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おれはもう走れない…『バッテリー』を凌駕する青春小説の傑作! #2 ランナー

長距離走者として将来を嘱望された高校1年生の碧李(あおい)は、家庭の事情から陸上部を退部しようとする。だがそれは、一度レースで負けただけで、走ることが恐怖となってしまった自分への言い訳にすぎなかった。逃げたままでは前に進めない。碧李は再びスタートラインを目指そうとする……。

累計1000万部超えの『バッテリー』シリーズなどで知られる、あさのあつこさん。『ランナー』は、舞台を高校陸上部に移し、走る喜びを描いた青春小説シリーズです。

*  *  *

「どうぞ、使ってもいいよ」
 
杏子(きょうこ)が言う。受け取り、碧李(あおい)は頭を下げた。タオルは上質のものらしく柔らかで清潔な匂いがした。

「ありがとうございます」
 
「どういたしまして。あたし、部室の鍵をかけなきゃいけないんだけど、加納くん、カバンとか中に置いてる?」
 
「あっ……それは、だいじょうぶです」
 
このところ陸上部だけでなく、各部室内での盗難が相次いでいるとかで、学校側から施錠の徹底が何度も通達されていた。部室の管理は、概ねマネジャーの仕事となっている。自分が残っていたために、部室の戸締りができなかったのだ。杏子は、自分のペースで調整する後輩を辛抱強く待っていてくれたらしい。
 
「すみませんでした」
 
タオルを返し頭を下げる。かまわないよと杏子は呟きより少し大きめの声で答えた。低いけれど聞き取りにくくはない。急いても苛立ってもいない口調だった。
 
「加納くんが必要なことなら、別にいいよ。あたしはマネジャーなんだから、気を遣わないでいいから」
 
碧李が杏子の顔を思わず見つめてしまったのは、その一言が優しく親切な内容のわりに、ひやりと冷たい質感を持っていたからだ。見た目と手触りがまるで違う。そんな感じだった。数秒見つめ、視線を逸らす。そのとき、杏子の杏は妹の名前にもあると気がついた。
 
「きれいだね」
 
と、杏子が言った。
 
「夕焼けですか?」
 
「加納くんよ」
 
「は?」
 
「走ってるフォーム。かっこいいとかちゃんとしてるとかじゃなくて、きれいだと思うよ」
 
「あ……どうも」
 
「きれいというのは、理想的なフォームってことなのかな。走るために一番適した形みたいな……違う?」
 
「さあ」
 
「自分が、アスリートとして一流になれるって思う?」
 
「いや、思いません」
 
「謙虚なんだ」
 
「自信がないだけです」
 
中学のときから、ずっと走ってきた。いやもっと前だ。記憶をたどれば、薄(すすき)の群れが浮かぶ。そして、やはり朱色の空があった。河土手を走っていた。車両通行禁止の狭い道を日の沈む方向に走っていたのだ。猛々しいほど伸びた薄の穂先は碧李の背丈より高く、走っても走っても尽きることを知らず、走る身体の傍らで揺れていた。何歳のときの記憶なのかわからない。ただ走る快感と陶酔と恐怖を確かに感じた自分を覚えている。
 
長距離は好きだ。走り、走り、走り続けていくうちにあらゆるものが剥離(はくり)していく感覚が好きだ。記録だとか順位だとか表彰台だとか声援だとか結果だとか努力の証だとか、あらゆるものが剥がれ離れ落ちていく。自分が透けて、記憶の古層が現れ、そこから快感が香りたつ。快感は、このまま未知のどこかに運ばれてしまうという恐怖に繋がり、未知のどこかに行けるのだという快感を新たに掻き立てる。剥離していくことの、透けていくことの、未知に向かうことの快感と陶酔と恐怖を碧李は、薄の穂先に満たない背丈のころから知っていた。だからといって、自分が一流選手になれるとは考えていない。なりたいという望みもあまりない。一流というものがどういうものなのか漠然ともわからないけれど、好きなだけで到達できる場所ではないだろう。
 
「けっこう、醒めてんだね」
 
杏子がタオルをふわりと回す。
 
「いえ」
 
醒めてはいない。自分の周辺を見下ろして冷笑するようなゆとりなど、どこにもない。
 
ひやりと冷たいのはむしろ、先輩の方でしょう。
 
言葉にはしない。代わりのように息を軽く呑み込んでいた。
 
「ごめんなさい」
 
唐突に杏子が謝る。口調が急いて少し居丈高にさえ聞こえた。
 
「つまんないこと言っちゃって。さっ早く帰って。あたし、部室の点検をしなくちゃならないから」
 
唇が形よく尖り朱に染まって、どこか淫靡な雰囲気になる。

碧李が部を辞めたのは、それから半年後のことだった。


「練習といっても、おれ、退部した人間ですし……」
 
白い受話器を握り杏子の声を聴いている。
 
「それが、してないのよ」
 
「は?」
 
「うちの監督、加納くんの退部届受理してないって」
 
「そんな……」
 
「休部ってことになってるの。知らなかった?」
 
「まるで知りませんでした」
 
退部届を提出したとき、部員からミッキーと渾名される箕月監督は手のひらに封筒をのせて、うーんと低く呻いた。
 
「退部理由は?」
 
「一身上の都合で」
 
「また便利な言葉を知ってるんだな」
 
苦笑いの後に、箕月(みつき)はため息を一つついた。
 
「おれは、嬉しかったんだがなあ」
 
「え?」
 
「おまえが入部したとき、けっこう嬉しかった。変な言い方だけど正直、いい素材を手に入れたって思ったからな」
 
「すみません」
 
「謝ることはない。ただな、おれに、じっくり付き合ってもらいたかったんだよ。長距離走者ってものがどういう人種なのか、おまえに本気で教えてみたいってな。そういうつもりだったんだ。おまえはまだ自分のことが何にもわかってないんだよ、加納。自分の中にどのくらいの力が眠っているか、まるっきりわかってない。おれは……だからなあ……」

魅力的な言葉だった。上背はさほど高くないが贅肉のない箕月の身体は、高校、大学と駅伝の選手だったという昔日の姿を微かながら残している。まだ緩んでいない身体の線や威圧の欠片もない物言いや不器用に言いよどむ口元が、その言葉を信じさせてくれる。
 
魅力的で誘惑的な言葉だ。
 
長距離走者ってものがどういう人種なのか、おまえに本気で教えてみたい。
 
走る。走る。ただ一人、走る。ただ一人、走り続ける。それはどういうことなのか、知りたいとも願い、知っているようにも感じる。
 
ふっと、薄の穂先が揺らめいた。
 
「すみませんでした」
 
もう一度、頭を下げようとした碧李の動きを手で制して、箕月は退部届をポケットにしまった。
 
「とりあえず、預かっとく」
 
「お願いします」
 
「加納」
 
「はい」
 
「おれの目が行き届いていないってこともあるが、部内に何か問題があったとは思えんのだが」
 
「何もないです」
 
監督の人柄なのか、部の色なのか、東部第一高校の陸上部には、運動部特有の上下関係も杓子定規で無意味な取り決めもなかった。さほど強くはないけれど、その分、自由で闊達な雰囲気がほこほこと漂っていた。小さな軋轢や些細な諍いは、日常的にあったけれどそれでも、居心地の悪い場所ではなかった。問題など何もない。未練は存分に残っているけれど。
 
空咳を二つして、箕月はもう一度、加納と呼びかけた。
 
「もし……差し支えなければ、その一身上の都合とかを話してくれんかな」
 
箕月の言い方には、教師としての押しつけがましさも義務感も潜んでいなかった。反感は湧かない。いい先生だなと思う。だからこそ黙する。唇をそっと噛み締めて、沈黙を守る。担任ではないけれど、一年生全クラスの古典を担当している箕月は、むろん碧李の家庭事情を把握しているはずだ。
 
「部を辞めるっておまえが決めたなら、どうしてもそれしかないなら、おれには無理強いはできん。けどな、惜しいんだよ、加納。あまりに惜しすぎる。自分の可能性をみすみす葬ったりするなよ。おまえ、まだ十七歳にもなってないだろう。未来のためにここで、何とか踏ん張ること、できんのか」
 
微かな吐き気を覚えた。箕月の真っ当な言葉に初めて心が違和を唱える。何かがどこかが違う。惜しんでくれるのはいい。慮ってくれることもありがたい。
 
だけど違うんです、監督。可能性とか未来とか、そんな先のこと関係ないんです。
 
かといって今だけが大切だとか刹那を楽しもうとか考えているわけでもない。将来に対する不安や期待も人並みに持っている。ただ、踏ん張れない。自分の可能性や未来のために今を踏ん張ることはできない。できるとしたら……奥歯をかちりと噛み合わせ、黙り込む。
 
箕月は僅かに俯いた碧李の横顔から、眼差しをはずそうとしない。おまえの言葉を待っているんだという視線が、ひどく重い。
 
「ほんとうに、すみませんでした」
 
三度目の辞儀をして足早に箕月の前から去った。箕月は呼び止めなかった。
 
あれで、終わったんじゃなかったのか?
 
「休部って、どういうことなんでしょうか?」
 
杏子に尋ねてみる。我ながら間の抜けた質問だなと思う。
 
「だから、まんま。部を休んでるってこと。ユーレイ部員とかとはビミョーに違うよ。つまり」
 
そこで言葉を切り、杏子はくくっと小さく笑った。幼女のような屈託のない笑い声だった。
 
「一身上の都合で、やむなく部を休んでいる。都合により、復帰の可能性あり。そういうことみたいよ」
 
「はあ……」
 
「嫌?」
 
嫌とか嫌じゃないとかいう問題ではないような気がする。退部は自分で決めたことだ。理由はどうあれ碧李の明確な意志だった。それなりに悩んだし、鬱々とした気分も味わった。それでも決めた。今は、走っているときではないのだ。走るより他に大切なことがある。守らねばならないものがある。一身上の都合とはそういうことだ。その一言の裏に碧李なりの意思決定がある。尊んでほしかった。箕月の監督としての一方的な判断で保留のまま、つまり宙ぶらりんのままにされていたなんて、情けない。そう、何だか少し情けない。腹立ちより惨めさを覚えてしまう。大人にとって、十六歳の意思決定など何ほどのものでもないのだろうか。
 
今のおれの力って、その程度のものなのか。簡単に覆されたり蔑(ないがし)ろにされたり、その程度のものでしかないのか。だとしたら、守れるんだろうか。
 
手のひらで、ガラスを拭いている杏樹(あんじゅ)をちらりと見やる。ちょっと卑屈になってるかなと、自分で自分を諫める。過敏で、落ち込みやすくなっているのかもしれない。走っていないからだろうか。
 
走って、走って、結晶となる。纏いつく全てが剥離し、純粋結晶としての自分だけが残る。さらに走れば自分であることさえ薄れ透明になっていく。そんなことを感じながら地を蹴り、前に進む時間をこのところ、完全に失っていた。

◇  ◇  ◇

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