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親友が家出して、突然やってきた! #4 鎌倉駅徒歩8分、空室あり

 これ以上言っても、のれんに腕押しと思ったのか、倉林さんはフランスでパティシエをやっている娘さんの話をはじめた。四十代半ば。彼女も結婚していない。ここ最近、娘さんとのLINEのテーマはフランス菓子。舌を噛みそうな単語が多くてなかなか覚えられないから、文字を打つのも苦労する……とかなんとか。適当なところで相槌を打つ。

「フォンダンオショコラって、あの蒸しパンみたいのにチョコレートソースが入っているやつ。ちゃんと言えないと娘にバカにされるのよぉ。だから、あたし、ショコラソースがふんだんに入ってるって覚えたの。そしたら──」
 フランス菓子の名前の覚え方の講義を受けていると、パンツのポケットの中でスマホが鳴った。

「あ、ちょっとごめんなさい」
 リビングに戻って画面を見た。「三樹子(みきこ)」と表示されている。いつもはLINEなのに、いきなり電話をかけてくるなんて珍しい。

「どうしたの」
「どうしたのって、いきなり。もしもしくらい言ったらどうよ」
 倉林さんとはうって変わって、低い声が返ってきた。
「ごめんごめん。じゃあ、もしもし。いったいどうしたの?」
 福井に住んでいる林(はやし)三樹子は大学のときからの友達だ。
 三樹子はあたしのことを「親友」と呼ぶ。LINEでは「心友」と打ってくる。

 自分たちの関係が親友あるいは心友と呼べるものなのかはわからない。でも、三樹子のことは、嫌いではない。一緒にいるとすごく楽だ。どうしようもないことを向こうがすれば、斟酌(しんしゃく)なしに「バカだね」と言える。これを言ったら嫌われるとか、友達をやめられるという不安もない。もしも自分に姉妹がいたらこんな感じなのかな、とも思う。

「どうしたも、こうしたもないって。明日、そっち行くから」
「明日って、またいきなり。勝手に決めないでよ」
「勝手も何も、思い立ったが吉日っていうじゃん」
「いったい何を思い立ったの?」
「家出」
「また……」

(写真:iStock.com/Liudmila Chernetska)

 三樹子の「家出」は今にはじまったことではない。二十六歳で見合い結婚をし、福井に嫁いでから夫や姑とひと悶着(もんちゃく)あるごとに家出してきた。近場のカプセルホテル、温泉、ディズニーランド……。
この家も一時避難所に何度か使われた。

「これで何度目? 前はたしか──」
 少し苛立った声が「とにかく」と言葉をかぶせてくる。
「決めたんやって、もう。話すと長くなるし、とにかくそっち行く。明日、てかさ、今からでもいいよね。一時間あればそっちに行けるし」
「え?」
「実はさ」
 三樹子はにやりと笑った、多分。そんな間だった。

「もう東京来てんだ。昨日一日ぶらぶらしてさ。香良のことだから、どうせまだ働いてないんでしょ」
「働いてるよ。カフェやってるから、ちゃんと」
「そんなの休んじゃいな。じゃ、二時。迎えに来てくれる、よね」
「やだよ」
「やだってひどっ。来るなってこと?」
「いや、そっちがやだなんじゃなくて、迎えに行くのが面倒ってこと。何度もうちに来てるから、わかるでしょ。鎌倉駅から歩いて八分、小町通りをまっすぐ行って赤い鳥居が見えてくるからそこを左に……」
「わかった、わかった。赤い鳥居が目印ね。じゃあ、またあとで」
 掃き出し窓からはコーヒーを飲んでいる倉林さんの丸い背中が見える。

「きょうは、おうちカフェ、臨時休業か。だけど、三樹子、いくらなんでもいきなりすぎるって」
 気づくと声に出していた。

◇  ◇  ◇

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