらな客がコンビニに出入りする際、彼女をちらちら横目で窺っている。だが、わけありだと察してか、声をかけたりはせず、完全に無視していた。

店にやって来る人間の靴音が近づいてきても視線を全く上げないあたり、待ち合わせのようには見えない。

満雄は傘を抜き取り、広げて雨の中に踏み出した。だが、駐車場を出るところで立ち止まり、振り返った。一瞬、彼女が視線を上げてこちらを見た気がした。

躊躇したものの、満雄は意を決してコンビニへ戻った。彼女のもとへ歩いていく。

「あのう……」

思い切って声をかけた。

うつむき加減の彼女の濡れ髪が顔の半分を隠している。

「大丈夫──?」

彼女が地面に視線を流した。水溜まりが雨粒に破られ、無数の波紋が生まれるさまを見続ける。

気まずい沈黙が続いた。

満雄は今度は軽い調子で話しかけた。

「……傘は?」

また無視されるかと思ったが、彼女はうつむいたまま口を開いた。

「財布を持たずに出てきたから……」

「傘、買ってこようか?」

彼女はポニーテールを振り乱すようにかぶりを振った。

「家に帰りたくなくて」

彼女は下唇を嚙んだ。暗く澱んだ瞳が印象的だった。吹きすさぶ雨風が彼女のソックスを濡らしている。

満雄は夜の闇が延びる道路を見つめた後、彼女に向き直った。また何秒か沈黙があった。

そして──。

「もう死にたい……」

雨音に搔き消されそうなほどか細い声で彼女がつぶやいた。

──死にたい?

厄介な話に首を突っ込んでしまったかもしれない──と一瞬、後悔が頭をよぎった。

互いに黙り込んだ。その分、周囲に広がる大雨の音が大きくなった。

話しかけておきながら、それじゃ、と素っ気なく別れを告げてそそくさと立ち去る行為に罪悪感を覚える。見捨てるなら最初から声などかけるべきではない。親切心と後悔がせめぎ合う。

言葉はなく、しばらくただそこに立っていた。雨宿りしていても、横殴り気味の雨粒が彼女のセーラー服をさらに濡らしていく。

彼女が体を搔き抱き、身を縮こまらせた。濡れた体が震えている。

「寒い……」

ほとんど独り言で、ぽつりと漏れた言葉だった。

彼女が顔を上げた。濡れ髪を指先で耳の後ろに搔き上げると、顔立ちがあらわになった。

満雄ははっとして彼女の顔をまじまじと見つめた。彼女が気まずそうに顔を背けた。

「あっ、いや──」

言いよどんだことで言いわけがましく聞こえたかもしれない。

最近は女性の外見に触れたらセクハラになる。否定的な言葉はもちろん、褒め言葉でさえも。会社で全社員に対して行われたセクシャルハラスメント講習で、講師から厳しく注意された教えが脳裏に蘇る。セクハラよりパワハラを問題にしてくれよ──と当時は苦々しく思ったものだ。

しばらく居心地が悪い間が続いた。

コンビニから出てきた若い金髪の男女がいぶかしげな一瞥を向け、何やらひそひそと囁き交わした。

他人の視線が気になる。冷え切った体が羞恥で火照ってくるのが分かった。

雨はますます激しくなっていた。

「アパート──来る?」

彼女が「え?」と驚いた顔を上げた。無言で見つめ合う間があった。

素っ気なく言ったが、内心では動揺があり、心臓も若干駆け足になっていた。

今さら冗談だったと手のひらを返して笑うには、女性との付き合いがなさすぎた。モテないと自覚しているから、同年代の異性には苦手意識があり、避けていた。何も期待しなければ失望させられることも傷つくこともない。

だが、今は──。

満雄は沈黙に耐えかねて口を開いた。

「すぐ近くだし、タオルも貸せるから……」

彼女の眉に逡巡が表れた。その反応を目の当たりにして余計に恥ずかしくなり、慌ててまくし立てるように付け加えた。

「ここ、深夜になると暴走族の溜まり場になるし、そんな恰好で立ってると……」

不安がらせるつもりはなかったが、事実だ。先週はコンビニに晩飯を買いに来て運悪く連中と鉢合わせし、絡まれた。胸倉を摑まれ、一万円札を差し出して解放された。

「どうしてそんなに親切にしてくれるの?」

「どうしてって──」

その悲愴感漂う姿があまりに目を引いたから──とは言いにくかった。恋愛経験が豊富ならきっと気負わず爽やかな台詞を返すのだろう。

彼女が求めている答えは何だろう。

「……放っておけなくて……というか……」

漫画で見たような言葉で辛うじて答えた。

「狭いし散らかってるけど、雨宿りならこんな店の前よりましだと思うし……」

拒絶されたらどうしよう。もし嫌悪の表情を返されたら──。

良かれと思って提案しただけだったが、いざ口にしてみると断ってほしくないという不思議な気持ちが生まれた。

一秒が十秒にも思え、不安に押し潰されそうになった。

そのとき──。

彼女は儚げだが、初めて笑みを見せた。その表情に一瞬、心臓がどくんと脈打った。

彼女はうな垂れたまま小さくうなずいた。

来るってこと──?

反射的に確認しそうになり、言葉をぐっと呑み込んだ。必死感が伝わったら警戒されるだろう。

「少し濡れるかもしれないけど」

満雄は傘を差し出した。彼女のほうが十五センチほど背が低いから、傘は少し短めに持った。

傘に入るために寄り添った彼女の肩が二の腕に触れる。相合傘は今までの人生で一度もしたことがなく、胸が高鳴った。傘に弾かれる雨音よりも、自分の心音のほうが大きいのではないか。

満雄は真っすぐ前方を見据えた。彼女を意識しないように努めた。

共に無言で住宅街を歩いていく。

立ち並ぶ邸宅。駐車された車。等間隔で並ぶ電信柱──。全て雨の銀幕にけぶり、黒い影と化して滲んでいる。

「俺、早川満雄」

名乗ると、彼女も答えた。

「私は綾瀬春子。学校に行ってたころは、友達から“春ちゃん”って呼ばれてた」

「はるちゃん……」

彼女は少し考えるような表情を見せた後、突然顔を明るませ、手をパンと叩いた。

「じゃあ、あなたはみつ君ね」

満君──。

そんな可愛らしく呼ばれるような歳でもないのに──とむず痒さを覚え、満雄は照れ笑いを返した。

人生において、異性からこのように親しみを込めて呼ばれた経験がない。

肩を寄せ合って歩くと、築二十五年のアパートに着いた。二階建てで、錆びた鉄製階段がある。

「俺の部屋は二〇三号室」

春子が「うん……」とうなずいた。

こういうのは何かの犯罪になるだろうか──と満雄は少し考えた。成人と未成年だと法に触れた気もする。

だが──。

本人が望んだ自発的な行動なら罪にはならないはずだ。そもそも、ただ雨宿りできる部屋を一時的に提供するだけなのだから。

一緒に階段を上り、二〇三号室の前に来た。傘を折り畳んで軽く雨粒を払い、ズボンのポケットから鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、ドアを開ける。

「どうぞ」

満雄は春子を部屋に招じ入れた。

2

春子は濡れたセーラー服を気にしつつ、靴を脱いで部屋に上がった。

ベッドの上に少年漫画のコミックスが散乱していた。半裸の美少女がほほ笑んでいるような表紙が多い。ライトノベルが原作だろうか。

満雄が慌ててコミックスを搔き集め、片隅に置かれている小型の本棚に突っ込んだ。

何げなく見ると、絨毯に一冊だけ成人誌が放置されていた。卑猥なキャッチコピーがあふれている。

「あっ……」

思わず声を漏らすと、それに反応して彼が振り返った。春子の視線の先を見て慌てふためき、成人誌をベッドの下に蹴り込んだ。額の汗を拭いながら向き直る。

「これは……」

目が泳いでいる。

春子は苦笑いしながらフォローした。

「そういう本を見るの、男なら普通だと思うし……。私は別に気にしてないから」

彼に下心などはなく、純粋に心配して声をかけてくれたのだと分かっている。男の性欲を目の当たりにしたからといって、不安は抱かなかった。むしろ、誰もが見なかったかのように素通りする中、気遣ってくれたことに感謝している。

満雄は円形の座卓に置かれているカップ焼きそばの空とお茶のペットボトルを取り上げ、ごみ箱に捨てた。

「ごめん、散らかってて──」

「ううん」春子はかぶりを振った。「全然」

「恥ずかしいな、少し」

満雄は頬を搔きながら、絨毯に落ちている紙袋やチラシなどを片付けた。

「気にしないで」

「ごめん」

片付け終えると、満雄が春子に顔を向けた。だが、気まずそうにすぐ目を逸らした。

その理由はすぐ分かった。

濡れそぼったセーラー服が下着を透けさせており、肌に貼りついている。

「そのままじゃ風邪引くし……」満雄はぼそぼそと喋った。「お風呂とか……」

春子は彼の横顔を見つめた。

視線は感じているはずだが、彼は目を合わせないようにしていた。

実際、軒先に突っ立っているときから寒気を感じていた。

コンビニの店内で時間を潰すことも考えたが、商品を購入しようともしない姿を怪しまれ、迷惑そうな眼差しを受けたので、すぐ出てしまった。

「でも、着替えが……」

春子は言葉を濁した。

彼は初めてその事実に気づいたようにはっと顔を戻し、あたふたと室内を見回した。奥のタンスに目を留め、「ええと……」と歯切れ悪く漏らしながら引き出しを開ける。

彼が取り出したのは、ネイビーのトレーナーだった。

「良かったら使って」

春子はトレーナーを受け取った。

「じゃあ……シャワー借りてもいい?」

「うん、もちろん」

満雄はバスタオルを取り出し、玄関横のドアを指差した。

「お風呂はそこだから」

春子はバスタオルを受け取り、バスルームのドアを開けた。トイレ兼浴室だ。ドアの鍵を閉め、一息つく。

無理解な両親にうんざりし、口論のすえ、スマートフォンだけを握り締めて衝動的に家出した。着の身着のままだった。外に飛び出してから雨に気づいたが、捨て台詞を吐いた手前、今さら舞い戻るわけにもいかず、走り続けた。

そして──たまたま目についたコンビニの軒下で雨宿りをした。

誰もが好奇の目を向けたり、遠巻きに眺めたり、無視したりする中、彼に優しく声をかけられ、救われた気がした。お風呂まで貸してもらって、申しわけなく思う。

昔は少女漫画のような出会いを夢見ていたな──と思い出した。白馬の王子様とはいかなくても、運命的な出会いをして、見初められて、恋に落ち──。もちろん、満雄に対してそんな感情を抱いているわけではない。ちょっと特別な出会い方をしただけで……。

そのとき、スマートフォンが通知音を発した。見ると、母からのショートメールだった。

『どこで何をしてるの』

心配というより追及のように感じ、春子は返信しなかった。

春子はセーラー服を脱ぐと、全裸になった。自分の体を改めて眺める。雑誌で見るグラビアアイドルの完璧なプロポーションと比較しては劣等感を覚え、母に注意されるほど無理なダイエットを試みては失敗している。怪しいサプリメントに手を出したこともある。

自己肯定感の低さがいやになる。だが、そればかりはどうしようもなかった。

シャワーを浴びてからバスタブを出る。

洗濯機の上に置いておいた下着をつけ、セーラー服の代わりに借り物のトレーナーを着る。サイズはかなり大きめで、袖は手の甲を覆うほど長く、丈も股を隠すほどだ。

それでもトレーナー一枚はさすがに恥ずかしく、少し濡れているスカートを穿いてから浴室を出た。

ドアを開けたとたん、ベッドの前に腰掛けていた満雄の眼差しが全身に注がれた。

「……何? 変?」

満雄は再び目を逸らした。蛍光灯の真下に座っていると、頭部の地肌が透けている。

彼がおずおずと答えた。

「自分のトレーナーを着られるの、ちょっと変な感じがしちゃって」

変な感じ──か。

オブラートに包んだのか、適切な語彙が見つからなかったのか。

ありがちな男女のシチュエーションに、心が浮き立っているのではないか。

こんな私に下心を抱いているのだろうか……。

春子は彼の内心に気づかないふりをし、台所に視線を逃がした。

「満君、晩ご飯まだなら、何か作ろうか?」

「え?」

「助けてもらったお礼に……」

沈黙が返ってきた。

怪訝に思いながら満雄を見ると、彼は脇のレジ袋を見つめていた。言いにくそうにしている。

「あ、それ、コンビニの──」

そういえば、彼はコンビニで買い物をしたのだ。帰り道でもレジ袋を提げていた。

「晩ご飯、もう買ってるよね。ごめんなさい、気づかなくて」

満雄は頭を搔いた。

「でも、何か作ってくれるなら嬉しいかな。コンビニ弁当は食べ飽きてるし、味気なくて」

「だよね。私も普段はコンビニとかスーパーで出来合いの物を買って、すませちゃうことが多いから、すごく分かる。じゃあ、何か作るね」

「いいの?」

春子は冷蔵庫に歩み寄り、扉を開けた。

「材料あればいいけど……」

料理をしている印象がなかったから期待はしていなかったものの、生卵、ウインナー、豆腐、味噌、豚肉、袋入りのピーマンなど──それなりに材料は揃っていた。

冷蔵庫の下の引き出しを開けてみると、他の野菜類もあった。

「料理は得意じゃないから期待しないでね」

「何でも嬉しいよ。手料理なんて、実家暮らしだったときに母親が作ってくれて以来だし……」

春子は食材を取り出すと、フライパンを用意した。まな板を洗って野菜を置く。

インターネットでレシピを調べようとして、スマートフォンを取り出した。検索サイトを開くと、ニュース一覧が表示された。国際情勢のニュースや芸能人の不倫のニュースがタイトルになっている中、目に飛び込んできたのは──。

『10代前半の少女を自宅に連れていった疑いで東京都の46歳男を逮捕。少女に淫行……』

はっとしたものの、これは状況が違う、合意なんだから、と自分に言い聞かせ、さっさと料理名を検索欄に打ち込んでレシピを探した。

料理をはじめたとき、リビングの満雄が話しかけてきた。

「そういえばさ、どうして家出とかしたの? あんな雨の中で……あっ、無理して話さなくてもいいけど」

心配そうな口調に、春子は包丁を持つ手を止めた。自分の手元をじっと睨みつける。

蘇ってくるのは──不快で腹立たしい記憶だった。

「親が……」

ぽつりとつぶやいたまま、言葉が喉に詰まる。包丁の柄を握る手に力が籠った。

「最悪で……」

「暴力──とか?」

「殴られたり蹴られたりはないけど、お父さんはすぐ怒鳴るの。『飯はまだか!』って。お母さんがいない日は、私が食事を用意してる。でも、『味が濃い!』とか『茶がないぞ!』とか、文句や我がままばっかり。私はまるでお父さんの奴隷」

「ひどいね……」

──テレビのチャンネルを変えてくれ。

──野球の試合がはじまってしまうだろ。

──味噌汁のおかわりをくれ。

怒鳴るような父親の大声が耳に蘇ってくる。

自分でやってよ──と言い返したいのをぐっとこらえ、従ってきた。感謝をされることもない。

「お母さんはお母さんで、私を無視してる。同じ家で生活してても、私の存在が鬱陶しいみたいに……。ご飯だって、コンビニにでも行って適当に何か買って食べて──ってたまにお小遣いを手渡されるだけ」

「そうなんだ……」

「お母さんにお父さんのことを訴えても、養ってあげてるんだから文句言うな、って怒鳴られて」

親が子を養うのは当然ではないか──。

そう反論したくても、言い返したら何倍にもなって感情的な言葉が返ってくるので、ひたすら我慢している。

「お母さんもお父さんも、私の苦しみなんて想像もしてくれなくて、怒鳴ってばっかり。家にいるのに耐えられなくて、口喧嘩して、衝動的に家出しちゃった」

春子は唇を嚙み締めた。怒りと悲しみがない交ぜになって、胸の中がぐちゃぐちゃになる。

「春──ちゃんは普段は何してるの?」

春子は嘆息し、包丁で野菜をカットしはじめた。しばらく無言の間が続いた。

「……引きこもってる」

満雄が「え?」と訊き返した。

声が聞こえなかったわけではないだろう。

「引きこもり」春子は恥じ入りながら答えた。「女同士でいろいろあって、いじめられて、人間関係が怖くなって、それで、引きこもるようになったの」

「そうなんだ。まあ、人間関係って難しいしね。俺も会社で上司から怒鳴られて、いびられて、嫌気が差すよ」

春子は手を止め、彼に向き直った。

「私と同じ……」

「面倒臭いよね、そういうの。理不尽な人間が一人いるだけで、地獄だよ」

「だよね」

「春ちゃんも大変な想いをしてるんだ。同じ経験をしている者同士、気が合うかも?」

彼は冗談めかして言った後、あはは、と苦笑いした。

「私、引きこもってるから、全然人と喋ってなくて……。こうして話し相手がいるだけでも癒される」

「俺もそうだよ。人との会話なんて職場だけだし。しかも、仕事の内容だけで、楽しさ皆無。誰かと話すの、ゲーム内のチャットくらいかな。最近は忙しくて遊んでられないけど」

「繋がりって──必要だよね」

その後は黙って料理に専念した。

作ったのは肉野菜炒めと豆腐の味噌汁、出し巻き卵だ。ごく普通の献立だが、作るのには緊張した。座卓に皿を並べ、向かい合って絨毯に座る。

「美味そー!」

満雄が興奮した声を上げ、手料理を眺め回した。我ながら上手くできたと思う。

「よかった!」

春子は彼に笑顔を返した。

「でも──」満雄は少し申しわけなさそうな顔を見せた。「何だかごめん、作らせちゃって」

「どうして?」

「だって、父親のために料理を作らされたりして、うんざりしてるんでしょ?」

「そうだけど、これはお礼だから。作りたくて作っただけだよ。お父さんの世話とは全然別」

「……ありがとう」

満雄に無邪気な表情が戻った。

「いただきまーす」

彼は嬉しそうに手を合わせてから、箸を手に取った。出し巻き卵を口に運ぶ。

春子は彼の口元を注視した。

「……美味い! 何これ、ジュワって卵から美味しい出汁が出てくる。こんなの食べたことないよ」

満雄が笑顔を弾けさせた。

嬉しさが込み上げてくる。

いつか彼氏ができたら作ってあげたいと思って練習していた料理だ。

その後は他愛もない話をしながら、二人で食事をした。

時刻を確認すると、午後十一時半になっていた。彼も春子の目線を追うように置時計を見た。

「ええと……」満雄が口ごもりながら切り出した。「どうしようか……」

「どうって?」

「いや、夜遅くなっちゃったし……。傘なら貸すよ」

春子は彼から目線を外した。

「……家には帰りたくないかな……」

相手の表情を見ていなくても、満雄が息を呑んだのが分かった。緊張が伝わってくる。

「家に帰っても親がウザイだけだし……」春子は慌てて付け加えた。「そういう意味」

「あ、うん、もちろんもちろん」

春子は彼をちら見した。

彼も目を逸らしていた。室内に忍び込んでくる雨音が大きくなった。

春子は髪の毛先を指でもてあそびながら言った。

「泊まっても──いい?」

満雄が驚いたように顔を上げた。

「ここに?」

春子はうなずいた。

「この大雨の中、外に出たくないし……」

「だよね……」

満雄は部屋の奥のベッドを一瞥した。それから春子に目を戻し、ごくりと喉を鳴らした。

彼の頭の中の葛藤が透けて見える。

だが、春子は気づかないふりを続けた。

「どうしようかな……」

曖昧な台詞で反応を待つ。

満雄は自分の指先を撫でていた。やがて緊張が絡んだ息を吐き、目を逸らしたまま口を開く。

「じゃあ、春ちゃんがベッド使っていいよ。俺は──」彼は絨毯を見た。「この辺で寝るから」

「いいの?」

満雄は「慣れてるから」と笑った。「絨毯で寝落ちすることも結構あるし。仕事で疲れ切って、そのまま、とか」

「ありがとう」

春子は立ち上がり、ベッドに近づいた。

入れ替わるように満雄が浴室のドアへ向かった。

「満君は寝ないの?」

声をかけると、満雄が振り返った。

「俺は洗濯してから寝るよ。春ちゃんの濡れたセーラー服も洗って乾かさなきゃ」

「ごめんね、面倒かけて」

「全然。じゃあ、明かり消すね」

満雄が壁のスイッチで天井の蛍光灯を消した。室内が薄闇に覆われた。

彼が浴室に姿を消すと、春子はベッドに横たわった。布団を引っ張り上げ、目を閉じた。

睡魔はほどなくして襲ってきた。

3

四十歳と十七歳──か。

この年齢差は何かの罪になるのだろうか。

満雄は薄闇の中でベッドに寝ている春子の影を眺めながら、改めてそんなことを考えた。

──同じ部屋で一夜を過ごすだけだ。

緊張で若干高鳴る心音を意識しつつ、深呼吸で気持ちを落ち着けた。目覚まし時計を午前七時十分に設定し、絨毯に横たわる。

絨毯が敷いてあっても床の硬さは体に感じられ、眠りにくかった。絨毯での睡眠に慣れていると答えたのは嘘だ。昔から、いわゆる“枕が変わると眠れない”タイプだった。だが、こういうシチュエーションなら、男が気遣うことが当然だろう。

満雄は目を閉じた。

視覚がなくなると、その分、他の感覚が鋭くなった。耳に忍び入ってくる彼女の息遣い──。

無防備に寝息を立てる春子の存在を意識し、なおさら寝付けなかった。

異性と二人きりの空間に緊張する。自分の部屋が他人の部屋になったようだった。今まで男女交際の経験が一度もなく、このような状況に免疫がない。

結局、朝方まで眠れなかった。

「──君」

意識の中に聞き慣れない声が忍び込んできた。

「──満君」

満雄は寝ぼけながら「え?」と声を漏らした。

「満君! 朝だよ!」

体を揺さぶられると、満雄は眼をこすりながら目を開けた。春子の顔が真ん前にあった。

「わっ!」

思わず大きな声が出て、一瞬で意識が覚醒した。反射的に上半身を起こすと、彼女が身を引いて顔を離した。

昨晩の記憶が雪崩を打って蘇る。

そうだ、コンビニで雨宿りをしていた彼女に声をかけ、部屋に泊めたのだった。

「そろそろ起きたほうがいいんじゃないの?」

はっとして後ろを振り返った。目覚ましの時間は過ぎている。無意識のうちにアラームを止めてしまったのだろう。時刻は七時二十分──。

「ヤバ……」

満雄は跳ねるように立ち上がった。

「遅刻したら上司にネチネチやられる」

慌ててスーツを手に取って洗面所に飛び込み、歯磨きと洗顔をする。着替えてからリビングに戻る。

春子がキッチンに立っていた。フライパンからジューッと音がしている。

匂いでウインナーだと分かった。

「朝ご飯食べる時間くらいはあるよね?」

満雄は腕時計を見た。

「……うん」

「簡単なものだけど、作ってるから待ってね」

カーテンを開けると、昨晩の大雨が嘘のように晴天だった。

出社の準備をしながら待つと、春子がスクランブルエッグとウインナーと味噌汁を座卓に並べた。茶碗にご飯をよそい、ウーロン茶と一緒に運んでくる。

「ありがとう」

座卓に座って朝食を食べた。独り暮らしをはじめて自分で作って食べたときは味気なく、孤独を意識させられる料理だったが、こうして作ってもらえるだけで気分は全然違った。同じウインナーでも、特別美味しい気がする。

子供のころに母親が作ってくれた運動会のお弁当を思い出した。シンプルなおかずが不思議と新鮮で美味しかったことを覚えている。

食事が半分ほど終わったとき、満雄は箸を止めた。彼女の顔を真っすぐ見る。

「帰らなきゃ──だね」

大雨で困っている彼女を一夜泊めただけで、別れがすぐにやって来ることは承知の上だった。

とはいえ──。

春子が弱々しくうなずいた。

「雨も止んだし」

「だね」

分かっていたことだが、口にしたら急に寂しさが胸に去来した。彼女の優しさや包容力に癒されている自分に気づいた。

満雄は自分の感情を誤魔化すために、朝食を搔き込んだ。それから立ち上がる。

「もう仕事に行かなきゃ」

満雄は息を吐くと、春子に五千円札と部屋の鍵を差し出した。彼女が小首を傾げる。

「交通費。手持ち、ないでしょ。鍵は室外機の底にでも貼りつけておいて。セーラー服は乾かして洗面所に置いてあるから」

春子はためらいがちに五千円札と鍵を受け取った。

満雄は彼女に背を向け、後ろ髪を引かれる思いでアパートを出た。早朝の満員電車ですし詰めになりながら出社した。

仕事でミスをして朝から二十八歳の上司に怒鳴りつけられた。

「マジ、頭悪いな! 何度教えたら学ぶんだよ!」

満雄は惨めさを嚙み締めながら頭を下げた。

「すみません……」

「これだから中卒はよ!」

上司は都内でも有数の私立大学を卒業している。学歴を振りかざし、マウントをとってくる。

「もうちょっとおつむ使えよな。学歴違いすぎると、こっちの話も理解できねえし、マジ困るわ」

「すみません……」

謝罪して暴風が過ぎ去るのを待つしかない。ストレスの捌け口にされていることが分かっていても、逆らえない。

何度も怒鳴り散らされながら働いた。胃がきりきり痛み、冷や汗が噴き出る。

与えられた仕事は膨大で、定時までに終わることはない。自分の無能さを思い知らされる。

満雄は残業を終えてから退社した。嘆息を漏らしながら夜道を歩き、駅から電車に乗る。座席は埋まっていて、座ることはできなかった。

空席がある優先席に目をやる。

さすがに駄目だよな──。

良識が働き、座らなかった。立ったまま十五分ほど電車に揺られ、最寄駅で降りた。黒雲が垂れ込める夜空の下、住宅街をとぼとぼ歩き、アパートに帰りついた。

鍵を取り出そうとして、持っていないことを思い出した。室外機の下をまさぐる。

だが──。

鍵は見つからなかった。

誰かに盗られたのだろうか。彼女が鍵を持ったまま帰ってしまったとは思わないが……。

不安を抱きながら立ち上がり、玄関ドアのノブを回した。鍵は──かかっていた。

一体どうすればいいのだろう。

大家に連絡すれば開けてもらえるだろうか。

困っていると、突然、ガチャガチャと音が鳴ってノブが回り、勝手にドアが開いた。

「……え?」

満雄は驚いて一歩後退した。

室内から顔を見せたのは──春子だった。

「おかえりなさい」

「どうして……」

春子が申しわけなさそうにはにかむ。

「帰ったんじゃ……」

彼女はか細い声で答えた。

「ごめんなさい。やっぱりまだ家に帰りたくなくて……」

「そっか……」

平静を装ったものの、内心は浮き立っていた。

「あ、鞄──」

彼女が手を差し出したので、反射的に鞄を手渡した。受け取った春子が室内に戻っていく。

満雄は自分の部屋に上がった。

「お仕事、疲れたでしょ?」彼女が鞄を置きながら振り返る。「お風呂入る? 沸かしておいたけど。あっ……勝手にごめんね」

彼女の気遣いが嬉しかった。正直、仕事で疲れすぎて、自分で風呂を洗って沸かすほどの気力がなかった。体が臭ったとしても、適当に晩飯だけ食べて、ベッドに倒れ込もうと思っていた。

「お風呂に入ってるあいだに晩ご飯、作っておくから。貰った五千円、食材に使っちゃった。ごめんね」

「全然。嬉しいよ。誰も出迎えてくれない毎日だったから、こうして、おかえり、って言ってくれる相手がいて」

春子がにこやかに応えた。

会社での苦痛が一瞬で吹き飛んだ。

「あと、これも」

そう言った彼女は着ているスウェットを指差した。

普段着になった彼女は雰囲気が全く変わって、なぜか目を逸らしてしまった。

「じゃ、じゃあ、お風呂入ってくるよ」

満雄は戸惑いながらバスルームに駆け込んだ。

風呂に入ると、ゆっくり湯船に浸かり、疲労を洗い流した。三十分ほどしてからバスルームを出ると、リビングからいい香りが漂ってきた。

「肉じゃが──?」

リビングに進み入ると、座卓の中央に鍋が置かれており、肉じゃがが湯気を立ち上らせていた。

「こういうの、好きかな、って」

春子が笑みを浮かべた。

「最高!」

満雄は座卓の前に座った。向かい合う彼女が皿に肉じゃがをよそい、ウーロン茶をコップに注いで目の前に置いてくれた。

「超美味そう!」

「置いてもらってるんだし、これくらいは恩返ししなきゃ。たくさん食べてね」

「いただきます!」

満雄は肉じゃがに箸をつけた。手料理というだけで、コンビニの肉じゃがとは全然違った。

「美味い!」

彼女の表情に花が咲く。

まさか自分がこんな恋愛ごっこのような──半同棲生活をできる日が来るなんて思ってもみなかった。くつろいだ気分が疲れを溶かしていくようだ。

しばらく黙って食事をすると、タイミングを見計らった彼女が「仕事は大変?」と訊いた。

満雄は箸を止め、彼女から視線を外した。

「上司がクソでさ……」

「上司が?」

「怒鳴られてばっかり。パワハラだろ、って思うけど、サラリーマンはそういうもの、って言われたら反論できなくて」

目を向けると、彼女が同情するような眼差しをしていた。

「だから我慢の日々だよ。上司とかもっと上の人もそうだけど、みんな、多かれ少なかれ理不尽な扱いされてきてるんだよね。飲み会で芸を強いられたり、怒鳴られたり、頭をはたかれたり、無理な仕事を押しつけられたり──。でも、サラリーマンは文句一つ言わず、我慢して働いてる」

「昭和って感じの価値観。でも今はそういうの通用しないんじゃないの? パワハラを訴えてる人とかもいるよね」

「なかなか難しいよ、男は。男ならその程度は日常茶飯事だし、いちいち騒いだりしないよな、みたいな空気があって、よっぽどの理不尽じゃないかぎり、受け入れるしかなくて……」

「つらいよね、そういうの。私、働いてないから分からないけど、満君の気持ち──分かる」

「うん……」

沈黙が降りてくる。

空気が重くなったので、満雄は「春ちゃんは?」と話を変えた。

「え?」

「引きこもりって言ってたから、わけありなのかな、って」

彼女は羞恥を嚙み締めるように微苦笑した。

「私は学校に行ってたころが一番輝いてたかな。友達もたくさんいたし、毎日が楽しかった。辞めなきゃよかったなあ……」

続きを待ったが、彼女はそれ以上は語らなかった。明るい調子で手のひらを叩き合わせる。

「暗い話はやめて、食べよ食べよ!」

二人で食事をすると、彼女が後片付けをした。春子の背中に話しかけ、好きな漫画の話で盛り上がった。ジェネレーションギャップはあったが、彼女は興味深そうに話を聞いてくれた。

午後十一時半になると、春子が「そろそろ寝る?」と訊いた。

「だね。少し遅くなったし」

満雄は寝る準備をすると、絨毯に横たわろうとした。

春子が「あっ」と声を上げた。

満雄は彼女に顔を向けた。

「どうしたの?」

「今日は満君がベッドで寝て」

「俺が?」

「今日もベッドを占拠するの申しわけないし……私が下で寝るよ」

「それはできないよ」

「満君の部屋なんだし」

「男はこういうの平気だし、春ちゃんがベッド使いなよ」

春子は少し考える顔をした後、つぶやくように言った。

「じゃあ……一緒に……寝る?」

「え?」

春子は気恥ずかしそうに目を逸らした。

「変な意味じゃなく……働いてる満君が寝心地悪いの、申しわけないから」

満雄はごくりと生唾を飲み込んだ。彼女はその緊張に気づいているのかいないのか、黙ってベッド脇を眺めていた。

少し躊躇してから部屋の電気を消し、ベッドに近づいた。彼女がベッドの左側に寄って、背中を向ける形で寝ている。

やましいことがあるわけではない、と自分に言い聞かせ、ベッドの反対側に寝転んだ。背中を向け合って寝る。身じろぎすると、ときおり背中同士が触れ、そのたび緊張が増した。

その日から同棲のような生活がはじまった。会社で理不尽に耐えるだけの地獄の毎日に春が訪れた気がした。

一週間があっという間に過ぎ去った。帰宅を待ってくれている存在のおかげで、ブラック企業で怒鳴られる日々にも耐えられる。

春子への想いは日増しに強まっていく。笑顔を向けられると、胸が高鳴る。

満雄は帰宅すると、玄関ドアを開けた。

「ただいまー」

室内から漂ってきたのは、から揚げの美味しそうな香りだった。

靴を脱いで部屋に入ると、春子が晩ご飯を用意していた。

「おかえりなさい」

毎日出迎えてくれる笑顔とご飯──。“結婚ごっこ”みたいな生活を楽しんでいる自分がいる。

満雄は彼女と会話を楽しみながら夕食を食べた。

「春ちゃん、何でも料理上手いんだね」

「花嫁修業のつもりで覚えたの。お父さんのためじゃなく」

「そうなんだ」

「いつか結婚したら旦那さんに食べてもらいたくて。こうして手料理を作って、出迎えて、喜んで食べてもらうことが夢」

「春ちゃんなら叶うよ、きっと」

「……うん。だといいな」

食事を終えると、満雄はゆっくり入浴した。彼女はその後で風呂に入った。

先日、彼女が日用品を買い揃えたときに買ったパジャマ姿で上がってくる。彼女は「恥ずかしいからそんなに見ないで」と言うが、湯上がりの姿は魅力的で、濡れ髪も、艶やかな肌も、石鹼の香りも、全てが扇情的だ。

つい目を逸らした。

彼女は無防備にベッドに腰を下ろした。

満雄は視線を合わせないまま、彼女と話をした。前日の日曜日に一緒に観た映画の話で盛り上がった。

深夜が迫ってきたので、彼女がベッドに横たわった。その姿を見ているだけで心音が速まる。

電気を消して同じベッドに入る。

いつもは背中合わせに寝ているが、今夜は彼女のほうを向いた。肌同士は触れないようにしていたものの、うなじから漂う彼女の香りに興奮が抑えられない。

一緒に暮らすようになってから、一人の時間がなく、溜まったものを発散させていない。

思わず春子の肩に手を回した。彼女がピクッと反応する。だが、拒否の言葉はなかった。

しばらくそうしていた。

やがて、腕の中で彼女が身を翻した。薄闇の中、彼女の顔が眼前にあった。

沈黙を経た後、春子が囁くように言った。

「……いいよ、しても」

「え?」

「私で良かったら──いいよ」

吐息を漏らすように囁かれた台詞に、下半身が昂ぶった。思考回路が麻痺していく。

満雄は彼女の体を抱き寄せ、衝動のままパジャマを脱がせようとした。

上着のボタンを外し、柔らかな胸に触れて躊躇した。

「どうしたの……?」

春子が怪訝そうに訊く。

「俺、実は、その……」

満雄は羞恥を嚙み締めた。

「何?」

「したことがなくて……」

「え?」

「童貞なんだ……」

口にして惨めさを覚え、彼女の胸から手を離した。

童貞だと知られるや、同性からはからかわれてネタにされ、異性からは引かれた。雑巾のように惨めだった。

満雄は目を閉じ、彼女の姿を閉め出した。嫌悪の眼差しと向かい合うことが怖かった。

だが──。

「そんなの、別に珍しいことじゃないよ」

彼女の口ぶりは優しく、見下したり小馬鹿にしたりするニュアンスが全くなかった。

満雄は目を開け、彼女の瞳を真っすぐ見返した。

そして──再び春子の胸に手を伸ばした。その後はひたすら無我夢中だった。

彼女と結ばれた後は、幸福感に満たされていた。人生が輝いている気がした。

しかし──。

平和な日々はいつまでも続かなかった。

4

母親は警察官と連れ立ってアパートをじっと見つめていた。胸の内側に怒りが渦巻いている。

「こういうの、犯罪ですよね」

警察官を一瞥し、問うた。

「……未成年と成人なら、法に反しています」

「絶対に許せません!」母親は金切り声を上げた。「ちゃんと逮捕してください!」

5

「なぜ逮捕されたか分かるよな? 強制性交だ。十七歳の未成年者への」

担当刑事の能嶋は、スチール製のデスクに手のひらを叩きつけた。

火薬の破裂を思わせる音が弾けた後、取調室に重苦しい沈黙が降りてきた。

「未成年者への性行為はそもそも淫行だ。いい歳して、子供相手に何してるんだ?」

「同意が……」

ぼそりとつぶやかれた台詞。

「何だって?」

能嶋は耳を寄せるようにした。

「相手も同意していました。望んでいたんです」

「向こう側の親御さんが訴えてるし、本人も否定してる。『その場の雰囲気に流された……』ってな」

「でも!」彼女が声を上げた。「彼は私に好意を持っていたんです!」

強制性交容疑で逮捕されている綾瀬春子は、縋るような眼差しを見せていた。

「相手は十七歳の少年だ。高校を中退して、もう社会に出て働いてるからといって、未成年には違いない」

春子は悄然と肩を落とし、うな垂れた。

被害少年──早川満雄の母親が警察に通報し、事態が発覚した。

「満君は──こんな私に優しくしてくれたんです」

「それが何の免罪符になる?」

「お母さんは料理も作ってくれなくて、私は放置されていて、コンビニで食べ物を買うお小遣いだけ渡されて──」

「お小遣い?」能嶋は呆れてかぶりを振った。「あんたはもう四十だろ」

「年齢のことは言わないでください……」

「世間一般で四十って言ったら、みんな自立して働いて、自分のお金で生活してる。その点、あんたは気楽なもんだな。実家暮らしで、親のお金に甘える生活か。最近、話題の“子供部屋おじさん”──いや、あんたの場合は“子供部屋おばさん”か?」

春子の顔が引き歪んだ。

「侮辱しないでください……」

「そんなこと言える立場か? 自分が性犯罪を犯した自覚があるのか、あんた」

「私の話を──聞いてください」

今にも消え入りそうな声だった。

能嶋は顎を持ち上げ、話してみろ、と態度で示した。

彼女はわずかに躊躇を見せたものの、苦渋が滴る声でぽつりぽつりと語りはじめた。

「うちの親は最悪なんです。お父さんは脳梗塞になってから自分で生活できなくなって、私とお母さんが世話──っていうか、介護していました。認知症を患ったせいで、怒りっぽくもなって……」

彼女の父親は七十四歳だという。高齢なので、脳梗塞や認知症を発症しても不思議はないだろう。

「病気のせいだって分かっていても、怒鳴られたら腹が立つし、命令されたら反発したくなるし……。それでも、ご飯の用意をして、食べるのを手伝って、おかわりを求められたら従って、テレビのチャンネルを変えてあげたり──。自分で生活できないお父さんの代わりに全部してきたんです」

「……で?」

「でも、お母さんはお母さんで、私のことは放置で、お父さんの介護も手伝うことが当然だ、って態度だし、不満を言っても、養ってあげてるんだから文句を言うな、って……」

「大の大人が実家暮らしで養われているほうがおかしいだろ。親も文句の一つくらい言いたくなる」

「別に今時、珍しくないと思います……」

「それでストレスが溜まったから、四十にもなってセーラー服なんか着て、若い男漁りか?」

「違います……」

「違わないだろ」

「そんなんじゃないんです。私は高校時代が一番輝いていて、好きで……落ち込んだときは、制服を着たら元気になるから、それで……」

「自分の年齢を直視できなかったんだろ。若返った気になって、未成年に手を出した。四十のおっさんが女子高生の部屋に上がり込んで、襲ったら、どう思う? そんな性犯罪者は去勢しろ、と思わないか? あんたは同じことをしたんだよ」

春子は再びうな垂れた。

被害者の少年はわりと整った顔立ちだった。野球部員のように地肌が透けるほどの短髪だったが、髪を伸ばせばそこそこモテる風貌に化けるのではないか。目の前の冴えない外見の中年女性とは明らかに釣り合っていない。

彼女は一呼吸置いてから、供述を再開した。その声は打ち沈んでいた。

──いい歳してそんなみっともない恰好して。

高校時代のセーラー服を着ている彼女に母親が言い放った一言が引き金となり、口論になった。そして──衝動的に家を飛び出し、大雨が降りしきる中、コンビニの軒先で雨宿りした。店内に入ると、店員や客から奇異な眼差しを向けられ、居心地が悪くなったという。

「当然だろう。セーラー服を着た中年の女がやって来たら、誰だって不審者のように見る」

「偏見です、そんなの……」

「現実だ」

雨宿りしていると、被害少年に声をかけられた。濡れそぼったセーラー服姿の女にも変人を見るような目を向けず、純粋に心配してくれたという。

「最初は女子高生だと思って話しかけてきたと思います。でも、私が顔を上げて目が合ったとき、そうじゃないって気づいたはずです。それなのに態度を変えませんでした。私の年齢を聞いた後も──。彼の厚意が嬉しくなって、アパートまで付いていきました。それから手料理を作ってあげたりして、世話を焼いて、一緒に暮らすようになりました」

彼女の独白は続いた。

「料理を作って母親のお弁当を連想されたときは、悪気はないと分かっていても、少し傷つきました。年齢差を思い知らされて。でも、彼はこんなおばさんにも本当に優しくて……。どんどん惹かれていきました。そういう生活が憧れだったんです。料理を覚えたのは三年前でした。引きこもりの四十路女じゃ異性に見向きもされなくなって、少しでも男の人に好感を持ってもらえる強みが欲しかったんです。それで覚えたんです。それくらいなかったら、若くて綺麗な女性たちにはとても敵わないから……。結婚生活への憧れを口にしたとき、彼は『春ちゃんなら叶うよ、きっと』って言ったんです。それはどこか他人事めいていて、ああ、やっぱり私とはそういう連想はしないんだな、って気づきました。その日です、彼と寝たのは。不安に押し潰されそうで、確かな繋がりが欲しくて……」

ベッドの中で十七歳の少年に性経験がないことを告白されると、その無垢さに愛おしさが込み上げ、感情のまま行為に及んだという。

──そんなの、別に珍しいことじゃないよ。

早熟な中高生も多く、性が乱れていると言われがちな昨今だが、十七歳なら決して経験が遅いとは言えない。

未成年の少女への淫行で逮捕されている成人男性のニュースは見知っていたものの、自分たちとは状況が違う、と思い込んでいたという。

彼女は少年と結ばれ、幸せを実感していたらしい。だが、息子の様子を見にアパートまでやって来た彼の母親は、部屋に出入りしている同年代の女の姿を目撃した。ただならぬ関係だと察し、警察に通報したのだ。

「……満君は私を救ってくれたんです。彼も私に好意を持ってくれていました。親の手前、否定するしかなかったんだと思います。本人と話をさせてください」

「本人の意思がどうとか関係ないんだよ。未成年に手を出した時点で罪だ」

彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。人生で唯一の希望の糸が断ち切れてしまったかのように──。

「私は──」春子は縋るような口調で言った。「そんなに罪なことをしたんでしょうか?」

あまりに思い詰めた口ぶりだったので、能嶋は何も答えられなかった。

<おわり>

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