ドアの向こうから母の息づかいが…恐怖が渦巻く戦慄のホラーミステリ! #2 寄生リピート
中学二年生の白石颯太は、スナックを営む母と二人暮らし。嫌な目にあった時、いつも右手が疼いていた。ある晩、なじみの客を家に連れ込む母を目撃して、強烈な嫉妬を覚える。数日後、その客が溺死体で見つかった。さらに、死んだと聞かされていた父の生存が発覚するが、実父は颯太を化け物でも見るように拒絶して……。いま注目の新鋭ホラー作家、清水カルマさんの二作目となる『寄生リピート』。恐怖の幕が開ける冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
悠紀子の下に横たわっているのは、スナックの常連客である園部浩介という男だ。
園部は過去に何度もこの部屋に泊まりに来ていた。颯太が朝起きると、キッチンの椅子に座り、まるで自分の家にいるみたいにリラックスした様子でタバコを吸いながら新聞を読んでいたりするのだ。
酔っぱらった悠紀子が話してくれたところによると、園部はトラックの運転手をしているらしい。仕事柄、筋肉が隆々と盛り上がった逞しい腕をしている。マッチ棒のように細い颯太の腕とはずいぶん違う。
ふたりがどういう関係なのかはだいたいわかっていたが、実際にその光景を目にするのは初めてのことだ。
猛烈な怒りがこみ上げてくるものの、颯太にはどうすることもできない。颯太にできるのは、ただ拳を強く握りしめることぐらいだ。
そのとき、不意に右の手のひらに熱を感じた。何気なく拳を開いてみると、皮膚が引き攣れている。古い火傷の痕のように見えるそれは、物心ついたときから、颯太の身体に刻まれていた。覚えていないぐらい昔に、火傷をしたのだろう。だが、こんなふうに疼くのは初めての経験だ。
戸惑っていると、気配を感じたのか悠紀子が振り返った。つられるようにして顔を上げた颯太と目が合う。
悠紀子は頬が湯上がりのように火照り、軽くウェーブした栗色の長い髪が、強風に煽られたみたいにくしゃくしゃになっている。
その髪に半分覆われるようにして、赤ん坊のころは颯太のものだったはずのやわらかなふくらみが、荒い呼吸に合わせて揺れている。
「なに見てるのよッ。色気づきやがって。あたしが男と寝ちゃいけないっていうのかい。この疫病神ッ」
尖った声を張り上げると、悠紀子は園部の上に跨がったまま枕元に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルをつかみ、颯太に向かって投げつけた。
颯太の頬をかすめて壁に当たり、ペットボトルから水が飛び散った。
その飛沫を浴びて、颯太の身体の呪縛が解けた。無言で自分の部屋に逃げ帰った颯太はベッドに飛び込み、タオルケットを頭から被って両手で耳を塞いだ。それでも男女の荒い吐息が交わされる気配までは消し去ることはできなかった。
酔っぱらっているときのお母さんは好きじゃない。だけど、客を相手に酒を飲むのが仕事なんだ。そうやって僕を育ててくれているんだから、責めることはできない。もしもお父さんが生きていてくれたら、お母さんもあんな仕事をしなくて済むのに……。
父親は颯太が五歳のときに死んだと聞かされていた。
どういう仕事をしていたのか、どんな人だったのか、なぜ死んだのか、悠紀子はなにも話してくれなかった。
それどころか颯太が父親について訊ねると、とたんに不機嫌になり、ヒステリックに金切り声を張り上げたり物を投げつけたりするのだ。よほど思い出したくないことがあるのだろう。
悠紀子がいやがるのなら、無理に知りたいとは思わない。ただ、こんなとき、父親が生きていてくれたら母は酔客の相手をする必要もなく、ましてや寂しさに任せて男を連れ込んだりすることもないだろうと、つらい気持ちになるのだった。
だが、この気持ちの源は、本当に父親の不在だけが原因なのだろうか? あの男の代わりに父親が母を抱いていたとしても、やはり颯太は同じように嫉妬してしまう気がする。颯太は悠紀子を誰にも触らせたくないのだ。
耳を塞いだまま目を閉じると、さっき見た光景が瞼の裏に蘇ってきた。汗の浮いた悠紀子の白い裸体が妖しくうごめいている。火照った顔。やわらかく隆起したふたつの乳房。濡れた唇。どこか焦点の合っていない大きな瞳……。
ベッドにうつぶせに横たわっていた颯太は、不意に自分の股間に変化が生じるのを感じた。ハーフパンツの中で肉体の一部が硬く力を漲らせていく。戸惑いながら手を触れると、痺れるような快感が身体を駆け抜けた。
同時に猛烈な罪悪感がこみ上げてきた。母親が裸で男と肉体を重ね合っている場面を見て、興奮してしまったのだ。そのことに戸惑いながらも、股間の強張りに受ける快感は強烈だった。
颯太は股のあいだに腕を挟み込んだまま、胎児のように身体を丸めた。その体勢で腕を上下に小刻みに動かした。こうすれば気持ちいいということに最近気がついたばかりだ。
耳を澄ますと、ドアの向こうから微かに母の息づかいが聞こえてくる。
目を閉じて悠紀子の裸を思い出しながら、颯太は腕を擦りつけつづけた。快感は徐々にむず痒さに変わっていく。颯太の頭の中で悠紀子が悩ましく身体をくねらせ、媚びを含んだ笑顔を向ける。
自らの意志とは無関係に、股間に押しつける腕の力はさらに強くなり、動きも激しくなっていく。太股でしっかり腕を挟み込む。颯太の男の部分が押しつぶされそうになり、それがたまらなく気持ちいい。
やめようと思いながらも、自分を止めることはできなかった。
颯太は腕をさらに強く押しつけた。激しい性衝動が身体の底から断続的に突き上げてくる。全身に力が漲り、筋肉が硬直する。
あっ……。
なにかが尿道を駆け抜ける。同時に頭の中に白い火花が散り、いくつもの場面がフラッシュバックした。それはさっき目を覚ます直前に見ていた悪夢と同じ情景に思えたが、ほんの一瞬のことだったのではっきりしない。
気がつくと下着が濡れていた。もちろん、それは小便ではない。粘ついた生暖かい感触が下着の中を汚していた。
これって……。
知識としては持っていたが、経験したのは初めてだ。颯太は猛烈な後悔を覚えた。こんなことをするべきじゃなかった。
子供から大人へと自分が大きく変わってしまう予感に恐怖にも似た感情を覚え、熱い思いを放出して急激に冷静になっていく意識の中、颯太は自分が取り返しのつかない一歩を踏み出してしまったことを感じた。
2
日差しがやけにまぶしかった。明るい朝日の下を歩くには、今の自分は相応しくない。今朝の出来事が、颯太の心に暗くのしかかっていた。
足早に追い越していく通勤通学の人々の背中を、颯太はぼんやりと眺めた。彼らは皆、颯太のことを嫌い、避けようとしているかのようだ。
こんな情けない気分は初めてのことだった。そのくせ、今朝の出来事を思い返しただけで、学生ズボンの奥にむず痒い感覚が大きくなってくる。自分の性器から未知の体液が噴き出した際の、痺れるような快感の記憶が身体の芯を震わせる。
気がつくと、颯太の肉体の一部がまた硬くなり始めていた。同時に、猛烈な罪悪感がこみ上げてくる。
母親のことを思いながらあんなことをするなんて、僕は人間として欠陥があるんじゃないだろうか。何度も繰り返し考えたそんな思いが、颯太の意識の中で渦を巻く。
背後で自転車のベルの音が聞こえた。ぼんやりしていたため、知らず知らずのうちに道の真ん中を歩いていた。
慌てて端によけたが、それでもまだベルはしつこく追いかけてくる。
いったいなんなんだよ。振り返ろうと足を止めた颯太の前に回り込んで、自転車が甲高いブレーキ音を響かせて停まった。
自転車の前カゴには、テニスのラケットと黒い学生鞄が無造作に入れられている。
「どうしたの? 朝から疲れ果ててるじゃない」
爪先立ちの状態で、池谷朱里が明るい声で言った。特に裾を短くしているわけではないだろうが、サドルに腰掛けているために濃紺のプリーツスカートの下から健康的に日焼けした太股がのぞいている。
思わず颯太は目を逸らした。小さなころからの付き合いだが、今まで朱里をそんな目で見たことは一度もなかった。今朝の出来事が颯太にあらゆることを性的なイメージでとらえさせていた。
「なんでもないよ。ゆうべ遅くまでテレビを見てたから寝不足なだけさ」
わざと無愛想に言うと、颯太は自転車の脇を擦り抜けて歩き始めた。
「相変わらず態度悪いね。昔は可愛かったのに。学校まで乗っけてってあげるよ。ほら、後ろに乗って」
朱里が再び前に回り込んで、自転車を停めた。
颯太がよろこんで乗るものだと疑いもせずに、荷台を顎で示して視線で急かす。
いつもは颯太のほうから勝手に飛び乗ったりして、強引に学校まで二人乗りさせてもらっていたので、今日に限って拒否したら変に思われることだろう。
「じゃ、運転手さん。学校までよろしく」
鞄を胸に抱えると、颯太は大きく脚を開いて荷台に跨った。
朱里がむんっと力み、自転車が静かに動き始める。小学生のころからよく後ろに乗せてもらっていたので、朱里は二人乗りが上手だ。ほとんどバランスを崩すことなく、徐々にスピードを上げていく。
さっき颯太を追い越していった人たちを、二人乗りの自転車が追い越していく。風を頬に感じると、気分が少し楽になった。颯太に元気がなかったので、朱里はこうやって元気づけてくれているのだ。
同じマンションの同じフロアに住んでいるので、朱里とは小さなころからよく一緒に遊んでいた。缶蹴りや鬼ごっこ、少し大きくなってからはサッカーをしたりして遊んだ。異性というよりは、仲のいい友達といった感じだった。
それが中学校に上がってからは朱里がテニス部に入ったこともあり、ずっと同じクラスだったのに共に遊ぶことはほとんどなくなっていた。それでも、たまにこんなふうに朝の通学で一緒になることがあった。
◇ ◇ ◇