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永遠に悠紀子さんの前から消えるんだ…恐怖が渦巻く戦慄のホラーミステリ! #5 寄生リピート

中学二年生の白石颯太は、スナックを営む母と二人暮らし。嫌な目にあった時、いつも右手が疼いていた。ある晩、なじみの客を家に連れ込む母を目撃して、強烈な嫉妬を覚える。数日後、その客が溺死体で見つかった。さらに、死んだと聞かされていた父の生存が発覚するが、実父は颯太を化け物でも見るように拒絶して……。いま注目の新鋭ホラー作家、清水カルマさんの二作目となる『寄生リピート』。恐怖の幕が開ける冒頭部分を、特別にご紹介します。

*  *  *

せっかくいい気分だったのに……。恥ずかしさと腹立たしさに舌打ちして、その場からそそくさと立ち去ろうとする。しかし、肩に硬いなにかが押し当てられて、園部は思わず立ち止まった。

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「ご機嫌だな」

川の流れの轟音に搔き消されそうになりながらも、嘲笑を含んだ声が微かに聞こえた。気恥ずかしい姿を見られただけでなく、そのことを冷やかされて、もともと短気な園部の腹の中で苛つきが一気に騒いだ。

「あん? なんか文句あんのか」

園部が振り返ろうとすると、肩に当てられていたものが横にすっと遠ざかり、次の瞬間、風雨を切り裂き、唸りながら園部の側頭部を猛烈な勢いで直撃した。

甲高い音とともに、ぐらりと身体が大きくよろめいた。硬い物の正体は金属バットだった。

たまらず逃げようとしたが、脳震盪を起こしているらしく身体の自由がきかない。川沿いのフェンスに顔面から突っ込むようにして、もたれかかる。殴られた箇所が燃えるように痛い。

園部の命の危機を報せるかのように、いきなりサイレンが鳴り始めた。

以前は大雨が降るとよく、この辺りは神田川が氾濫していた。そのたびにこんなふうにサイレンが鳴り響いていたものだ。

今もまた、久しぶりに川の水が警戒水位を超えたのだろう。

「お……おまえ、どういうつもりだ?」

「邪魔なやつには消えてもらうんだよ」

男は園部の腰の辺りをつかんで持ち上げる。なにをしようとしているのかわかったが、どうすることもできない。腕力には自信があっても、耳の奥をやられて身体がうまく動かないのだ。

「やめろ! やめてくれ!」

園部の哀願などまったく耳に入らないかのごとく、男は園部の脚を高く抱え上げ、そのままフェンスの向こう側に落とそうとした。

園部は身体の半分が川のほうに落ちかけながらも、必死にフェンスにしがみついた。

「だ、誰か、助けてくれ!」

大声で助けを求めたが、川の流れと、雨の音、そしてサイレンの音に搔き消されて園部の悲鳴は誰にも届きそうにない。

それでも今の園部にできることは、ただ必死にフェンスにしがみついて助けを求めることだけだ。

「もういい加減にあきらめたらどうだ」

嘲るような無邪気な声。フェンスをつかむ園部の手を、金属バットの先端で押し剥がそうとする。

「こんなことをして、なんになるっていうんだ?」

園部が必死に声を振り絞ると、男がおかしくて仕方ないといった様子で笑い出した。腹を抱え、身体をよじって笑いつづける。狂気を感じさせる異常な笑い方だ。現実的な恐怖が園部の身体をさらに萎縮させた。

笑いすぎて苦しそうに喘ぎながら男が言う。

「往生際の悪いやつだな。さあ、さっさと泥水に流されてしまえよ。そして、永遠に悠紀子さんの前から消えるんだ」

「……悠紀子? お、おまえは……」

フェンスをつかんだ手が雨で滑る。限界はすぐに訪れ、ステンレス製のフェンスは無情にも園部の手から滑り抜けていった。悲鳴を上げる間もなく濁流に飲み込まれ、園部の意識は泥水の中に沈んでしまった。

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昨夜の嵐が嘘のように空は晴れ渡り、台風が運んできた熱帯の空気がここ数日の残暑をさらに強烈なものにしていた。

校庭に面した窓と廊下側の窓を両方開け放っているために少しは風が通るが、それはドライヤーから出る熱風のようだ。生徒たちはみんな下敷きを団扇代わりにして自分の顔を扇ぎながら、授業を聞いている。

中には玄関先にくくりつけられた犬のようにぐったりと机の上に身体を伸ばし、虚ろな目つきで教壇を見上げている者もいる。

みんないい気なものね。私だって暑いんだから。

黒板に課題作品の要点を書き出しながら、秋山美穂は心の中で毒づいてみた。だからといって涼しくなるわけではない。こんなことで苛々するなど教師失格だと思おうとしても、まとわりつく湿った空気は不快感をさらに増幅する。

「ちょっと。みんな、だらけすぎよ」

我慢できずに短気を起こした美穂は、教卓に両手をつき、生徒たちを睨みつけた。美穂の声に含まれた棘に軽く刺されたように、生徒たちが一斉に姿勢を正し、ガタガタと音を鳴らして椅子を引いた。

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その微笑ましい反応に、美穂は強張っていた表情筋が一気に弛緩するのを感じた。なんだかんだ言って、中学二年生はまだ子供だ。三年生になると、こんなに素直に言うことは聞いてくれない。

やわらかそうな頬をした少年少女たちを、美穂は教壇の上から眺めまわした。その視線が、ある生徒のところで止まった。

教室の中央より少し後ろの一番窓際の席。白石颯太だ。教師の怒りを恐れて姿勢を正している生徒たちの中にあって、彼だけは椅子の背もたれに身体をあずけて、自分の手のひらをぼんやり見つめている。

「白石君?」

美穂は颯太の名前を呼んだ。生徒たちが美穂と颯太を交互に見て、ほんの少し緊張の表情を浮かべた。授業を聞かずにぼんやりしている颯太に、美穂が腹を立てたと思っているのだ。

だが実際は違う。なぜだかそこに座っているのが白石颯太とは違う人物に思え、確認するように美穂の口から思わず声がこぼれたのだった。

「白石君」

もう一度呼んだが、颯太は自分のことを呼ばれているとは気づかずに、まだ手のひらを見つめている。

美穂は教科書を教卓の上に置き、颯太に歩み寄った。教室の中がざわめく。颯太が叱られることを期待して、生徒たちがくすくす笑い、目配せをし合っている。

すぐ横まで近づくと、美穂は颯太がなにを見ているのかのぞき込んだ。彼の手のひらには、古い火傷の痕らしきものがあった。

美穂はハッと息を呑んだ。同じような火傷の痕がある人物を、美穂はよく知っていた。頭の奥底に眠りこんでいた感情を突き動かされて、言葉が出てこなくなったのだ。

美穂の気配を感じた颯太がようやく顔を上げ、なんか用か? とでもいうふうに片方の眉だけを動かしてみせた。とても中学生には見えない大人びた眼差しが、美穂に向けられている。

一瞬、心臓が止まりそうに感じた。膝が震え、その震えがすぐに全身にひろがった。

身体を覆っていた薄い汗の皮膜がすーっと引いていき、代わりに冷気が肌を這い上がり、腕に鳥肌が立った。

いつもは美穂の目をまっすぐに見ることもできないシャイな生徒だったはずだ。それがまるで幼い妹を見つめる兄のような優しい目で見つめてくる。普段見慣れた颯太の可愛らしい顔に、よく知った人物の顔が二重写しに滲んで見えた。

他の生徒たちがざわつき始めた気配で、美穂はようやく我に返った。呆けたように口を開けて、颯太を見つめていたのだ。美穂が我に返ると同時に、颯太の顔つきが変わった。

たった今、夢から覚めたという様子で颯太は教室内を見まわし、みんなの注目を浴びていることと、美穂がすぐ近くから見下ろしていること、それに自分が授業中にぼんやりしていたことに気がついたようだ。

「あっ、すみません、僕……」

慌てて教科書を手に持って立ち上がり、「どこから読めばいいの?」と隣の生徒に訊ね、特に自分が指名されたわけではないことに気がついた颯太はばつが悪そうに頭を搔いて、ゆっくりと椅子に腰掛けた。

教室の中に、どっと笑い声が沸き起こった。その健康的な笑い声が、美穂の心をありふれた日常に引き戻してくれた。

そんな馬鹿なことがあるわけがない。きっと暑さのせいだ。ゆうべは雨と風の音がうるさくてよく眠れなかったから、疲れがたまっているのだ。

「だめじゃないの、授業中に他のことを考えてぼんやりしてちゃ」

内心の動揺を悟られないように、美穂はなんとか平静を装った。

子供から大人に変わる瞬間というのは、大人が考えているほど緩やかな変化ではなく、ある朝目を覚ましたら大人になっていたというほど劇的なものだ。十年近く中学教師をしていると、そうした瞬間を何度も目にする機会があった。

颯太も今、大人の男へと変わろうとしているのだろう。そう自分を納得させようとしたが、それだけではないと思えてしまう。

現に今、目の前で顔を真っ赤にしている颯太は、昨日まで見ていた颯太と同じ、中学二年生の幼い子供の顔をしているのだから。

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寄生リピート

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